第32話 少年たちの戦場
「イスメト……ほら、見ろよ。俺も手に入れたんだ」
ジタは一歩、また一歩と近づいてくる。
その手に握られた闇の槍は、見たところまだジタとの融合を始めていない。ジタはいつも通りのジタ。体に鱗の一つもない。
だが、微笑しながらもこちらを睨むその目は、ぞっとするほどに暗く、冷たかった。
「手に入れたって、何を……」
「神器だよ。セト神が、俺にも授けてくれたんだ」
そんな話がありえないことは、イスメトが誰よりも知っている。
セトはずっと自分と行動を共にしていた。ジタに神器を渡す暇などなかった。
となるとジタはすでに正気を失っているのか。
あるいは、なんらかの術にかけられているのかもしれない。
「……ジタ。落ち着いて聞いてくれ」
いずれにせよ、友を救えるのは自分しかいない。
イスメトは慎重に彼へかける言葉を探した。
「それはセトの神器じゃない、アポピスの――混沌の呪具なんだ! そのまま持っていたら危険だ!」
「あ? なんだよ、僻んでんのか? お前以外の〈
「そうじゃない! それは人の魂を狂わせて魔獣に変えるための道具なんだよ!」
ジタは口元から笑みを引っ込めた。
「へっ……言うに事欠いて、なんだよそれ。そんなヤベェもん、神官が渡してくるわけないだろ」
ジタがまた一歩間合いを詰め、イスメトは神器を構える。
恐らくジタは魔獣化した神官たちか、その関係者を通して呪具を渡されたのだ。
そしてその時に、都合のいい話を吹き込まれた。
こうなれば力づくで呪具を奪い取るしかない。
「もっと喜んでくれよ。俺はお前のこと、ちゃんと祝福してやったぞ……親友だと思って」
「……っ」
しかし、イスメトは最初の一手を踏み出せずにいた。
ジタは混沌に操られている――そう確信できたなら、きっとここまで心は揺るがなかっただろう。
だが気づいてしまった。
ジタは正気だ。
その瞳は黒いが、闇に毒されてなどいなかった。
目の前にいるのは、オベリスク前で対峙した男と同じ。痛みに耐えるように表情を歪めてこちらを真っ直ぐに睨む、親友そのものだった。
「でも、お前は結局……俺とは何もかもが違うんだな」
最初に動いたのはジタだった。
下からの振り上げ。イスメトは受けずに地を蹴って退避する。槍のリーチを最大限に活用した様子見の一閃。ゆえに避けることはたやすかった。
だが、ジタが握るのは呪具だ。振り抜かれた槍からは混沌が飛び散り、周囲の戦士たちに降り注ぐ。
ジタはそれに気づいていない。
あの目はきっと、イスメトしか見えていない。
「やめろジタ! こんな形でお前と、戦いたくない……っ!!」
それは心からの懇願。
だが今のジタには逆効果だった。
「っ、なんだよそれ……ッ! これでもまだ足りないってのか! 俺みてぇな雑魚は、お前と
「そうじゃない! 見えないのか! その槍は皆を――っ!」
言い終わる間も与えず、ジタは距離を詰めてくる。
足元を抉る鋭い刺突。追撃を防ぐため、イスメトも刃をぶつけて押さえ込む。そのまま両者の槍は滑り、柄と柄を押し付け合うつば迫り合いに移行した。
互いに相手の隙を探り。
構えを変えて打ち込んでは、防がれて距離を取る。
陽動と牽制を繰り返す、静かな攻防。
それは紛れもなくジタの――長年、しのぎを削ってきた友の太刀筋に違いがなく。
だからこそ余計に、イスメトの胸で虚しさが鳴いた。
こんなものは試合ではない。
仮にあの槍で勝利を収めたとしても、それはジタの望んだ決着ではない。
だがジタは、そのことに気づいていないのだ。
「なんで、なんだよ……」
幾度と槍を打ち合わせながら、ジタは悲痛な声を漏らす。
「なんで、いつも……っ、お前なんだよ!」
普段のジタならばこんな取り乱し方はしない。魔獣化はしていなくとも、呪具が彼の精神に何らかの働きかけをしていることだけは確かだ。
だがそれを差し引いても、ジタの目は痛ましいほどに真摯だった。
その言葉に、感情に、歪みなどない。
それゆえに友の言葉は、イスメトの胸を容赦なく抉る。
「オベリスクに登るのは……俺だった、はず、なのに!」
「っ、ジタ……!」
重くなっていく斬撃。イスメトは次第に防戦一方になる。
槍を弾き、押し返し、またせり合う。
互いの得物を押しつけ合いながら、再び友の顔が近づいた。
「ジタ……っ、僕はお前に、言わなきゃいけない!」
イスメトはもはや、隠し置いた思いを打ち明けるしかなかった。
「僕は本当は……っ、実力でオベリスクに登ったわけじゃ――!」
「――んなこと、とっくに気づいてんだよ」
イスメトの予想に反し、ジタは不気味なほどに静かに返した。
「え……?」
力の均衡が崩れ、ジタに押し返される形でイスメトは間合いを取らされる。
ジタはそこへ追撃を仕掛けるでもなく、槍をだらりと体の横へ下ろした。
「……オベリスクの前で、お前、神と話してただろ。俺を邪魔した砂も、少し考えりゃセト神の仕業だったって分かる」
イスメトは愕然とした。
ジタは最初から、イスメトがセトと共にオベリスクへ向かったことに気づいていたのだ。そしてそれを責めるでもなく、いつも通りに接してくれようとした。
――そんな彼に、自分はどう返したのだったか。
「お前が神と、いつどこで会ってようが、お前が成し遂げたことは変わらねぇよ。お前がどんだけスゲェことやったかなんて、あの大怪我見りゃ誰だって分かんだよ……っ!」
再びジタが距離を詰めてくる。
受け止めた一撃は、今までで最も力がこもっていた。
「俺が! 俺がイチバン気にくわねぇのはなぁイスメト! お前のその目だよッ!!」
押し負けてたたらを踏む足。
そこへ追い打ちをかけるジタの刺突。
何度打ち払い、受け流しても、ジタの攻撃は――怒りは、止まらない。
「お前はなぁ! 俺が欲しかったもの、全部持ってんだ! 神に見初められる前からずっと……ずっとッッ!!」
いつしかイスメトはまともに構えを取れなくなる。
それほどまでに乱されていた。
心はただ、ジタの言葉だけを聞いていた。
「誇れる父親! 生まれながらの才! 他人を無条件に思いやれるまっすぐな心根に、精神力! 俺とは何もかもが違う! 飲んだくれの息子なんかとは、何もかも――ッ!」
事故で死んだジタの父親のことを、イスメトはあまり覚えていない。
ただ一つだけ、覚えている光景がある。それは葬儀の場面だ。イスメトと両親、ジタとその妹。たった五人だけの葬儀だった。
それだけ、その男は村人から嫌われていた。
その息子だったジタも、何かにつけては悪者にされていたことをイスメトは知っている。そのほとんどが冤罪だったことも。
「だってのにお前は! こんな俺なんかをダチだとか抜かして! 散々引っ張り回して余計な夢なんか見させて……! それが……っ、なんだって今さら、俺の前であんな顔しやがるッ!」
気づけばジタの槍は止まっていた。
代わりに伸ばした腕でイスメトの胸ぐらを掴み、引き寄せる。
「全てを持っていながら! 誰もが羨む力を手にしながら! なぜお前はそれを誇りに思わない!? 胸を張らない!? もっと威張ってくれよ! もっと誇らせてくれよッ!! あいつ俺のダチなんだって――自慢できる男でいてくれよ!!」
ジタはイスメトから手を離し、その場に崩れ落ちた。
地に両手をつき、ただ地面に顔をうずめる。
イスメトもまた、ゆっくりとその前に膝を落とした。
「お前になら負けてもいいって……本気で……っ、思わせて、くれよ……っ!」
言葉など、出てこなかった。
ただ歯を食いしばり、後悔した。
恨みも、妬みも、僻みも。全てを飲み込んで。
ジタは友の成功をただ祝福してくれようとしていたのだ。
そんな親友に対して、自分は何を返した?
『あの場所にいたのが僕じゃなくて、たとえばジタだったなら、今ごろ英雄になっていたのは――』
同情だ。
心からの祝福を告げようとしてくれた友に、哀れみを向けたのだ。
それこそ、最低の裏切りじゃないか。
「オベリスクの前で、俺に言った言葉……あれは全部、嘘だったのか」
「違う……違うよ、ジタ。僕は本気だった。本気でお前と向き合いたくて……だから……」
ジタがゆっくりと顔を上げる。
黒い瞳は凪いだ湖のように静かで、どこか物悲しかった。
「僕はお前に……謝らなきゃ……!」
だがその瞬間、ジタの瞳に再び闘志が燃え上がる。
まるで火に油が注がれたかの如く。
「っ、そういうトコだよこのボンクラがぁぁッ!!」
低い体勢から繰り出される俊速の突き。イスメトは横手へ身を投げ出し、なんとか避ける。
とっさに槍を構えたところへ、すかさずジタは肉薄した。
「神に見初められるほどの才能があってゴメンってか!? ざけんじゃねぇ!!」
「僕に才能なんかない! セトがいなきゃ本当に、何もできなかった!」
「だから!! それが俺への侮辱だって、なんでわからない!!」
「わからないよ! 勝手に理想を押し付けて、勝手に失望してるのはそっちだろ!!」
激しい剣戟の音が続く。
鳴っているのは打ち合わされる刃か。
それとも刃を握る少年たちの心の方か。
「お前がどれだけ信じてくれたって、オベリスク攻略どころか魔獣一匹倒せない――それが本当の僕だ! セトに出会わなきゃ、今だってそうだったさ!」
幼い頃から何度も繰り返してきた。
本気で怒って、本気で殴って、生傷を作って最後は仲直り。
それが二人の、いつものやり方。
だが今は、拳を握る代わりに本物の刃を握っている。
悪ふざけでは済まされない致命の一撃が飛び交うここは、紛れもなく少年たちの――戦場だった。
「だから……っ、お前が苦しむ必要なんて……ッ!!」
ジタは強い。逆境を跳ね除け、自力で〈
それが、神器を持ったから対等だとか、依代じゃないから不釣り合いだとか、そんな風に思い詰めてこんな事態になったというのならば、いっそ――
僕は神に、出会うべきではなかったのかもしれない。
「僕は本当に、英雄になれる器なんかじゃないんだ――……ッ!!」
ギィィン、と。打ち合う刃がひときわ大きく鳴動した。
イスメトは目を見開く。
目の前でキラキラと、赤い煌めきが散っていくのが見えた。
『神器の力ってのは、主人の魂に呼応する』
いつか聞いたセトの言葉が、不意に頭の端を横切る。
『テメェのその思いが揺るがぬ限り、槍もオマエに応え続ける』
砕けていくのは呪具ではなく、赤い刃。
イスメトの握る、セトの神器の方だった。
「がっ、は――……ッ」
経験したことのない痛みと灼熱が、イスメトの左側を襲う。
肩口から胸へ、深々と下りてくる闇の切先。
武器を失ったイスメトに、止める術はない。
「へぇ……そうかよ」
友への致命的な一撃を振り下ろした少年は、その刃をゆっくりと引き抜きながら感情の失せた声で呟く。
「そんなに後ろめたい力なら……俺にくれたっていいよな? やっぱ優しいんだなお前は……俺を本当の〈
異様なまでに見開かれたジタの瞳。
それを徐々に侵食していく、混沌の闇。
――駄目だ、ジタ。
声を出そうにも、イスメトの口から漏れるのは荒い吐息だけだった。崩れ落ちながらも伸ばした手は、友に触れることさえかなわない。
目に映る全てのもの、全ての時が、随分とゆっくりに感じられた。
ジタはさらに一歩、間合いを詰める。
再び持ち上がる黒の槍。
だがその切先は、戸惑うように震えていた。
「コイツがさぁ……お前を殺せば、全部手に入るって言うんだよ……」
まるで幼な子のような声色だった。
闇が渦巻く
「だから……なぁ? 仕方ないんだ、イスメト……」
暗い欲求を自ら拒むように、震えていたジタの槍。
その震えは、やがて止まる。槍に巻きつく蛇の意匠が、柄から這い出てジタの右腕へと巻きついていく。
やがて両腕に構え直された槍は、まっすぐにイスメトの胸に狙いを定めた。
「オレ、ト……ヒトツ、ニ……」
耳鳴りのような闇の声音が、少年の声と重なって。
血飛沫が、舞った。
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