第31話 ラフラ防衛戦
ラフラの町は混乱に包まれていた。
その巨体で日常を蹂躙する、黒き大蛇。しかも一体ではない。
「アポピスが……増えてる!?」
カルフを駆るイスメトは我が目を疑った。
街の外からでも見える巨体が三つ、闇の体をうごめかせ暴れている。当然、人々はパニックに陥り、散り散りに砂漠へと逃げていた。
そんな避難民たちを轢いてしまわぬよう、カルフが減速を始める。
「イスメトくん!」
不意に、聞き知った声がイスメトを呼び止める。
数頭のラクダを引くメルカだった。
「メルカ! 無事でよかった!」
「た、大変なの! 神官様が……っ! アタシ、何がなんだか……!」
メルカは酷くうろたえた様子だ。懸命に何かを伝えようとするも、言葉が上手く出ないようだった。
「落ち着いて。ゆっくりでいいから」
「し、神官様が……突然、胸にナイフを……そうしたら、あの怪物になっちゃて……!」
神官が怪物に——なる?
【ハッ──どうりで。アレが感染させたにしては拡散が早すぎる】
セトには思い当たる節があるようだった。
「西の砂漠へ行け! 我が神獣が守護する!」
セトは人々に呼びかけると、カルフの歩みを再開させた。
「……一体、どういうことだ?」
【敵はアポピスだけじゃねェってことだ】
セトは焦燥を滲ませた声音で告げる。
【ニンゲン──それも恐らくはホルスの神官どもの中に複数、混沌に魂を売っちまったヤツがいる。そいつらがアポピスの指令を受け、今回の事を起こした可能性が高い】
「神官様が……!?」
【自刃することでアポピスに変容したと、商人は言った。昔、同様のやり方で混沌に自ら魂を捧げるニンゲンが続出した例がある】
「そんな! なんだってそんなことを……!」
セトはハッと短く息をつき、呆れるように肩をすくめた。
【いつの世にも存在するものだ。いっそこの世など消えちまえばいいと──無責任にも願っちまう愚かな輩が】
まるで自嘲するような笑みだった。
【こっからは二手に分かれるぞ。あのデカブツ三体は俺が引き受ける。テメェはその間、奴らの依代を見つけ出し、殺せ】
「殺、す——……」
あの巨大な蛇たちは実体を持たない混沌の化身。物理的な攻撃は効かないくせして、他の魂は侵し放題という伝染病のような存在だ。最も厄介なそいつらをセトが相手取るのは道理。オベリスクの主の時と同じ戦略である。
問題は、あの蛇たちが依代としている存在だ。
メルカの話が事実ならば、その依代とは神官——人間である。
【……哀れと思うなら一息にやれ。どのみちその神官どもは手遅れだ。自刃に使用された刃はおおかた、混沌を宿した呪具。そいつらは自ら進んで魂の座である
セトはイスメトの頭にあるイメージを送ってくる。
浮かび上がるのは神官風の男の姿。
男は祭壇に置かれた蛇の彫像へ何度もひれ伏しながら、黒く禍々しい短剣を自らの胸に突き立てる。
倒れた男。その体からは血の代わりに混沌の闇が吐き出され、やがては魔獣と呼ぶべき姿へと変貌した。
「っ! 今のは……」
【
セトが顎で示す先には、闇を吐き散らし暴れる大蛇の姿がある。
「……もう、元には戻せない。そういうことなんだな?」
【呪具が体内に取り込まれちまったなら手遅れだ。そうじゃねェ奴がいた場合は呪具を砕け。助かるかどうかはそいつの生命力次第だが】
「……分かった」
イスメトの返答を聞くや、セトは跳躍。家屋の上を跳び渡り、最短距離で大蛇たちへの距離を詰めていく。
【敵のおおよその位置は神獣が嗅ぎ分ける。抜かるなよ】
その思念を最後に、セトの姿はイスメトの視界から消えた。代わりに遠方で響く、轟音と悲鳴。立ち上るのは砂煙だ。早くも戦いが始まったらしい。
「頼んだぞ、カルフ!」
「ピギュルアァッ!」
カルフは迷いのない足取りでラフラの路地を駆けていく。幾度目かの角を曲がったところで、ソレは姿を現した。
見慣れた白いローブを着込んだ男。だが顔に覚えはない。
当然だ。男の頭部はすでに人間のそれではなかった。
一言で表すなら、コブラの頭。
褐色の肌には鱗がびっしりと並び、首は長く太い。その太さを実現しているのは異常なまでに横方向へと発達した首の骨、あるいは筋肉だ。
胸には柄までズップリとめり込んだ短刀らしきものが見受けられる。恐らくはあれがアポピスの呪具だろう。
迷っている暇はない。
時間をかければかけるほど街に混沌は広がり、セトの負担と犠牲者が増えるだろう。
「——〈
イスメトは左手に刻まれた五つの刻印のうちの一つを消費し、カルフと共にその身を疾風へと変える。目標とすれ違う寸前で神獣の背を蹴り、特攻。体を捻りながら槍で弧を描く。
人々を追い回すことに夢中だったコブラ男は、イスメトの急接近に気づくことすらなく、その首を横手から刎ね飛ばされた。
【よし、次だ!】
セトの思念が届くと同時に、巨大な蛇が一体、赤い稲妻に切り裂かれて消える。セトが止めを刺したようだ。
カルフは着地したイスメトをすぐさま鼻で掬い上げ、別の通りへ向かう。
敵は塔のヌシよりも圧倒的に格下だ。
残り二体も同様なら、早めに決着がつくだろう。
あくまでも、
そう自分に言い聞かせながら、イスメトは神器を握り直した。
二体目の神官も、やはり魔獣化が進行していた。
こちらは顔こそまだ人間らしいが、肌は例のごとく鱗に覆われ、腰から下は完全に蛇。壁際に追い詰められた母子へと、爬虫類のような黒い腕を伸ばそうとしていた。
「やめろ!」
イスメトはだらりと伸びるソレの尾へ、槍の穂先を突き立てる。
言葉にならない悲鳴を上げた異形は、半身をくねらせてイスメトに絡みつくも、カルフの蹄に踏みしだかれ力を弱めた。
その隙に拘束を抜け出したイスメトは、尾に刺さったままの槍を滑らせ、男の
止めとばかりにカルフの牙が男の上半身を突き上げる。体のほとんどを失った男は宙を舞いながら、闇の塵となって霧散した。
「やるなカルフ!」
「ピギュルゥ!」
神獣の手助けもありながら、順調に敵を減らしていくイスメト。
何度も頭を下げる女性とのやり取りもそこそこにカルフへ跨り、次の目標を探す。
残り、一体。
だが、そんな一人と一匹の快進撃を止めたのは、まさかの人物たちだった。
「アッサイ!?」
路地を抜け、神殿前の広場へと至る。そこでイスメトの前に立ち塞がったのは武器を持った男たち——イスメトの故郷、テセフ村の戦士団だった。
「良かった! 無事で——」
「イス、メト……」
イスメトは先頭に立つアッサイへ駆け寄ろうとして、違和感に足を止める。
同じだ。エストの時と同じ。
アッサイの目はどこか虚ろで、黒く
「カク、ゴ……!」
武器を構え、襲ってくる男たち。
だがその体のどこを見ても、呪具らしきものは刺さっていない。
【混沌の影響だ! そこら一体、やけにアポピスの気配が濃い!】
イスメトの動揺を察知したセトが、思念で助言を飛ばす。
【どっかに元凶がいるはずだ! ソイツを探せ!】
防戦しながらも見渡すと、すぐにそれらしき男が目に入った。
浮浪者のようにユラユラと広場をうろつく男。背中からは無数の黒い蛇が生え出て、四方八方に闇を垂れ流している。
「アッサイ……っ、ごめん!」
イスメトは受けた師の槍を弾き返し、石突でその額を打ち付ける。脳を震わされた男は小さな呻きを残して崩れ落ちた。
いつもの彼が相手だったなら、ここまで簡単にはいかなかっただろう。恐らく戦士たちはまだ完全に混沌に落ちてはいない。魂の内で抗っているからこそ、体の動きが鈍いのだ。
カルフは周囲を駆け回り、体当たりで戦士たちを翻弄してくれている。お陰で道が開けてきた。
「……っ、お前の、せいで!」
イスメトは次々と遅い来る仲間たちの攻撃を掻い潜りながら、元凶と思しき男への距離を詰めていく。
「ア、ァ——……ァ、ァァ——……」
男は何事かを呻きながらただ彷徨うだけ。
攻撃を仕掛けてくる気配もない。むしろ隙だらけだ。
イスメトは間合いを詰めながら、男を確実に仕留めるべく、上と下、どちらの急所を狙うかの最後の算段をしていた。
その時。
「タス、ケテ……」
「——っ!?」
耳を疑う言葉に、踏み込む足が鈍る。
槍を叩き込む直前で手を止め、後退。いったん男から距離を取った。
改めて見ると、男の胸に呪具らしきものは刺さっていなかった。代わりに背中から生え出た突起に目がいく。それは、柄が蛇の形をした
この神官だけ、先の二人とは明らかに状況が異なる。あんな風に背中へ剣を突き立てるなど、自力ではまず不可能だ。
つまり彼は、何者かによって呪具を刺されたということになる。
——この人はまだ、助けられるかもしれない。
イスメトは狙いを変え、今度は男の背後から近づく。
背中から生え出た六頭の蛇たちは、男とは対照的に交戦的。イスメトの接近に気づくなりその体を伸ばし、次々に牙を繰り出してくる。
だが遅い。先ほどまで相手にしていたホルスの矢に比べれば、付け入る隙などいくらでも見つかる。
槍を大きく薙いで頭三つ、返し刀で二つ、突き出した石突きで最後の一つを貫いて、イスメトは男の背中へたどり着いた。
「頼むセト! 力を——!」
イスメトの願いに呼応し、左手の刻印がまた一つ、弾ける。
男はその場にくずおれる。
駆け寄ったイスメトは、男の呼吸音を確認してほっと息をついた。
「これで、依代は全部——」
しかし不意に殺気を感じ取り、イスメトはその場から飛び退く。
直後、地を穿ったのは見覚えのある槍だった。
「な……んで……」
こちらへにじり寄って来るのは、村の戦士たち。
その目は変わらず闇を見つめ、イスメトのことは見えていない。
(あの人は、依代じゃなかったのか!?)
【いや、蛇の大元は断たれた。こっちはまだ一匹逃げ回ってやがるが、それもじき捕まえる。これで戦士らの洗脳が解けてねェってなら、まだ呪具を持ってる奴がいるってことだ】
イスメトは立ち上がる男たちの得物を一つずつ見やる。
どれも呪具の特徴には当てはまらず、見慣れた村の槍に見えた。
「ピギュルルッ!」
手詰まりとなったイスメトへ、きっかけを与えたのはカルフだった。
先ほどから鼻を鳴らし、一方向を見つめている。
その視線の先には大神殿の入り口があった。
神殿からおもむろに歩いてくる人影を見つけ、イスメトの背に嫌な汗が流れた。
「よお、イスメト……ちょうどよかった」
現れたのは黒髪黒瞳の少年。
その手には黒い刃の槍が握られている。柄に蛇の意匠が巻き付いた、禍々しい槍だ。
イスメトの知る限り、彼の家でそんな槍を見かけたことはない。
「ようやくお前と、
ジタは長い前髪の下で、感情の見えぬ瞳を細めて笑う。
彼が槍を持ち上げた途端、それまでイスメトを襲っていた戦士たちが示し合わせたかのように武器を下ろし、両者から距離を取った。
まるで、ジタの意志に従わされるかのように——。
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