第25話 セトの野望

「エストを助けたら、もう――お前との契約はおしまいなんだろ?」


 静かな古神殿に、一人の足音と炬火たいまつの炎の音だけが響く。


【…………ア?】


 しばらくしてその静けさを破ったのは、セトのあまりに間の抜けた思念だった。


【オマエ……何言ってやがる? むしろこっからが本番だろうが】

「……へ?」


 イスメトも同様に、素っ頓狂な声を発する。


「そ、それって……もう一度、僕と契約してくれるってこと?」

【こっちはとっくにそのつもりで色々と進めてきたワケだが? あんな盛大に祭りまでやっといて、依代が急に変わったら民だって大混乱だぞ?】


 言われてみればそうである。


【オマエの野望は親父の仇を討ったら終わりか? 確か、歴史に名を残す英雄に~……とかなんとか言ってなかったか?】

「なな――ッ!? なんでそれを!?」


 そんな小っ恥ずかしい夢までセトに話したことなんかあっただろうか――と考えて、そういえば父が死んだことも、その父に憧れて戦士を志したことも、一度だって話したことがなかったなと思い出す。


 神様にはなんでもお見通しというわけだ。


【まだオマエの、そして俺たち・・・の夢は終わっちゃいねェんだぜ? 次はオマエを世界一の英雄に──この国の王にしてやるんだからなァ】

「お、王!?」


 イスメトは危うく石段を踏み外しかけた。

 取り落として転がり始める炬火たいまつを慌てて拾う。


「そそ、それはやり過ぎっていうか! そ、そこまでは考えてなかったっていうか……!」

【ハァ? 何言ってやがる。歴史に名を残す英雄だろ? つまり王だろ?】

「いやいやいや! それはさすがに極論すぎる!」

【オベリスクでの戦いを見て分かった。お前には天性の才がある。だが今はまだ種だ。その最高の種を、最強の庭師が育てれば――つまり俺がいれば、テメェは王の座にさえもおさまる素質を持っている。そう言ってんだ】

「な!? さ、さすがに買い被りすぎ――」

【ハッ! クソガキの分際で俺の目利きにケチつけるってか! 言っとくが、こっちはテメェの何千倍も生きてんだぞゴラッ!】


 セトは人身の姿を現したかと思うと、イスメトの胸ぐらを掴む。

 そういえば初めて会った時もこうして宙ぶらりんにされたっけ――などと懐かしんでいる場合では絶対にない。


「だ、だからって! なんで王になるって決まっちゃってるんだよ!?」

【それが俺の悲願だからだッ!!】

「えっ……?」


 イスメトは目を丸くして、まじまじとセトの顔を見上げた。

 その戸惑いと好奇の混ざる視線をどう感じたのか、セトは片腕でイスメトの体を背中越しに放り投げる。


「どわあっ! ――っと」


 なんとか受け身を取れた。


【――そうだ、俺には野望がある。だがそれは、依代の協力がなければ決して成せぬことだ】


 それまでの荒々しさは急になりを潜め。

 セトはいやに真面目な口調で続ける。


【依代を王にして国神となり、〈砂漠の民〉の国を創る――それがこの俺の野望にして、存在意義だ】


 存在意義。

 そこまで言い切るあたり、さすがはセトだとイスメトは感服する。


「だから、ホルス神のことにあんなに目くじらを立ててたのか……」

【うるせェその名を出すな殺すぞ】


 セトの声がワントーン低くなった。図星だったのだろう。

 つまり、セトとホルスは国神の座を巡って争うライバルということだ。


【ともかく、だ。テメェの悲願は叶えてやった。娘もすぐに助けてやる。ゆえに、今度は俺の野望に付き合えと言っているんだ、イスメト】

「う……」


 セトから差し伸べられた手。

 一瞬、反射的に掴んでしまいそうになるが、イスメトは思いとどまった。


 ――コイツ、ここぞとばかりに名前で呼べば、僕が喜んで従うとでも思っていないか?


【チッ……ダメか】


 ――やっぱり思ってた。


 セトは重々しい空気を一変させ、後ろ手を振りながら階下へと歩き出す。


【考える時間がいるってんなら、いくらでもくれてやるよ。その代わり、次の願いは数日中に考えておけ。再契約にはテメェの願いが必須なんだからな】

「わ、分かったよ」


 セトはその手に得物を召喚しながら、イスメトを振り返るでもなくズカズカと歩を進める。肉体には戻らず、このままエストの元まで行くつもりらしい。

 イスメトも小走りでその後を追った。


 とりあえず、王になりたいという願いだけはないな。絶対に。


【――もっとも。俺にはオマエの願いがすでに見えている。頭でこねくり回してそれっぽく見せてる表向きの願いじゃねェ。もっと奥底の――テメェの魂の根本にある『衝動』ってやつがな】


 セトは一度だけこちらを振り返り、ニヤリと嫌らしく笑った。


【神の予言をくれてやる。テメェは必ず、俺の手を取るぞ。まァその日が来るまでは、クソウジ虫らしくウジウジ悩んでいるがいいさ】

「う、うじ虫って……」

【ン? なんだ気に入ったか? よし、今日からオマエの呼び名は『ウジ虫』にしてやろう】


 ようやく名前で呼んでくれたかと思った矢先にこれである。

 セトの子供じみた嫌がらせに、イスメトは小さくため息を漏らす。


 一方で、口元には知らず微笑を浮かべていた。


(……まだ、セトの依代でいられるのか)


 セトの誘いは一朝一夕に答えが出せるものではない。

 だが、その誘い自体は嫌ではなかった。

 結論を急がないと言うなら、セトの気が変わるまでは付き合ってやってもいい。こちらにだって恩返しをしたい気持ちはあるのだ。


 イスメトは、最深部へ向かう足取りが一気に軽くなったのを感じた。


 最深部の穴にはなわばしが備え付けられていた。

 大神官はきっとセトという存在を誤解していただけで、イスメトの話自体は最初から信じてくれていたのだろう。遺跡の入り口には見張りが配置されていたし、内部も以前より明らかに整備されていた。


 明かりがともされ、見通しがよくなった階下へ降り立つ。

 むわっと埃の臭いがした。

 中央にぼんやりと照らし出されるのは、あの日から沈黙を守り続けている石棺である。


【一応、戦闘になる可能性もある。気を抜くな】

「……分かった」


 イスメトは槍を構えながら、セトが棺に手をかざすのを見守った。

 赤い光を伴って、セトの全身に神力が集っていく。

 直後。

 それまで一切の揺らぎを見せなかったセトの目が、大きく見開かれた。


【――ッ!? この気配は……ッ!】


 途端に張り詰める空気。

 セトと魂で繋がるイスメトは神の内心を――その微かな感情の揺れを――おぼろげながらに捉える。


 それは『畏怖』と形容すべき感情だった。


 ――セトが、怯えている?


 そんなことがあり得るのか。自分の感覚を疑い、イスメトはすぐにでも本人に問いただそうとした。

 しかし、その時。


【――は逆賊を穿うがつ王者の威光――】


 頭に直接、声が響く。

 それは紛れもなく神の思念。

 だがセトのものではない。聞き覚えのない、張りのある少年声ソプラノだ。


【チッ――早かったな。相変わらず間の悪い野郎だ!】


 セトは物々しく呟くと、瞬時に光となって肉体へ戻る。

 同時にイスメトは、内側から溢れる神力によって体が熱くなっていくのを感じた。


【ちと派手に暴れるぞ、小僧】

「セ、ト……?」


 有無を言わさぬ声色。

 肉体の主導権はすでに奪われ、イスメトの手に握られた神器が赤い光に包まれる。

 蜃気楼のように揺れる神力。それはセトの得物である〈支配の杖ウアス〉の形をとりながら、神器と一体化した。


【ヤツが、来た――ッ!】


 セトがイスメトの体に風をまとわせ、石床を蹴って高く跳躍したとき。


【――〈勝利を導く十色の銛セヌ・ネス・リアンヴォス〉!】


 天井が、爆ぜ飛んだ。


 同時に眼前に立ち上がる光の柱。まるで太陽でも落ちてきたかのような状況の中、セトだけはその元凶をはっきりと把握していた。

 光の正体は、はくいろの神力をまとうもりである。

 天から飛来したそれが一階の床を貫通し、地下にまで降り注いだのだ。


 イスメトは真っ白に消し飛ぶ視界の中、自分の体が後方に吹き飛ばされるのをただ感じる。


「【――は天に弓引く反逆の意志――】」


 対してセトは石壁を蹴り、放り出されたイスメトの体を瞬時に反転。体勢を立て直す。

 疾走しながら唱えるは、こちらの対抗手段オハコ

 それは、ある特定の条件を満たした相手にのみ絶大な効果を発揮する、特攻的な神術である。


「【――〈玉座を射抜く九つの矢ヴェロス・ペセジュ〉!】」


 神殿内に流れ込んでいた砂漠の砂が、四方八方で意志を持つかのようにうごめき凝結する。それらはセトの神力をまとう赤き矢と化し、次々に飛翔。なおも降り注ぐ光の銛を下から迎え撃った。


 衝突する光の銛と砂の矢。

 それらは互いの存在を打ち消し合うかのように弾け、神力の煌めきのみを残して消滅していく。

 頭上で響いた轟音は九回。

 それで両者の弾は尽き、束の間の静寂が訪れる。


「ふぅん? この術で返してくるってことは……本当にお前なのか、セト」


 セトが睨み上げる先には、一階から上を失った神殿の内観と、抜けるような青空。そして、それらを背景に浮かび上がる小さな人影があった。


 空からの襲撃者は極彩色の翼を背に広げ、残忍とも無邪気とも形容できる笑みを浮かべていた。

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