大槍の悪魔③

 フィオは約束された闘技場に足を踏み入れた。岩石が敷き詰められてできた巨大な円上の床には、所々隙間から草が生えている。円周に沿って観客席も配置されているが、崩壊している部分もあり、そこはまるで土砂崩れが起きた時のように闘技場内へと流出していた。


 今は午後四時を回ったところで、西日が次第に強くなってきていた。


 この闘技場は魔王城から南東に遠く離れたところに位置しており、転移魔法を使うことで移動することができた。かつての悪魔が建設した場所のようだが、魔王城内部の空間を改変する魔法が開発された後は、城の地下にある闘技場がここにとって代わったようだ。そのせいで、この闘技場は放棄されて野ざらしになっている。


 「私、ここ久しぶりに来たよ。普段あんまり使うところじゃないからさ」


 横にいるティオネがそう言った。彼女は後ろに手を結んで、物珍しそうに周りを見渡している。


 「ティオネはいつぶりなの?」


 「えーっと確か、ルイン様の下についてまもなくだったかな。私もフィオと同じように戦えって言われてやったんだよね。その時以来、来てないんじゃないかな。ネブリュエとルイン様の戦いの時は、別にここまで来ずに森の開けたところでやることが多いし、そもそも私はあまりそれに興味がないから行かないし」


 「じゃあ僕とルイン様の戦いはどうなの?」


 「いやまあ初めてだし、いい気晴らしにはなるんじゃないかなって。というか私の気晴らしになるようにしてよね」


 うん、頑張るよと、彼は答える。あまり自信はなかったが、未体験の状況に少し興奮していたのも確かだ。


 フィオは改めて自分の格好を見直した。白いシャツに黒いズボン。それで今日は胸に黒い蝶ネクタイを着けている。ベストは羽織っていない。腰には革の鞘に入った剣が一本携えられている。そして短いナイフも持っていた。まあ、いつもと同じような格好だ。下手に防具をつけるようなことをすると、かえって邪魔になるかもしれないし、耐久性に関して言えば、悪魔が有する身体の頑丈さと、防御魔法の影響を考慮すると、結局彼の一見軽そうな装備でも鉄でできたような傷つきにくさを持つことになるので、これでも大丈夫だと考えた。


 「じゃあね」


 そう言ってティオネは彼から離れて、観客席へと向かっていった。ちなみにフィオ側の観客席にはネブリュエが座っている。闘技場に出る前に話しかけた時は、「期待しておく」と言うだけだった。


 これから戦いが始まるという実感はなかった。試合というのは往々にして緊張するものだが、今はただ時間が過ぎていくのを感じていただけだった。そもそも相手がどういう装備をするのか、どういう戦い方をするのかがわからなかった。だからこそ、余計な心配をしないのかもしれない。不確定な未来だからこそ、好きなだけ期待を詰め込むことができるのかもしれない。フィオはただただ冷たい風が撫でてくれるのを感じ取るばかりだった。


                   ◇


 「準備はできたの?」


 フィオが闘技場の内部と観客席を隔てる壁にじっと凭れていると、ルインに声をかけられた。彼女は入口に立っていた。


 彼女はドレスのような白い鎧に身を包んでいた。まるで白亜を切り出して作ったようで、表面はつるつるしていた質感を出している。彼女の藍色の髪はその上に乗っかっていて、キャンバスに絵の具を塗ったみたいに見えた。そして手には彼女の体長ぐらいある巨大な槍、長い円錐の底面に細い棒を突き刺した形の白い槍が握られていた。


 フィオはその姿を見て、まずいかもしれないと直感的に思った。鎧をまとい槍を手にした彼女を見て、ようやく試合をするという現実に引き戻された感覚があった。思わず、それで私と戦うんですか、とぎこちない口調で彼女に問うた。


 「そう。怖くなったの?」


 いえ、そうじゃないです。ただその姿を私は見たことなかったので、と応えた。すると、いい度胸をしているわ。これからが楽しみね。と嬉しそうに言って、闘技場の中心へ進んで行った。


 フィオは彼女の後についていき、二人は向き合った。観客席にいる二人の視線を背後に感じる。


 「フィオ、あなたの好きなタイミングで初めていいわ。ハンデを与えてあげる」


 ルインは落ち着き払っているように、フィオには見えた。それは海が凪いでいるようなものだ。海は船を飲み込む力を持っているのに、少しの間だけ静寂を見せる。ルインも凄まじい能力を有しているのに、外見だけはおてんばなお嬢様のようだった。


 フィオは剣を抜いて、それを彼女に向ける。そしてそのまま、じっと待つ。二人は戦争を描いた絵画のように静止している。


 「ずいぶん、焦らすのね。もしかして私を斬りつけるのに躊躇しているの?別にそんな必要ないわ。殺すぐらいの気持ちでやればいい」


 相手が集中の途切れる一瞬を狙う。一撃を決めることに焦りは禁物だ。それが決まれば、もしかすると勝敗に関わる一手になるかもしれない。集中のリズムが崩れたところを注視する。


 今だ! フィオは剣を横に薙ぎ払う。かつての自分であれば出なかった、突風のようなスピードでだ。風を切る音が聞こえてくる。


 しかし肉を断つような感触はなかった。ルインは少し後ろに引いていた。あっさりと彼の一撃は避けられていた。


 「いい速さだったわ。でもそれじゃ私のことは切れない」


 するとルインは目の前から消えたと思うと、フィオは巨大な岩がぶつかってきたかのような激しい衝撃に襲われ、次の瞬間地面に突き飛ばされていた。背中の痛みを感じながらも、すぐに彼は立ち上がって、また剣を構える。恐らく槍の柄を払って、自分を吹き飛ばしたのだろう。それにしてもほとんど体験したことがないような速さだ。最初にルイン様に出会った時に持っている剣を落とされた時以来だった。


 「私はフィオのことを本気で殺すつもりでいくわ。だからフィオは手加減してたら死ぬでしょうね」


 そう言って、目の前にいる彼女はこちらへ向かってくる。だんだんと歩みを速めていき、最後は体当たりするようなスピードで突っ込んでくる。やばい、と感じてフィオは剣を構える。ルインが槍を振り下ろす前に剣で振り払おうとする。しかし、鈍重な槍はそれをものともせず、お仕着せの上からフィオの右胸に食い込む。彼は身を躱してなんとか傷が深くなるのを避けた。そこにはバラが咲いたかのような赤い染みが広がった。


 ルインはその場でまた槍を振り回して、フィオはそれを剣で受け止める。一撃一撃が重たく、よろよろと後ずさりながらだ。彼は彼女の槍を受け止めるので精一杯で、反撃する機会が見当たらない。彼女の身長より大きい槍のはずなのに、レイピアを使うように軽々とそして鮮やかに攻撃を加えてくる。それは振り払いと突きをリズミカルに繰り出すもので、まるで舞踏をするように見えた。


 ルインは槍で思い切り薙ぎ払うと、フィオはまた体勢を崩して尻もちをついて倒れた。すると彼女は彼が立ち上がろうとする前に、足で胴体を踏みつけて、彼の顔のすぐ横に槍を突き立てた。フィオの顔は恐怖で蒼白して、嫌な汗が滴った。


 「もうこれで終わりなの?私のことを楽しませてくれるって言ったじゃない。本当は一回ぐらい死んでいるのよ。もっと気骨があると思っていたけどそうでもないのね」


 フィオは何も言葉を返せなかった。ルインを煽るのと弁明するのと泣き言をするという選択肢の間で、宙づりになっていた。どの選択肢を選んでも自分にとって不利な選択肢であるように思えた。後者二つは、ルイン様に対して面目が立たないという理由で却下し、前者はこけおどしになりそうで躊躇われた。しかし、こんなところで逡巡していて、自分は大丈夫なのだろうか。もう一人の自分が自分に対して呆れを示す。(おいおい、ここまできて相手にビビるのか?いつまで他人に甘えて生きているんだ。もう大人なんだからしっかりしてくれよ)


 「なんか言ったらどうなの」


 そう言うとルインはフィオの腹に槍を勢い突き刺して、ぐりぐりとその先端で弄った。フィオはあまりの激痛で、短くかん高い叫びをあげる。内側の声に耳を傾けている暇もなく、彼女の槍を掴んで持ち上げようとする。彼の体内に食い込んでいるのはほんの数センチだったが、徐々に徐々にもっと内側にその先端が向かっていっているのを痛みと共に感じた。槍には絶妙な力が入っており、一気に彼の体を貫いてしまわないほどだが持ち上げられることもできなかった。彼は彼女の足に蹴りを入れるが、それに対しても全く動じなかった。


 「これ以上力を加えると内臓まで損傷してしまうけれど、そんな程度の抵抗で大丈夫なのかしら。それにしても本当に痛そうね。そんな苦悶に満ちた表情、今まで私に見せたことなかったでしょう」


 「痛いです……!ルイン様!」


 「そんなこと言って、私が止めるとでも?」


 「とにかく痛いんです!」


 「そんなこと言われても。止めてほしいなら自分でどうにかすればいいじゃない」

 自分で痛めつけているのに、「そんなこと言われても」はないだろう。痛みに悶えながら、フィオはそう思った。


 彼はルインの表情に目を向けると、彼女の左の口角が上がっているのがわかった。必死に抵抗する彼に嗜虐的な愉悦を感じ、それを抑えきれずに顔に出てしまっているという様子だった。


 すると彼女はフィオの脇辺りに左足を踏み込んで、両手で槍の柄を握ると、力一杯槍を押し込んだ。彼は持ち上げようとその先端を掴んでいたが、その抵抗虚しく槍は腹の肉を食い破った。彼は痛みでぎゅっと両目をつぶり、弱った子犬のような鳴き声をあげた。


 「話にならないわ」


 それからルインは同じところを何度も何度も突き刺した。まるでそれは彼女の希望に添えなかった罰を与えているようだった。フィオの服は鮮血で真っ赤に染まり、所々ルインの白い靴にも飛び散った。闘技場の地面には赤い液体溜りができつつある。


 フィオは痛みで失神しそうな中、頭の限られた部分を使って思考した。ルイン様とは正面からの力勝負で勝てそうにないことは分かった。一見すると華奢な体だが、攻撃の速さや力強さは圧倒的な差があるように思える。だからこそ相手に泥を投げつけるような卑怯なことをやる他ない。ルイン様は今自分にどれくらい注意を向けているだろうか。今何らかの反撃をしたところでそれが効果的に作用するだろうか。


 「も、もう無理です。ルイン様……。お許しください……」


 泣き声でフィオはルインに言う。ほとんど子どもが親に謝る時のようで、自分でも笑ってしまいそうになった。


 「まだ口がきけるってことは、余力があるってことよ。こうやって痛いことを味わうことね」


 するとルインは次に左胸に勢いよく槍を突き刺そうとした。その時フィオは腰に備えてあったナイフを、彼女の左足のアキレス腱めがけて振り下ろした。


 「おっと」


 そこで彼女は左へと体ごと避けて、彼から離れた。彼はそのタイミングを逃すことなく即座に起き上がる。


 「今のは結構危なかったわ。ナイフがあるのには気づいてたんだけどね。それにしても、そんな傷だらけで勝負になるのかしら」


 「こう見えても私は結構頑丈なんですよ」


 ルインはフィオの発言を聞いて鼻で笑う。彼女の目には片手で腹を押さえていた血だらけの男が、前のめりに突っ立っていたからだ。どう見ても怪我人以外の何物でもない。


 「ふふっ。じゃあこれからの私の攻撃に耐えてみて」

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