湖の竜④-2
フィオは勢いよく水面から顔を上げる。彼は流木と一緒に湖の岸辺に流されていた。湖水竜とともに入水し、しばらくの間気を失っていたようだ。お仕着せが水を吸ったせいで、全身が重たかった。とりあえず陸に上がり、服や手足、顔などに付着していた海藻や砂を大雑把に取り除く。体を動かすと体中がむち打ちに遭ったように痛んで、彼は顔を歪めた。
頭の中にぼんやりと思い起こされた冒険の記憶は、今の状況をなじっているように思えた。今でも私は身近な他者から評価されるために決死の行動をしている。ドラゴンの背に飛び乗って、攻撃するなんて馬鹿げているのに、何かに気持ちが押し出されてそういう行動をとってしまう。それは村を助けるためにかつて悪魔に向かって突撃したのと同じだ。ただ、違う点は、評価する他者がかつてと違うということだった。
ネブリュエに誹られ魔物を殺して憂さ晴らししていたフィオは、ティオネに言われて湖水竜の討伐へとすぐさま向かった。それ以外に行く宛がなかったし、彼女から求められることに反することをするのは選択肢としてなかった。そしてその行動を支えたのが、結局、同僚の悪魔に認められていないことへの苛立ち、また自己に対する少しの期待感だった。
森の中を探し回ること数時間で湖水竜を見つけることができた。彼は奇襲をしかけようと思ったが、茂みに触れた時の音で違和感に気づいたのかすぐに発見されてしまった。そして咆哮を浴びせられた後、今に至るというわけだ。
彼は木陰に腰を下ろして、頭をうなだれた。極度の疲労と痛みに耐えかねて、体が休憩を欲していた。ゴブリンやオークを殺していた時から興奮状態で居続けて、あまり休むことができずにここまで来てしまった。体を落ち着けるためにゆっくりとしたリズムで呼吸をする。湖水竜はまだ殺しきれていないだろう。潜水が得意な種だし、あの程度の傷でドラゴンが倒れるとは思わない。だから一回撤退するか、無理を押して倒しにいくかを決めないといけない。間違いなく前者の方が合理的で、安全策なのだが、どうしても思いは後者の方へ向いてしまう。
「ああもうめちゃくちゃだ」
フィオは憔悴しきった表情で、そう呟く。なぜ自分はこれだけ過去に捉われているのだろう。また周囲との関係に捉われているのだろう。そしてこうやって思考の負のスパイラルに陥るのも自分の嫌いなところだ。自分という肉体が窮屈でしょうがない。悪魔になっても精神と肉体の問題と悩まなければならないのか。
すると、ある考えがフィオの脳裏を掠めた。「俺には神様がついているから」と言った時の思い。自分の行為が本当に正しいかどうかを判断するのは、民衆ではなく神であると考えたことだ。そのようなことがふと思い出される。と、同時に急激に目の前がはっきりしたような感覚があった。もしかすると、自分がこれからやることは善なる行為で、神が形而上の世界で正しく評価してもらえるかもしれない。そういう希望が頭をよぎったからだった。
しかし、その希望はすぐに絶望へと変わった。なぜならば彼は悪魔だったからだ。悪魔は歴史的に考えても、神を信仰することができないのだ。
というのも人間が伝承してきた物語の中で登場した「悪魔」から言葉を借用して、私たちの仲間のことを悪魔と呼ぶからである。となると信仰の主体である人間が悪魔のことをそう呼んだのだから、事実上神と対立する存在として想定されているのだ。不思議なことに、その言葉は「悪魔」と呼ばれた存在にも流通し、自分たちで自分たちのことをそう呼ぶようになっているのだが、それはともかくとしてフィオが神を信仰することは論理上おかしくなる。人間のために作られた宗教は原理的に悪魔に適応することはできないのだ。
だからフィオが神を信じることは許されないのだ。なぜならば人間が物語から引っ張り出してきた「悪魔」という言葉を当てはめる存在に自分がなっているのだから。だからこそ、私に神を信じる資格はなかった。
なら湖水竜を倒すというミッションが達成できなければ、誰が自分という存在を評価するのか。究極的に彼の価値を保証していた神がいなくなれば、どのようにして自分を認めてくれるのか。それを考えるとフィオは体中に悪寒が走り、吐きそうな気分になった。
「もしここで湖水竜を倒さなければ、ティオネやネブリュエ、ルインにとって俺の価値は無なんだ」
焦燥感に駆られる。こんなことをしている場合ではない、早く倒しに行かなければ。フィオはすぐさま立ち上がって、歩き出そうとする。しかし全身の痛みはまだ残っているし、服が塗れていたり、砂がついていたりするせいで、戦いづらい状態のままだ。昔は彼の焦りを止めてくれた存在がいたかもしれない。でも今はそうじゃない。
いや、もっと今の状況を肯定的にも捉えられるはずだ、とフィオは思う。なぜならば、実力さえ認められれば、悪魔は私の存在を認めてくれるからだ。かつては異端だった人間にどれだけ実力があろうとも、結局その上にある論理が適応されてまともに社会に組み入れてもらえなかった。それならば現状はずっとマシなはずだ。
そう考えると、体に活力が戻ってきた。頭の中のごちゃごちゃした考えもまとまっていく。自分の人生を神に委ねなくても認められるのだ。
フィオは重い足取りで森の中を歩き始めた。呼吸は荒かったが、意識して次第に落ち着いたものへと変えていく。時には木の幹を身体の支えにして、立ち止まった。
ありがたいことに、湖水竜は彼が漂着した場所からあまり離れていない場所にいた。鼻息を強く立てて、いかにも興奮している様子だった。フィオは物音を立てないように、移動し、竜の死角に隠れる。そして静かに刀を抜き、奇襲をかけるチャンスを探る。不自然な音を少しでも立てると、相手に気づかれてしまいそうだった。翼には彼がつけた傷が残っていた。
そして完全に湖水竜が後ろを向いた瞬間に、フィオは勢いよく飛び出した。竜が巨大な図体が持ち味ならば、こちらは俊敏さが強みだ。しかし音に気づいたのか、竜の方も即座に彼の方へと向く。ただ彼自身もそのことを分かっており、丁度目の前に相手の頭があるような位置にあることとなった。そして彼は飛び出した勢いのまま、湖水竜の顔の下をくぐるようにスライディングする。それから竜の喉元に向かって鋭い剣を突き立てた。彼の手に鈍いような柔らかいような感触が伝わる。竜の肌が切り裂かれる。
すると竜は呻き声をあげて、まるで子供のように地団駄を踏んだ。フィオはそのまま股を潜り抜け、尾の下から出てきて立ち、方向転換する。鮮血が竜からとめどなく溢れ、地面を赤色に濡らした。ドラゴンの喉元は鱗に覆われておらず、比較的柔らかい部分であり、彼の剣でも刃が通りやすいのだ。そして面白いことにそこには巨大な血管が走っており、傷がつくと出血が激しくなる部分でもある。だからこそ、彼が竜殺しを狙うためには外すわけにはいかなかった。
しかし、目の前の湖水竜は恨みがましい目つきで彼の方を向き、突進してくる。流石、ドラゴンだなと、彼は驚く。ただし、そのスピードはダメージを与える前と比べると明らかに遅く、身をかわすのは造作なかった。喉に損害を与えたので、火球を吐くことも難しいだろう。フィオは少し落ち着いた気分になった。
のろい湖水竜にフィオはどんどん攻撃を加える。相手の右目を潰し、喉に綺麗な一本線をもう一つ加え、それから翼の付け根や膜に切り傷をつけていく。すると、相手は次第に力を失っていき、よろけ始めた。そこからしばらく経つと、死にかけの鳥のように巨大な体を横たえ、弱っていった。
彼は瀕死のドラゴンの顔元に立った。辺りは血の海になっていて、鉄分のひどい臭いが漂っている。竜の左目に自分の姿が映っているのを見た。まるで水面に映る姿を見ているようだった。少しそれに寂しさを覚えた。しかしながら、彼はそれを潰すため、右目に剣を突き刺した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます