湖の竜③
「クソっ!」
そう言って、フィオは目の前にいる黄土色の体色をしたゴブリンを剣で薙ぎ払う。刃に肉が食い込んで、血しぶきがフィオの体にかかる。装備は魔物の血で塗れ、傍から見れば狂戦士にしか見えないような風采だった。後ろを見れば足跡も赤く染まっている。辺りには同じようなゴブリンの死体が何匹も放置されている。
ネブリュエに暴言を吐かれて一日が経った。前に案内されたキャンプには戻らず、野宿して睡眠をとった。その時感じた怒り自体は徐々に引いていったが、言われた場面が何度も反芻されて心の炎は未だ燃え続けていた。
実力不足と断じられた後、フィオはティオネと顔も合わせず森の中へ入っていった。それから魔物を殺し続け、今に至っている。それはネブリュエに実力を見せつけるための訓練でもあったし、憂さ晴らしのためでもあった。本当は結果的にあいつの言い成りになるのは苦痛だったが、湖の竜の時に勝てないと悟ったこともあり、彼の中で実力不足であることが否めなかった。彼の内面はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
また魔物が彼の前に現れる。彼の体長の二倍以上はあるオークだ。二足歩行になったカエルの体のようなずんぐりとした図体に、巨大な棍棒を持っている。そしてその周りには先ほど殺したのと同種のゴブリンがいる。一対複数の状況で人間の頃なら絶望していたが、今は舐めた態度さえ見せないものの、落ち着いている。
オークが棍棒を振り上げ、周りの雑魚が彼の方へ向かってくる。フィオは剣を素早く抜刀し、瞬時に両足に力を入れて刃をオークの首筋にあてる。次の瞬間、図太い首が胴体と切り離され、あらぬ方向に飛んでいった。周りのゴブリンはそれに驚いた様子で、少しの間動きを停止する。その間に彼は剣先を次の目標に向けて、肉体に突き刺し殺していく。ついに図体の小さいゴブリンが一体になった時、フィオに対して後ずさっているそいつを、彼は頭から掴み、何度も何度も傍にあった木に叩きつけた。頭蓋骨の割れる感触がしても、確実に死ぬまで止めなかった。
ふと彼は我に返り、自分が作り上げた死体の方を見回す。そして握っていたゴブリンの死体を棄て去る。彼の内側では不思議と罪悪感が湧き上がってくる。ゴブリンを殺すことに対する躊躇いがあったというわけではない。過剰な攻撃を与えてしまったことに対してだ。それを行った自分に対する恐怖が入り混じっていた。もしかしたら、人間に対しても俺は同じようなことをするのではないか、そういう想像力が働いたのだった。
「フィオ」
彼が声の聞こえた方向へと顔を向けると、ティオネが木の幹のそばに立っていた。ずっと彼のことを見守っていたというほどに落ち着き払った様子で、彼女は近寄ってくる。
「探したよ」
優しい声音に対して、フィオは彼女の表情を直視することができなかった。躊躇いの感情が彼にそうさせた。なぜティオネは平然と自分に声をかけられるのだろう。他者に介入する勇気がわからない。ただ悪くない気分であったのは確かだ。
「ごめん。自分は身勝手で、どうしようもない奴だ」
「そういう自己弁護の言葉はいいって。別にフィオの方に決定的な問題があるわけではないから」
冷水を浴びせられたような気持ちだった。だが彼女が媚びるような言い方で慰めるよりは幾分かマシだと感じる部分もあった。自分が断罪されたことが心地よかった。
「それで私、ネブリュエとフィオが協力しあう方法を考えたんだけど、やっぱり説得は無理そうだったね。相手がそれに応じる気がないから。だからさあ、実力で見せつけるしかないのよ。そこでフィオには一人で湖水竜を倒して欲しいと思ったの」
ティオネは自身の衣服に付着した木の葉や枝を払い落としながら、そう言う。彼女からはフィオに対する心配や懸念を感じなかった。「フィオならそれぐらい当然できるでしょ?」とも言いたいように思えた。彼はそういった彼女の態度に、信頼と一抹の不安を抱いた。それほど自分を信じてくれているのかという気持ちと、そんなことができるのかという気持ちがあった。
「それで俺が認められるならばそうするよ」
彼が実際にドラゴンを倒せるかどうかは分からなかった。でも彼女の期待に応える以外の道はなかった。彼にとって自分の「意味」を付与してくれることが自分の生存と密接と結びついていたからだ。それはティオネやルイン、ネブリュエの一味に加えてくれないということだけではなくて、永遠ともいえる生の中で恥を抱いたまま活動することへの忌避感もあった。だからこそ、この機会を逃すわけにはいかなかった。
「それじゃあ頑張ってね。ネブリュエもそれができれば認めてくれるよ」
背を向けてティオネは立ち去っていくと、フィオから堪えていた言葉が思わず飛び出す。
「もし、できなかったらどうするんだ……?」
これに対して彼女は即答する。
「それはそうなった時に考えればいいでしょ。あなたがどう責任とるかはあなた次第」
そして一瞬の内に、ティオネの姿は消え去った。魔物の死臭と死体、そしてフィオがいる世界がまた戻ってきた。
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