湖の竜①

 目の前を歩くティオネは軽快な足取りで森の中を進んでいく。フィオが彼女と一緒に歩いているのはルインと散歩をするのとは異なるルートで、どこにたどり着くのは見通しが立たない。ただ彼女が進むところをなぞるように向かっている。


 「もう少しで着くよ」


 近づいてくるのは魔王城の傍に広がる巨大な湖。いつも目にする光景だが、道のりが違うこともあって、違った相貌を見せている。視界の左にはそびえたつ城が見え、以前通った要塞が湖の反対側にあった。


 ティオネについていくと湖のほとりに出た。空には重量感のある雲が点々と漂っている。二人は木の葉の影の下でその湖の輪郭をたどる。天気は晴れだったが、水辺だったこともあり涼しげだった。


 「ティオネ、僕たちが会うのはどういう悪魔なの?」


 「すごく、恐そうな見た目をした悪魔、かな」


 彼女はぼんやりとした答えした返してくれなかった。


 すると突然、水面から凄まじい轟音が鳴り響いた。まるで近くで落雷があったかのようだった。強烈な風圧と水飛沫がフィオの体に襲いかかる。彼は咄嗟に両腕を顔の前に構えた。


 腕の隙間から見えたものに対して思わず声が漏れた。巨大なトカゲの図体に、明るい緑色の硬い鱗を持ち、体より大きい翼を持った生物。ドラゴンだった。この種が湖周辺にいることは知っていたが、それをこれ程間近で見たのは初めてだった。それは水中から勢いよく出てきて、強烈な地響きとともに付近へ上陸した。


 ティオネは立ち止まり、近くの木々を超える体格を見上げる。ドラゴンもまた二人の存在に気づいたのか、地鳴りを上げながらこちらを向く。ヤシの実のような瞳孔がティオネとフィオを睨めつけている。しばらくの間、両者はじっとして動かない。


 先手を打ったのはドラゴンの方で向こう見ずな形で、突然二人の方へと突撃してきた。喉からは爆音の咆哮が発せられる。噛みちぎられるばかりか踏みつけられても恐らく命はないだろう。フィオは腰に差していた剣の柄に手をかけ、ティオネを一瞥する。


 額に汗が滴る。


 フィオは今帯刀しているものではドラゴンに太刀打ちするには十分ではないと感じていた。でも彼女を置いて先に逃げるわけにはいかなかった。ティオネもルインも力量を認めて、彼を信頼してくれているのだから、そんなことはできない。


 すると次の瞬間、生い茂る草木の間から影のようなものが素早く飛び出してきた。そしてドラゴンの背中には巨大な斧が刺さっており、赤黒い血を周囲に飛び散らせていた。そこには筋骨隆々とした悪魔の姿もあった。そのドラゴンは雄叫びをあげ、翼を羽ばたかせて遠くへ飛翔していった。フィオは驚きと同時に安堵の気持ちが湧き上がってきた。思わず一呼吸ついてしまう。


 「助かったよ、ネブリュエ。私と彼だけじゃ、どうにもならないかと思ってた」

 

 斧を持った悪魔はどこからともなく飛び降りてきて、二人の前に姿を現した。


 「……別にお前でも撃退することはできただろう」


 悪魔はしわがれた声でそう言った。


 「紹介するよ。彼はネブリュエ。以前話した私たちのもう一人の仲間だよ」


 ネブリュエと呼ばれた悪魔はフィオの1.5倍もの身長を持ち、その筋肉はまるで皮膚の中に入っているようで明らかに人間離れしていた。口からは犬歯が剥き出しになっていて、顔つきは人よりも先ほどのドラゴンに近かった。そしてフィオやティオネ、ルインよりも太い角を生やしている。体の色は深い紫で、至る所に刺青が入っていた。


 ネブリュエはフィオのことを睨みつけながら近づいてくる。体格の大きい悪魔の影に彼の全身が隠れてしまう。


 「お前からは嫌な臭いがするな。同胞をいくつも殺したやつの臭いだ」


 どうやら、彼はフィオに対して好意を抱いていないようだ。それもそうだ、元々自分は彼の敵だったのだから。ティオネやルインが特別だっただけなのだろう。


 ただそれとは別にフィオは初対面から嫌味を言われたことにむっとした。


 「まあフィオは勇者だったからね。同胞殺しの臭いがするのも当然だよ」


 ネブリュエの顔の皺が一層深くなる。彼はフィオの胸倉を思い切り掴み、空中につるし上げた。


 「なぜルイン様はこんなやつを仲間にしたんだ。そしてなぜティオネ、おまえもそれで平気なんだ」


 突然の行為にフィオは心の中で驚愕した。ネブリュエが好意を持たない理由は理解できるが、それにしてもいきなり胸倉を掴むだろうか。それから苛立ちが膨らんでいった。やはり悪魔は常識が通用しないのかと。


 「それは私たちが、魔王様が計画した人類への戦争に参加しなければならなくなって、ルイン様の従者が圧倒的に足りないと言われたからでしょ。私だって大変なんだから、変な諍いはやめてよ」


 それを聞いてか、ネブリュエは彼の握っていた手を離し、フィオは重心を上手く制御できずに倒れ込んでしまう。目の前には二人の悪魔が立っていて、彼のことを見おろしている。その眼差しは軽蔑的であるように感じられて、フィオは胸騒ぎがした。


 フィオは思わぬ言葉が口からついて出てきた。


 「俺だって、別に元々人間に生まれたくて生まれたわけじゃないんだよ!この世界に人間として生まれてこなければどれだけ幸福だったことか!」

 

 これほど力強く叫んだのは、ルインと最初に湖で出会った時以来だった。


 するとその嫌味に刺激されたのか、ネブリュエは手に持っていた斧をフィオに向って振り回した。彼はその攻撃を咄嗟に後ろに下がり回避する。攻撃が地面に触れた部分は、傷口のような割れ目が入った。


 フィオは眉間に皺を寄せて、憤懣に満ちた悪魔の顔を目を向けた。


 「まあまあ二人とも、初対面からそんなピリピリしなくていいでしょ。私たちはやらなければならないことがあるんだから、そっちにエネルギーを使おうよ」


 ティオネは呆れたという表情で二人の睨み合いを見つめる。


 「あなたたちは同じ仲間なんだから、これから協力しなければならないのよ」


 フィオとネブリュエの出会いはあまり気持ちいいものではなかった。

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