散歩①
フィオが悪魔になって数か月が経った。最初は慣れなかったものが次第に自分の一部になっていった。朝自分の顔を鏡で見た時に角が生えていることに疑問を持たなくなっていた。自分に起きた変化は時が経つにつれて固定化し、それは変化でなくなるのだった。普段の生活もそれと同じだった。ルインやティオネとの共同生活に順応し、次第に仕事の判断も早くなっていった。掃除をしたり、洗濯をしたり、食事を出したり、お供をしたり。そういったことは自分の日常に組み込まれて、当たり前のことになっていった。
ティオネは彼に仕事を教えた後は、例の「計画」のために奔走しているようだった。他の悪魔とコミュニケーションをとることに長けているから、そういった役割が回されるのは当然だともいえる。フィオはそういった彼女の様子を憐れみも抱きながら見ていた。ある日に外で見かけた時は石垣に腰を下ろしてうなだれていた。「大変だよ」。その時ティオネは疲れ切った表情でそう言った。フィオは自分の番が回ってこないことを願うばかりだった。
それに対してルインは日々の生活をゆったりと送っている。本を読んだり、散歩をしたり、昼寝をしたり、誰かに手紙を書いたり。時間の流れ方が違うかのように、自分のしたいことをしたい時にやっている。
雑事はあれども、フィオの生活も彼女の生活が軸なのだから比較的落ち着いている。かつて毎日が危険と隣り合わせだった勇者としての生とは大違いだった。最初はこの穏やかな生活に最初は戸惑いを感じたものの、次第に慣れてきた。
「フィオ、散歩に行くからついてきて」
この日もフィオはルインに呼び止められて、同伴することとなった。彼女が外出する時は付き人をするのはいつもの事だった。護衛のためというよりは、彼女のお喋りに付き合わされるという理由が主だった。彼も一応武器は携帯しているものの、恐らく戦えば彼女の方が強いのだから、護衛の意味は薄い。
ルインがする話題は日常のたわいもないことや哲学的なことまで幅広かった。フィオはよく同じような生活をしていて、それだけ話す事が出てくるなと思った。好戦的だったり色々なところに旅したりする悪魔ならば、話題に尽きないのも理解できるが、彼女はほとんどずっと悪魔城にいて、のんびり暮らしているのだ。以前そのことをルイン自身に訊いたら「だてに数千年生きているわけじゃないのよ。こう見えて私は色々なことを経験しているし、周りの情報に対しても敏感なの」と返された。
ルインとフィオは魔王城を出て、石で舗装された森の中の道を歩いていた。この道は彼女が散歩に出かける時の王道ルートの一つだった。右手には大きな湖があって、水面には燦々とした太陽が映っていた。頭上からは高く伸びた木々から木漏れ日が降ってきており、おだやかな雰囲気が漂っている。空気中には土や草から発せられる自然の匂いが満ちていた。
「ルイン様はこの通りがお好きなのですね。城から出るたびにここを通っている気がします」
「そんなことないわ。もうどの道も結局見慣れた光景だからどこを選んでも一緒というだけよ」
恐らくこの会話も、彼女にとっては何万回も繰り返しているのだろう。フィオはそのことを頭の片隅に思い浮かべる。
「でもあそこの要塞跡は好きかもしれないわ。何度行ってもノスタルジックな気分になるの」
ルインがそう言うと眼差しをある方向へ向ける。そこには崩れた石壁があった。かつて要塞だったとされる場所だった。まるで土砂崩れを起こしたように、辺りに石の断片が放射状に散らばっている。そしてその周りには草木や苔が鬱蒼と生い茂っていた。それらは風でゆらゆらと揺れていた。
二人はその近くまで歩いていき、巨人の死体を見つめるようにして崩壊した要塞を眺めた。そして皮膚の質感を確かめるように、ルインはその壁を手の平で撫ぜた。
「ルイン様はこれが要塞だった頃から知っているのではないですか?」
「うーん、たぶん見たことはあるのだけれど、崩壊する前までは気に留めていなかったわ。壊れた原因も知らない。たぶん私が魔王城から長期間離れていた時期に破壊されたのだと思う」
彼女は岩肌から手を離す。それからフィオに向き合うようにして崩れた要塞跡の残存していた壁面に体をもたれさせた。まるで彼女の様子は恋文を渡した少女が木の下で、人を待っているみたいだった。それから彼女は清浄な空気を身体に取り込むといった風に、大きく深呼吸をした。
二人のいる場所には光が差して照らしていた。彼が真上を向くと、そこだけ木の葉で覆われておらず、空の様子を見通す事ができた。
「フィオは仕事には慣れた?」
「はい。なんとか」
「まあ私から見てもうまくやっている方だと思うわ。やはりあなたはすごく勤勉なのね」
そうかもしれないです、とフィオは自信なさげに言う。勤勉という言葉はどこか彼にしっくりこなかった。
その様子から何かを察したのか、何か不満でもあるの、とルインが不思議そうに訊いてきたが、彼はいやそんなことはありません、ありがたいお言葉です、と返した。続けて彼女は何かを思い出したのか、あっそうだ、と呟く。
「仕事に慣れたんだったら、剣術の腕も磨いておいてほしいわ。たぶん悪魔になってから実戦の機会はほとんどなかったはず。だからフィオの剣術も相当に鈍っているはずなの。将来、何かと戦うことがあるだろうから、私の忠実なる護衛として本来の腕前を発揮できる状態にしておいてほしい」
フィオは腰に携えられた短剣に右手で触れる。茶色い革製の鞘に細長い刀身が収められている。生前彼が使っていたようなものと近いタイプで、手に馴染んだ剣だった。手入れは欠かさずに行っているものの、実戦的に用いたことは未だになかった。
「承知しました」
剣で切ったものの記憶が浮かんでくる。魔物、木、盗賊など、この手で様々なものに刃を入れた。その時の経験は蓄積され、彼の戦い方に影響を与える。それがまた、再開されるということなのだ。
「この身に変えてもルイン様をお守りいたします」
フィオはその場で跪いて、ルインのことを見上げる。彼女の顔は陰になっていて、薄暗かった。ただ、彼女の青い目だけは岩にはめ込まれた宝石のように存在感を放っていた。
その口元が不吉に歪んだ。
「私に昔の仲間を殺せと言われたらどうする?」
その言葉を聞いて、フィオの目は見開いた。先日見た夢の内容が急に思い出される。仲間に対する裏切りの場面が彼の脳裏に浮かぶ。
「や、やります」
「明らかに動揺しているけれど大丈夫かしら」
「私ならやれます!」
心をかき乱すような不快な感情の嵐に耐えながら、フィオはじっとルインのことを見つめる。
「だから、私のことを見捨てないでください……」
すると彼女は困ったように笑って、「からかってごめんなさい。あなたのことをそんな簡単には見捨てたりしないわ」と言った。そして腕を引いて立たせた後、彼を覆うようにして抱きしめた。
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