一章
転生①
フィオは冷たい石の床で目を覚ました。つま先から額まで、硬くごつごつしたものに触れる感覚があり、それで自分がうつ伏せに倒れているのだということがわかった。鼻につくのは鉄の香り。それと酸っぱい匂いもする。またパチパチと何かが燃える音と、荒い息を誰かが吐いている音が耳に入ってくる。
それらについて深い考察をめぐらせることもなく、目を用心深く開けると、白いレースに藍色の髪、そして白亜でできたような角を持った悪魔が、フィオのことをじっと見ていた。
「おはよう」
小さな口から、あどけなさの残る声が発せられる。ゆっくりとした足取りで悪魔は、フィオの方に近寄ってきた。フィオは上目遣いで彼女のことを見つめた。それに対して、彼女は彼のことを、傷ついた捨て犬を見るような眼差しを返した。
「気分はどう?」
フィオが立ち上がると、一瞬立ち眩みがした。体が傾げて前に倒れそうになった時に、ルインは彼の肩を持って支える。
「気分は別に悪くないけれど。少し立ち眩みがあるかもしれない」
「そう。まあそれぐらいで済んだならよかった」
フィオが目覚めたのは牢屋だった。石でできた壁が二人の周りを囲っており、ただ彼の目の前は人の胴体が通れないほどの間隔で鉄格子が立ち並んでいた。そこには鉄製の扉も備えつけられており、今は無気力に開け広げられている。また鉄格子の先には通路があり、その壁に備えつけられた松明がぼんやりとした光を牢屋の中まで届けていた。
「俺は魔法をかけられたのか」
「そうよ。あなたには人間を悪魔に変える魔法をかけたの」
それを聞いて、咄嗟にフィオは自分の体を見る。胸、腕、腰、足、どれもがいつも見慣れた自分の体と変わらない。体の色が変色していたり、竜のような鱗が全身を覆っていたり、鋭い鉤爪が伸びていたりはしていないようだ。すると、何も変わってないじゃないかということが表情に現れていたのか、ルインはフィオに言葉をかける。
「頭の横の部分を触ってみて」
言われた通りにフィオが触ってみると、手の平に尖ったものが触れる感覚があった。注意深くそのあたりを探ってみると、頭の両側面から硬く歪んだ円錐状のものが頭から飛び出していることがわかった。
「それがあなたの角」
ルインがいつの間にか握っていた手鏡を彼に渡すと、そこには黒い角が頭から突き出ていることが分かった。形状は山羊の角のように少し捻じ曲がっている。そして岩肌のように凸凹があり、表面に触れるとざらざらとした感触があった。
「でも、ほとんど人間の姿のままだから、馴染みがあるでしょう」
「そうだな。てっきり、もっと悪魔らしい風貌になるのかと思っていた」
「でも人間に近い体のほうが私にとっても都合がいいの。体の動かし方に慣れているから従者としてすぐに使えるでしょう」
それを聞いてフィオは合理的な考え方をする悪魔だなと思った。悪魔なのだから悪魔らしい姿である必要がある、といったようなプライドはないのだろうか。人間に対して対抗意識を持っているわけではないのか。まあでも人間に対する敵意が強ければ、ルインという悪魔が人間的な姿をしているのはおかしいけれども。
ルインは改めてフィオに目を合わせ、脱力したようにほほ笑みを浮かべる。
「改めまして、悪魔の世界へようこそ、フィオ。主人としてあなたのことを歓迎するわ」
自分が悪魔として歓迎されるということに対してむず痒い気持ちになった。自分は悪いことをしているのに喜んでもらっているという状況が、不自然に思えてどういう反応をすればいいのか、彼を困らせた。とりあえず、小さい声でありがとうございます、と突如の敬語で応答した。
そんなことよりも、何も身にまとわず裸でルインの目の前にいるがとてつもなく恥ずかしかった。人に見られなくない部分が全部、彼女の眼の前で晒されていた。
「まずは服を着ましょうか。私はあまり気にならないけど、フィオは嫌でしょう」
ルインはそう言うと、彼女の手元に畳まれた衣服が瞬間的に生じた。魔法を使って物を転送させたのだ。ルインはそれをフィオへ手渡した。さっきの手鏡もしっかり見ていなかっただけで、魔法で持ってきたに違いない。
フィオはその衣服を広げ、すぐさま着る。ズボン、シャツ、スーツ。それら三種を身につけるとフィオは、いかにも従者らしい、白と黒を基調とした姿になった。
フィオがこういった服を着るのは新鮮だった。今まで勇者として体を守る鎧や身のこなしが利く軽装をつけていたから、かっちりとした服を着るのは初めてだった。
「お似合いよ、フィオ。」
「あ、ありがとう」
彼女の言葉の含意に皮肉が混じっているのか、それとも本気でそう思っているのか、それはわからなかった。
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