出会い④

 「あなたの口から言ってほしいの、私の配下になりますって」


 思い悩んでいると、悪魔の声がフィオの耳に届いてきた。その声はまた、意識の中で葛藤に混ざり合う。人間と悪魔、自律と他律、矜持と隷属。それぞれ相対する概念が互いにぶつかって武力闘争を起こし、彼の気持ちをその戦火の中に巻き込んでいく。


 フィオは彼女から自分の憔悴しきった顔が見えないように少し俯いた。


 それを見て、悪魔は薄く笑い、「悩んでいるのね」と言った。


 「あなたは人間としての良心に苦しんでいるのかもしれないわ。でもね、人間の権力者たちはあなたたちに対してひどい仕打ちをしたでしょう。それを忘れたの?」


 フィオは黙っていた。しかし、自分の頭の中にある嫌な部分をつかれたことで、表情が強張る。


 「魔王討伐というお題目のために、歴史的に見て何千、何万もの勇者が犠牲になっている。そして彼らのほとんどは何の成果も満たさずに散っていっている。あなたもそういった勇者の一人」


 「何のために魔王討伐隊の組織を権力者たちがやっているか考えたことがある? それは彼らが自分の役割を果たしているということをアピールするため。もし魔王討伐隊をやめてしまえば、彼らの正統性に傷がつく。だって民衆は魔王討伐を望んでいて、それを王様が突然やめたら信頼を失うでしょう。まあ、民衆が騒ぐぐらいだったら武力でどうにかなるでしょうけど、王国内にいる現状に不満を持っている親族や貴族が、民衆を盾にして政権転覆を狙うかもしれない。そうすれば彼らはもしかすると王国内の権力争いに負けてしまう可能性がある。そうなると考えたら、魔王討伐を簡単にやめることができなくなる」


 「つまり、あなたは王様が責務を果たしていることをアピールするための駒にすぎないわけ。あなたは自分の権力を維持したい王様に使い捨てられたの」


 はっとフィオは顔を前に向けて、真摯な眼差しで悪魔の目を見る。


 「……そんなこと分かりきってる。歴代の勇者や自分たちが無意味に死んでいくだけの存在ということなんて。でも、だからと言って俺達には何をすることもできなかった」


 「王国と俺達の力量にとてつもない差があった。結局反乱を起こしても兵士に捕らえられて処刑されるだけだった。それがわかってるのに、王国の制度に反抗しようと思わないだろ。お前たちが魔王に逆らうことができるか?」


 悪魔なりの正論を吐き続ける彼女に対して、フィオは苛立ちの滲んだ口調で言い返した。自分の置かれている状況におかしいところがあったというのは理解していたし、それについて仲間と愚痴を言い合ったこともあった。しかしながら、現状はどうにもならないのだ。いくら勇者だからとはいっても、そこまでの権力は持っていなかった。


 「確かにそうかもしれないわ。でも今のあなたは違う。もし私達の仲間になれば、超人的な能力を得ることができるの」


 この時、フィオはある言葉に引っかかった。「超人的な能力」が得られるとはどういうことか。


 「超人的な能力が得れるって、悪魔が使っている魔法や技術を俺に教えてくれるということなのか?」


 悪魔は意地悪な笑みを浮かべる。


 「半分正解で半分不正解。正解は、あなた自身が悪魔になるってこと」


 フィオは声を出して驚いた。彼にとってそれはあまりに現実味のない提案だった。人間が悪魔になることができるということは、彼が聞いたことのない話だった。


 「そんなこと可能なのかよ」


 「できるわ。だって私達の魔法技術は人間のそれを超越しているんだもの」


 フィオは咄嗟に掴まれた手を離そうとした。彼は彼女のことが怖くなったのだ。そこにはまるでツタ系の植物がするように、彼女の細やかな指が絡みついていた。その指を彼が解こうとすると、彼女は腕の細さに見合わない力強さで一層強く握り返してきた。


 悪魔は一歩フィオに向かって踏み込んできた。そして、彼女は握っていない方の手で、彼の顎を軽く持ち上げた。二人の顔が、互いの息がかかってしまうほどに間近になった。


 「もしあなたが悪魔として私に使えれば、人間の価値観に従う必然性はなくなる。だってあなた自身が人間じゃなくなるから」


 「悪魔になったところで、それから一体俺はどうすればいいんだよ」


 「それは私が決めること。私があなたのことをどう思うかによるのよ。だから、私に大人しく服従を誓ってくれたら、あなたを私の部下にしてあげるかもしれないわ」


 フィオは悪魔の言っている言葉一つ一つに怯えた。悪魔の威圧的な言い方は、自分のパーソナルスペースに人が容赦なくずかずかと入ってきたような気持ちにさせた。普段なら、彼女のような支配者然とした態度はやっかみを生んだに違いない。でも、肉体的にも精神的にも弱っていた彼に、彼女に抵抗する余力はなかった。


 そのことを悪魔は見抜いているのか、言葉でフィオのことを攻め立てる。


 「で、でも……俺は……」


 「だったら、この森を彷徨うアンデッドになるのがいいかしら」


 「い、いやそれだけは……」


 「じゃあ、どうするの?」


 フィオは、人間の勇者として人生を全うするか、悪魔として彼女の配下につくか、その二択を選びきれない。

 

 まず第一に、仲間たちへの良心の呵責があった。いっそここで死んだほうが、人間社会や仲間の期待に沿った形で、フィオの置かれている状況を解決できるのだ。


 しかも悪魔の言っていることがどれだけ信憑性が高いかわからなかった。もしかしたら、自分がどう言おうと、アンデッドにするかもしれないし、殺してしまうかもしれなかった。


 でも、心の何処かで悪魔の言っていることが魅力的だと思っている自分がいる。自分を駒に従う人間たちへの復讐する機会、圧倒的な力能、そして彼女の魅惑的な女性性。それらが一度に得られる機会というのは来世になってもそうそうないだろう。別に勇者になったとしても得られなかった。


 それに生きたいという願望が自分にはまだあった。生と死の間で宙ぶらりんにされている今の状況の中にいるのが苦しかったし、そして死ぬことが単純に怖かった。だから、もしここで悪魔になったとすれば、死の恐怖という直近の問題は解決できることになるかもしれない。ただ、これは悪魔の言っていることを信じるなら、だが。


 フィオが悪魔の提示した提案に苦しめられている中で、彼女はささやいた。


 「あなたは他の人間にとっては死人になっているわ。だから他人がどう思うかじゃなくて、純粋に自分がなりたい方を選べばいい。あなたはここで周りの人々の気持ちを気にする必要なんてないのよ」


 この言葉が彼の気持ちを後押しした。


 「俺は、悪魔としてあなたの配下になりたい。人間どもに痛い目を合わせたい」


 フィオは観念したというようにこの言葉を吐いた。すると、言ってしまったという気持ちが一気に心のなかに広がった。しかしながら、その気持ちはただの後悔とは違っていた。良心の疼きとともに押し寄せる解放感、端的に言えば「痛気持ちいい」という感覚が本質にはあった。一種のエクスタシーに彼は浸っていた。


 悪魔は喜ばしげな表情を見せた。


 「賢明な判断だと思うわ。とりあえず、私達の世界へようこそ。ええっと名前は?」


 「フィオ、です」


 「フィオ、優しい名前の響きをしているわ。私はルイン。第一級悪魔に属する、魔王様直属の部下よ」


 「ルイン……」


 忘我状態になっているフィオは、いじらしいルインの声にうっとりとした気持ちになった。


 フィオは出血の影響で、まるで微睡んでいるような気分になっていた。彼は明らかに衰弱していた。彼の目には彼女が夢の中に出てくるお姫様のようなイメージで映っていた。


 「すごく苦しそう。早く楽にしてあげるわ」


 フィオは何も答えなかった。


 ルインは自分の右手をフィオの目元に置いて、魔法を唱えた。彼女の右掌が発光する。すると、彼の体は突然石になったかのように、重たい音を立てて倒れた。

 

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