晴れのちくらげ

「まつくまかな」

晴れのちくらげ

晴れのちくらげ


”本日は陽射しは強いですが、空にくらげが多く漂いますので、不要不急の外出は控えて……”


 いつからだったか、璃子には記憶が薄かったが、遠い水平線の空と海とが交じる辺りから、むくむくとくらげが浮くような天気が起きるようになった。酷い時には、十五階建ての十階にある璃子の家の窓ガラスに、茶、白、透き通った青と色々のくらげがぺたりと張り付く。

「窓を空けちゃ駄目。ハブクラゲなんかは猛毒があるんだからね」

璃子の母時子はそう言って、カーテンをしゃっと閉めてしまった。「在宅仕事で良かったと、この日ばかりは思うなあ」そして、パソコンのある部屋へ。璃子はそうっとカーテンを開いた。眼の前をまんまるなミズクラゲが通り過ぎて行く。真夏の陽射しにさわやかな色をして、丸い体を広げて縮めながら、クーラーの排気風に弾かれて飛んで行った。

 くらげはだいたい、夕立と共に地面に落ちるものではあった。この日はたまたま夕立が無かったものだから、夜まで空を漂っていた、ようだ。璃子は学校が休みだったし、一日でも眺めていたいものの、時子はうなじにアカクラゲに刺された痕があったから、憎しみに近いものを覚えている。何時もカーテンは閉められて、璃子の部屋など、陽射し避けのゴーヤのカーテンがかかっていたから、見ようにも隙間を伺うしかないのだ。今日は時子が疲れて眠ってしまった間に、そっとリビングのカーテンを開いた。

 月夜だ。黒黒とした夜にぽっかり月が空き、くらげたちは色をなくし、銀色。「あ」璃子は目を良く凝らす。つぎつぎにくらげが何かを空中に放った。細かな銀粉に見えた。


 くらげが湧くと、皆防護服や厚着をして外に出る。璃子は半袖でも一度も刺されたことはなかった。夕立少し前のくらげ警報が行き渡った街を、半袖のセーラー服姿で悠々と歩く。「危ないよ、くらげが出ているよ」と上着を貸そうとすらする人に「いえ、刺されたことが無いので、多分大丈夫です」丁寧にお礼を言いながら。その間にも、カツオノエボシが璃子のむきだしの腕を撫でていったが、刺された痕すらない。「そう」上着を貸そうとした人も、ぎょっとした顔をして行ってしまう。


”外出の際は、暑くても防護服や厚い服を着て、水分補給を忘れずに……”


 璃子のスマホがくらげ注意報のニュースをイヤホンに流す。ふうと息を吐く。目の前を漂っていたタコクラゲが跳ねて、慌てて逃げていった。

(こんなに、きれいなのに)

 生きているのかいないのか、あやふやなくらげは青空を透かして白く、空の天辺から地上に向けて薄くなる。乾いたアスファルトに水玉模様を描き出して、透き通ったゼラチン状のからだには時折虹すら見える。

(今日はまた一杯いるな)

 璃子は浮かれて足を運ぶ。空ばかり見上げる璃子の回りをくらげが踊る。積乱雲の塊を背景に、色とりどりのくらげは宝石を敷き詰めたようにきらめく。璃子はスキップを踏んで、目の前にあるふわふわのミズクラゲにふれた。ちくりと指先に軽い痛み。

「えっ」

驚いた璃子は我に返って回りのくらげを見回す。皆白けた顔をして漂い、目の前にはビル屋上の電波塔。突然の夕立に押されたオキクラゲが引っかかって、だらりと雨に流れる。璃子は唾を飲み込んで下を見る。

防護服を着込んだ人が、屋上に分厚いクッションを広げて騒いでいた。

「あっ」

璃子のからだのあちこちに鋭い痛みが走り、真っ逆さまに落ちていく。


 気づいた時には、病院にいた。璃子は窓を見る。アカクラゲが一匹張り付いて、干からびていく。もう彼らを無害だなんて思えずに璃子は「ひっ」小さな悲鳴をあげた。

それから、どこから紛れたのか一匹のくらげが迷い込む。

璃子はどのくらげ嫌いよりも強く憎んだ言葉を吐いた。言葉は銀色の粉になり、病室一杯に広がり、同室の皆が頷いた。


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晴れのちくらげ 「まつくまかな」 @kumanaka2023

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