オンブロフォビア
深川夏眠
ombrophobia
パサージュに入ると洒落たパティスリーが目についた。帰りにケーキを買って、近頃何故か浮かない顔をする
待ち合わせの相手はカフェの出入り口から見つけやすい位置に座っていた。本を読むでもスマートフォンに触れるでもなく、視線を僅かに上向けて壁の時計を睨んでいるかに見えた。ヘアスタイルは昔と同じ長いストレート。
「あ、先生。お忙しいのに、すみません」
私は真向かいに腰を下ろして、
「十年ぶりかな、
「
学内に風間という苗字の教員がもう一人いるので、教え子たちは私を下の名で呼ぶ。
雲井瞭子は青いクリームソーダをほとんど放っておいたらしく、バニラアイスがグズグズ溶けて見すぼらしくなっていた。私は卓上のメニュースタンドを一瞥し、メロンソーダフロートを注文した。彼女がクスッと笑った。
「おじさんのオーダーが渋い飲み物じゃなくて、おかしいかい?」
「いいえ」
かつて、カフェテリアで類似のやり取りを交わしたことがあった。
「話って?」
彼女は微笑みながらマドラースプーンをグルグル回していたが、次第に目を伏せ、唇を引き結んだ。ややあって、
「わたし……雨が怖くて」
「え?」
大多数の人が歯牙にもかけない物事に対して生活に支障を
「恐ろしいっていうのは、どんなレベル?」
「例えば、朝、アラームを止めて起き上がった瞬間、雨音が聞こえたら鳥肌が立ちます。メイクするのをためらうほど肌がザラザラするんです。心臓はバクバク。寝間着のまま無意味に部屋を歩き回るしかなくて、何も手につきません」
「仕事は?」
「しばらくは運が……いえ、タイミングがよかったのか、ごまかしが効いたんですけど。つまり、出勤時に無事だったお陰で、どうにか。途中で降り出したら、そこからは退勤まで浮き足立って……」
上司や同僚とのコミュニケーションが円滑でなく、気まずくなって退職した後はパートタイム暮らし、しかも、勤務先は地下鉄の駅直結の施設限定という。だが、行き交う人が傘を携えているのを見ると皮膚が粟立ち、
ホルモンバランスの乱れではなかろうか。
「病院へ行って診断書を貰った方がいいんじゃないかな」
「だけど、そんなの雇う側は持病として配慮してくれません、きっと」
「音が嫌なのか、水滴が掛かるのが駄目なのか……」
「水が……」
彼女は苛立たしげにストローを弄んだ。私は答えを待ちつつ、毒々しい赤さのマラスキーノ・チェリーを含んで種と軸――柄? 茎?――を持て余していた。
「あまり勢いよく雨が降ると溢れ返るじゃないですか」
「排水溝が?」
「あんな風になるかもしれない……」
彼女は私が入店する直前と同様に睫毛を反り返らせた。振り仰ぐと、上方の壁にはパネルに入ったポスターが飾られていた。モノクロの画像で、多分アメリカの都市の片隅。レインコートを着て小振りの傘を差した幼児が、消火栓から噴き出す水に目を丸くしている。
「でも、近場で同時多発的に……とは、ならないだろうし、なったとしても瞭子さんに直接危害が及ぶ蓋然性は――」
「雨水が束になって人に似た形を取ることもありますよね。一枚の布を頭から被ったみたいな……」
彼女は
ふと気づくと、眉根を寄せたり口をへの字に結んだりしていた彼女の顔が無機的に固まった。コースターの隅を指先でトッ、トッ、トッ……と軽く叩く。店内の音楽に合わせてリズムを取っているのだ。有名な映画の主題歌に続いて、イタリアの古いヒットソングが流れ出した。
「降ってきたかな」
「ええ」
彼女は積乱雲が青空を侵蝕したかのようなグラスを持ち上げ、とうに気の抜けていそうなソーダを飲んだ。
「天気予報ではそんな風に言ってなかったけど、予感がしたので、ここを指定したんです。アーケードの中だから……」
「そうか。気が利く店でよかったね。BGMが雨に関係ない曲に戻ったら出ればいいか」
スタッフが外の状況をチェックし、驟雨の折には一部のデパートや地下街同様、イメージを喚起する歌でもって客にさりげなく知らせているわけだ。最初はバート・バカラック作曲、
「だけど、歩いていて急に降り出したら?」
「目的地がすぐ傍なら猛ダッシュ。服も靴もビショビショに。辿り着いても、なかなか動悸が収まらなくて……。でも、駅がちょっと遠い……とか、だったら――通りかかった人に助けを求めます」
「見ず知らずの?」
「はい。どこか落ち着ける場所へ連れていってと頼むんです」
言い終わるか終わらぬうちに、彼女は不敵な、
「流れに身を任せます。行きずりの男なら
喉元に苦いものが
すると、翌月、少しだけ時間をくれと言って、お茶に誘ってきた。彼女は交際している男性の子を身籠ったかもしれず、学業や就職活動に差し障るのが恐ろしいと訴えた。未婚での妊娠は大問題だろうけれど、相手とよく話し合って今後どうするか決める以外にないではないかと、私はすげなく突き放し、当分こんな話題に付き合う暇はないのだと冷淡に告げ、コーラフロートのソフトクリームを掻き込んで席を立った。出張の直前という絶妙なタイミングだったから、しめしめとほくそ笑んだのは事実だ。
戻ってみると、彼女は何事もなかった風に屈託なく学友と談笑していた。腹が膨らんでいく様子もなかったので、もしや中絶したのでは……と臆断したものの、指折り数えるまでもなく彼女を孕ませたのが私だった可能性もあると思い至ってゾッとした。けれども、恩師の娘と婚約した直後だった。藪蛇になるのは避けねばならなかった。
「恋愛感情なんて持たずに刹那的な快楽に耽った方が、
「いや、だけど……」
「
かつて心身にひどいダメージを受け、時間をかけて寛解したと言わんばかりだった。私の頭に、胎内の発芽を自覚して恐れおののく彼女の青褪めた横顔が浮かんだ。灰色の豪雨に煙る路上に立ち尽くし、運を天に任せて身震いする様が――。
彼女がイメージする
スザンヌ・ヴェガ「トムズ・ダイナー」の後、歌唱者は誰かわからないが「
「一人で帰れるね?」
「……はい」
私は伝票を摘んで立ち上がった。
「医者に診てもらった方がいいよ。通院先を紹介しようか」
「すみません」
ただ一つ引っ掛かるのは、彼女が今になって私に面会を求め、この件を蒸し返した理由だった。
「そうそう、先生、ここへ来るときケーキ屋さんの前を通ったでしょう?」
「ああ」
「とっても美味しいですよ。タルトタタンが特にお薦め。リンゴに限らず、季節のフルーツで作られていて。奥様へのおみやげに、いかがです?」
「は?」
彼女は座ったままピンと伸ばした背筋を震わせた。声を殺して笑っているのだ。
「先生は十年前、最初の結婚をなさったけど、じきに破局。以後しばらくの独身生活を経て一昨年から沼田千晴さんと同居。近々入籍されるとか」
「そのとおりだが、何故……」
「世の中、狭いですね。千晴さんはわたしが最初に勤めた会社の先輩でした。年賀状のやり取りはずっと続けていたんです。先月、久しぶりにお会いしましたよ。ここで。たっぷり愚痴を伺いました。いろいろ悩んでいらっしゃるみたいで――」
名状しがたい
千晴の心に
ombrophobia【END】
*2023年12月書き下ろし。
**縦書き版はRomancerにて無料でお読みいただけます。
https://romancer.voyager.co.jp/?p=331152&post_type=nredit2
*BGM:Gazebo「I Like Chopin」
****雰囲気画⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/SkdInOTY
オンブロフォビア 深川夏眠 @fukagawanatsumi
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