第18話 手がかり

男が戻ってくるのを待っていた。

言づてを伝えてくる。

そう言い残してから、何分が経った?

時刻は、十六時二十三分である。

確か、十五歩分ほど待てと言っていた。

後、十分は残っている。

気が急きすぎているようだ。

だが、仕方がない。

俺に残された時間は、二十三時までなのだ。

なのに、未だ一つ目のタスクに取りかかったばかり。

残り、幾つのタスクがあるのかも知れないのに。

イライラとしてきた。

駄目だ。

ただ待っているだけだと、焦れて仕方がない。

何をすれば、気が紛れる?


同じテーブルの男へ話してみよう。

三人は、半分寝ているようだ。

こちらを見ていた四十代くらいの男へ話しかける。


「ここは、憩いの場所なのか?」

「……そんな上品なものか。その日、行き場のない男が、集まっているだけだ」

「日雇いにしか、ありつけないのか?」

「じゃなければ、夕方前に、酒が切れたりするか?」

「残り少ないが、飲んでくれ。そのままやる」


アテマのボトルを差し出してやった。

受け取った男が、目を丸くする。


「半分も残っているじゃないか? いいのか?」

「まだ、酔うわけにはいかないんだ」

「有難い。アテマなんて、最後に口にしたのは、いつだったか」


仲間を想う男らしい。

四つのグラスに、なみなみと透明のジャクが注がれた。

ボトルを受け取った男が、惜しげなく注いでやったからである。


酒の匂いを感じ取ったのだろうか?

気を失っていたような三人の男たちが、むくりと面を上げる。

半分も開いていない瞼から、何が見えるんだ?

そう思ったのだが、全員がグラスを手に取る。

迷ったり、探したりする素振りがなかった。

そして、一息で呷る。


二人が机に突っ伏し、一人は頬杖を突いて目を閉じた。

本物の酒飲み。

その言葉が指すのは、こういう奴らなのだろうか?


ボトルを手にした男は、舐めるようにグラスに口を付けていた。

味わって、飲むつもりらしい。

一回で、一ミリもグラスの中身が減っていない。

グラスをテーブルに置いた後は、大切そうにボトルを撫でる。

普段は余程、酷い酒を飲んでいるのだろうか?

多分、そうなのだろう。

さっき見た酒屋の売り物を思い出す。

九割以上が模造品だった。


ボトル男が、俺を見てくる。

振り返らずに、後ろを指してみせてきた。


「ここに呼んでやれ。向こうには、酒癖の悪いのが揃っている」


気が回らなかった。

すぐに席を立って、離れたテーブルへ向かう。


こちらへ背を向けたニニカが、酌をしていた。

同じテーブルを囲む十人の男たちは、一様に鼻の下を伸ばしている。

まあ、気持ちは分かる。

だが、近づきすぎだ。

特に左右から、挟むようにしている二人。

落ちている石塊を、つま先で弾いた。

小さなつぶてが、二人の後頭部で跳ね返った。

辺りを見回した二人が、俺に気づく。


真っ直ぐに、近づいていった。

敵愾心を丸出しにした目を向けてくる。

残り八人も、同じ態度を示した。

仲間の異変に気づいたらしい。


はっとした様子で、ニニカが振り返ってくる。

目が合った瞬間は、作り笑顔だった。

だが、俺だと分かったのだろう。

途端に、よく知る可憐な笑顔をみせてきた。

仕草のいちいちが、可愛く感じる。

この動揺は悟られないようにしたい。

小さく頷いてみせてやった。

意図を察してくれたのだろう。

ニニカが、男たちの方へ向き直る。


「連れの用事が済んだみたい。失礼します」

「まだ、いいだろう? もう少し付き合ってくれよ。ニニカちゃん」

「ごめんなさい。行かないと。近くに立ち寄ったときには、顔を出しますね」


男たちの顔が、だらしなく緩んだ。

愛想良く、微笑みでもしてやったのだろう。

ニコッと、素敵な笑顔を浮かべる様が、容易に目に浮かんだ。

仕方ない。

その笑顔には、誰でも心を奪われる。


ニニカが席から立った。

慌てる素振りなど、一切ない。

丁寧に一礼をして、テーブルから離れてくる。

俺の左腕に、身を寄せてきた。

ふわりとした弾力のある柔らかさを、二の腕に感じる。

テーブルの男たちが、一斉に色めきだった。

舌打ちをして、怒気を孕んだ目を向けてくる。

十人分の嫉妬を、一身に受けるのは、初めての経験だった。

それなりに迫力を感じるが、何より、居心地が悪い。

ニニカの細い身体が、俺をそっと押してくる。


「行きましょう」


絡められてきた両腕が、歩き出すよう促してきた。

一時でも、離れるのが惜しくらいの柔らかさである。

遅れないように歩調を合わせた。


「ありがとう。来てくれて」

「何も、されていないか?」

「大丈夫」

「そうか。それならいい。気づくのが遅くなって、すまなかった」

「いいの。気に掛けてくれただけで、十分」


左腕に絡みつく、柔らかみの感触が増した。

頬に視線を感じる。


「こっちは収穫なし。あなたの方は?」

「まだ居所は分からない。だが進展はあった。今は言づてを伝えてもらっている。上手く行けば、話が進むはずだ」

「どのくらい、掛かりそう?」

「あと十分ほどだ。それまで、ここで待つことになっている」


元いたテーブルへ戻った。

空いていた椅子を二つ並べて、ニニカと隣り合って座る。

アテマの酒瓶を抱えた男が、ニニカから、俺へ視線を移してくる。


「綺麗な娘だ。こんなところに、連れてくるもんじゃない」

「そうだな。さっきは、ありがとう。気を回してくれて」

「この先は、大切なものからは目を離さないことだ。ほんの少し目を離した間に、なくなるぞ」

「覚えておく」


だからと言って、そんなに酒瓶を握りしめ続けることもないんじゃないか?

ふと気づいて、細い路地へ目を向けた。

程なくして、一人の男が路地から現れ出てくる。

言づてを伝えに行ってくれた男だ。

立ち止まると、手招きをしてくる。

席を立って、ニニカを促した。


「行こう。言づてを頼んでいたのは、あの男だ」


頷いてみせてくると、腰を上げた。

ボトル男へ一礼する。


「連れが、お世話になりました」

「大したことは何も。この辺りに居る間は、その男から離れんように」

「はい。ご忠告、ありがとうございます」


いちいち、礼儀正しい。

やりとりが終わったようなので、急いで男の元へ向かう。


「用心をした甲斐は、あったか?」

「コンラート先生が、すぐに会いたいと仰っている。急げ」


……先生?

教師か、医師だろうか?

いや、あり得ない。

こんなところで商売をしたって、見合う対価が得られないからだ。

多分、売れない作家とか、その辺りだろう。


「分かった。連れて行ってくれ」

「この先は道が悪い。足元には気をつけろ」


言うが早いか、背を向けた男が路地へ駆け込んでいった。

慌てて、後に続く。

かなり狭い。

道幅は、一メートル程度しかなかった。

その上、雑然としている。

走りづらい。

干された衣類が、視線を遮る。

散乱したゴミが、駆け足の邪魔をした。

前を行く男は、かなりの速度で駆けている。

こういう路地を走るのに、慣れているのだろう。

日常の様子が、うかがい知れる。


しばらく進むと、足元がぬかるみ始めた。

所々に、灰色の水が溜まっている。

生活排水だ。

生ゴミが混じっていたり、油が浮いていたり、赤いボウフラが数多く蠢いていたりする。

見ていて気持ちの良いものではない。

だが、足元から視線を逸らすわけにはいかなかった。


更に進むと、深さを増した水たまりの数が増えてきた。

さすがに、そのまま歩くのは躊躇われたのだろう。

金属の板きれや木片が、道に敷かれている。

固定は、されていない。

そのせいで、簡単にずれ動く。

何度も、足を取られそうになった。

俺でさえ、走りにくい。

一瞬だけ、後ろを振り返った。

意外と、運動能力が高いようだ。

俊敏な足運びで、ぬかるみを避けて走っている。

手を貸すまでもない。

と思うのだが、普通は、どうするのが正しいんだ……?

こんな場面では、女性を気遣うのは当たり前のような気がする。

ただ、余計な気遣いだとも思う。

まあ、いい。

悩んで、答えが出る類いのものでもないだろう。

前を向いて走りながら、後ろへ手を伸ばしてみる。

細い指が触れてきた。


「ありがとう。さっきから、何度も足を取られていたの」

「そうか。支えにしてくれ」

「手、大きいんだ」


俺の取った行動は、正しかったらしい。

掴んできたニニカの手を、包むように握った。


後ろを、気に掛けすぎていたらしい。

先を行く男との距離が空いていた。

まずい。

見失うわけには、いかないんだ。

男が姿を消す。

角を右へ曲がったからだ。

くそっ。

急いでくれるのは有難い。

だけど、少しは後ろを気にしてくれ。


遅れること、十秒後。

男を見失った角へ、俺たちも差し掛かった。

角を曲がった先には、まだ路地が続いている。

二十メートルほど先で、左へ折れていた。

男の姿は、ない。

だが、一本道だ。

まだ、見失ったわけではない。


道なりに走り続けると、路地を抜けた。

開けた場所に出る。

一軒家?

いや、何かの施設か?

痛みの少ない建物だ。

この辺りの景色には、馴染まない。

空気は、相変わらず淀んだままだ。

いや、何か違和感がある。

何の匂いだ……?

微かだが、慣れない匂いが漂っている。

この場には、似つかわしくない。

薬品のようだ。

見失ったと思っていた男が、近づいてくる。


「待ったぞ。何をしていた?」

「この建物は、何だ?」

「病院だ。入れ。中で先生がお待ちだ」


病院だと?

クヴァントの住む地域に?

扉を開けた男が、建物へ入っていった。

中に入れば、真偽が分かる。

急いで、室内へ踏み入った。


飾り気のない部屋だ。

行き届いているとは言えないが、清掃がされている。

今までの景色に慣れたせいだろう。

十分に、清潔に見えた。

広さは、四メートル四方。

五人掛けの長椅子が、四つ並んでいる。

腰掛けている人は、一人も居ない。


「ここは、何に使う部屋なんだ?」

「待合室だ。患者は順番が来るまで、ここで待つ」

「……本当に、病院なんだな」


信じられない。

クヴァントの住む地区に、病院があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る