第15話 契約
ニニカへの不信感が芽生えた。
ディンの特権会員らしいからだ。
「お前、ディンの特権会員だったのか?」
「一応は。一番下のブロンズだけど」
「富裕層だったのか……。そんな奴が、なんで、こんなところに出入りしている?」
ニニカが、俺の横を通り過ぎて、廊下へ出た。
取っ手を握ったまま扉を開けてみせるので、後に続く。
俺が廊下に出ると、扉を静かに閉じた。
扉から離れるようにして、少し歩くと、壁に背を預ける。
静かな表情をして、見つめてきた。
「まるで、お金持ちが嫌いみたいな言い方」
「みたいじゃない。はっきりと嫌いなんだ」
「どうして?」
「理由が必要か? 既得権益を守るために、他を虐げて、搾取をし続けている連中を嫌うのに?」
「言っておくと、私は富裕層じゃない。親の事業が、一時期だけ好調だったの。ブロンズ会員なのは、その時期に積んだお金のおかげ」
「今は、事業の調子が良くないのか?」
「悪いも良いも。五年前に廃業しているから」
だから、こんなところに出入りをしているのか?
なぜ、街で働かない?
廃業をしただけなら、別に……。
「もしかして、負債を抱えているのか?」
「ううん。それはない。父が命と引き換えに、精算してくれたから」
「保険にも入れていたのか……。相当な経済力が、あったんだな?」
「支店も幾つかあったし、それなりに、手広くやっていたみたいだから」
ニニカの目に、物寂しげな色が混じる。
違う。
こんなことをしている場合じゃない。
早く、コンラートを見つけ出して、会わなければならなかった。
今すぐにでも、カペル社への依頼を取り下げさせなくてはならないからだ。
感情的になって、詰め寄るんじゃなかった。
ニニカは、協力してくれるだろうか……?
「余計なことを話させた」
「気にしないで。もう全部、過ぎ去ったことだから」
目尻を軽く押さえると、柔らかな笑顔を向けてきた。
しおらしさに、胸が締め付けられる。
身についた仕草なのだろうか……?
思わず疑ってしまう。
それほどに、感情を揺さぶられている。
俺が話し出さないからだろう。
ニニカが訊いてくる。
「……それよりも、何か私に話があるんでしょう? 聞かせて?」
「ヴォーランデルに戻って、人捜しをしなくてはならない。手伝ってくれると助かる。それなりに有名な男だそうだ」
「力になれると思う。探し出すのは、一人でいいの? 期限は?」
「まずは、一人でいい。期限は、……なるべく早く。二、三時間以内が理想だ」
「時間がないんだ? じゃあ、すぐに戻りましょう」
「手伝ってくれるのか?」
「報酬は、弾んでくれるんでしょう?」
「できる限り、支払う。言い値でいい。言ってみてくれ」
「だったら。そうね。手付けで十万ギット、見つけ出せたら、プラスで十万ギット。それでもいい?」
「正直なところ、相場を知らない。お前にとって安すぎないなら、それでいい。遠慮は、していないか?」
「……良かった。いい人なんだ」
「とりあえず、十万ギットだ。ゼルエンが使えるなら、電子ギットでも支払える」
「ごめんなさい。そのキャリアは、使えないから。さっきと同じで」
十二万五千ギットを送った。
重ね合わせたクオン・バングルを通してだ。
「確認してくれ。道案内の残金と合わせて、十二万五千ギットを送った」
「少しだけ待っていて」
出てきた扉の方へ戻っていった。
小さくノックをしてから、静かに開いて、中へ声を掛ける。
「バジーニさん。失礼します。今度は、いつも通り月曜日の午前に伺います。前日には連絡しますので」
「おう。気をつけて」
一礼して、扉を閉めた。
気遣いが、行き届いている。
育ちが良いと、こういう振る舞いが自然と身につくのだろうか?
戻ってきたニニカが、声を掛けてくる。
「お待たせ。行きましょう」
「ここで、何の商売をしているんだ?」
「売買の仲介。親の事業が雑貨屋だったから。そのルートを役立てているの」
倉庫の外へ出た。
再び、強烈な悪臭が鼻につく。
呼吸を浅くして、マスクで口元を覆った。
「よく耐えられるな?」
「だって、毎週、来ているから」
「慣れるのか? これに?」
信じられないが、気にしている暇はなかった。
乗ってきたトライクに跨がる。
エンガインで下ってきた急峻な崖を見上げて、ざっと観察した。
まあ、これくらいなら余裕だろう。
ルートは、はっきりと見えている。
待っているが、タンデムシートの沈む気配がない。
……何をしているんだ?
振り返ると、ニニカは突っ立って、崖を見上げていた。
俺の視線に気づいたらしい。
不安そうな表情を向けてくる。
「ねえ? まさか、これをトライクで登るつもり?」
「心配は要らない。このくらいなら、余裕で駆け上がれる」
「嘘でしょう?」
「嘘を吐いて、何の意味がある? 時間が惜しい、早く後ろに乗ってくれ」
「信用するからね」
覗き込むようにして、俺の目を見てきた。
用心深いのは、いいことだ。
だが、あまり疑われすぎるのは気分が良くなかった。
近づいてきたニニカが、タンデムシートを跨いで、腰を下ろす。
サスペンションが、僅かに沈んだ。
腰の前に、細い腕が回されてくる。
「しっかりと、ベルトを両手で掴んでくれ。……そうだ。それでいい。腕を締めて、身体を前へ寄せてくれるか?」
「ちょっと待って。……これでいい?」
ふにゅりとした柔々さが、背中に伝わってきた。
ニニカが腕を締めるにつれて、感触が広がっていく。
たっぷりとしたボリュームが、密着感を伝えてきた。
だが、あまりにも柔らかい。
とても身体を固定できているようには思えなかった。
このままだと登攀中に、重心がブレるんじゃないだろうか?
「もっと強く抱きつけないのか?」
「これ以上? しっかりと抱きついているつもりなんだけど」
真剣な声音だ。
視線を腰に向ける。
ベルトを掴む、細い指の関節が白くなっていた。
背中の方を見てみる。
確かに、ニニカの身体は密着していた。
思わず、感想が口を衝いて出る。
「頼りないほど柔らかいんだな。女の身体は……」
「なんて言ったの? 声が小さくて、聞こえなかったんだけど」
「膝を閉じて、俺の腰を挟んでくれ」
瑞々しい白い太ももが左右から、俺の腰を挟んできた。
むっちりとした弾力が、圧迫感を伝えてくる。
これも、また柔らかすぎて、頼りなかった。
だが、まあ、精一杯の力を込めてはいるんだろう。
そう判断する。
「三、四分ほどは、力を緩めず抱きついていてくれ。トライクを進ませる。準備はいいか?」
「大丈夫」
崖を見上げた。
登攀ルートは見えている。
軽くアクセルを開けて、斜面へ前輪を押しつけた。
動輪のトルクを最大にして、崖肌を捕まえさせる。
斜面にある微妙な凹凸に、タイヤを引っかけて、トライクをジグザグに進ませた。
予想より早い。
二分ほどで、尾根に到達した。
眼下には、一面の荒野が広がっていた。
急峻な崖下から吹き上がってくる風が強い。
微かに、潮の匂いが混じっている。
強風が吹き抜けた後は、僅かの間だけ、周囲の臭気が薄らいだ。
「この風向きは、いつも同じなのか?」
「そうだけど。それが、どうかしたの?」
「何でもない。ここに廃棄場が作られた理由なのかと思っただけだ」
「うん。それは当たってる」
「今度は下りだ。腕が疲れただろう? 少し休むか?」
「ありがとう。一分だけ、休ませて」
俺のベルトから、細い指を離して腕を振った。
強ばりを、解しているのだろう。
体重が微かに、後ろへ移動する。
背中に伝わってくる、柔々の感触が減った。
振り返って、ニニカの横顔を見た。
登ってきた崖を見下ろしている。
「まだ信じられない。こんなの、運動神経が良いとかのレベルじゃない」
「慣れれば出来る。大したことじゃない」
「……もしかして、エマシン乗りだから?」
「そんなに、広まっている話なのか?」
「じゃあ、やっぱり……」
噂に過ぎない。
エマシン乗りに、特別な能力はない。
本人が言うのだから、確実だ。
ただし、業界に古くから、そういう種類の噂があるのは事実である。
有名な話だけでも、かなりの数があった。
古今東西を含めれば、枚挙にいとまがない。
眉唾物の話が、一般にまで広まっているのだろうか?
「与太話だ。どれだけエマシンに乗ろうが、人間が変わることなんてない」
「だけど……、腰に下げてるのは、ブラスト剣でしょう?」
「俺は、エマシンの装備にフィンブレードを使う。だから慣れている。それだけだ」
「銃じゃなくて、剣で身を守るなんて、普通の人には出来ない。違う?」
妙に、真剣な眼差しだ。
真摯に問われたので、少し考えてみる。
やはり、特別な能力があるとは思えない。
強いて言うとすれば、多少は集中力が高いのだろう。
意識して集中をすれば、いつでも、瞬時に感覚を研ぎ澄ませる。
この状態だと、やるべき事に深く没頭できた。
自分の周りから、必要な情報以外は削ぎ落とされるからだ。
ブラスト剣一本で、身を守れるのは、この特技に依るものだ。
そう言えば、いつ頃から、これが出来るようになったんだ……?
最初は、俺も銃を使っていたはずだ。
持たないようになったのは、いつだ。
はっきりと思い出せない。
何か他にも、なかったか?
いつの間にか、出来るようになっていたことが。
思い返してみる。
重力の感知。
……いや。何を悠長に、物思いに耽っている?
一分は、既に経過していた。
「腕の力は、回復したか?」
「……大丈夫だと思う。これでいい? しっかりと掴まったつもりだけど」
「平地に降りるまで、力は緩めないでくれ。速度は出しすぎないようにする。行くぞ」
ニニカの息を飲む気配が伝わってくる。
大丈夫だ。心配しなくていい。
意識を集中する。
そうして、危なげなくトライクに崖を下らせていった。
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