【第2章】脱出

第4話 苛立ち

真っ暗闇の深海。

想像を絶する途轍もない水圧。

一センチ平方メートル辺りに受ける圧力は、一トンに迫っていた。

エンガインの物理強度だけでは、一瞬で圧壊しただろう。


(くそっ……、押し潰されはしないものの、それでもエンガインの動きが鈍い……)


焦れる。

エンガインの手足が、思うように動かせなかったからだ。

膨大な水圧に、動きが阻まれているせいである。

だが、どれだけ焦れても、スライトを作動させるわけにはいかない。

ブロムを消失させた途端に、エンガインは圧壊するからだ。

一歩一歩、慎重に海底を歩かせ続けるしかないのだ。


(何時間、……いや、何日か掛かるんだ? そもそも、進んだ先に陸があるのか?)


勾配を頼りにするしかない。

少しでも、高い位置を目指して、移動をするしかないのだ。

日の差さない深海の闇では、エンガインの外部照明は十メートル先にさえ届かない。

はっきりと見えるのは、エンガインの足元だけだ。

一歩を踏み出させるごとに、海底に溜まった堆積物が、灰色の濁りとなって辺りへ漂っていた。


(何時間が経った……? 五時? もう三時間も、歩かせ続けているのか?)


精神的に、辛くなってきた。

景色が変わる様子が、全くなかったからだ。


(バルテルの惑星表面は、六対四の割合で、陸地より海洋の方が広い。うろ覚えだが、大陸の間には、一万キロメートル単位の海洋が広がっていたはずだ……)


……考えを巡らせるのは止めよう。

不安が、心を締め付けるだけだ。

そう決めると、エンガインを歩ませ続けることだけに集中する。

ようやく、辺りの色味が真っ暗から、薄暗い青に変わってきた。

更にしばらくすると、シルエットでしか捉えられなかった黒い魚影が、鱗の燦めく瑞々しい魚体として判別できる。


(あの魚群は、鯖じゃないのか……? だとすると、それほどの水深ではない……?)


足元に落としていた視線を、真上へ向けた

澄んだ一面の碧に、一点だけ、白い強い明かりが揺らめいている。


(あの光……、太陽じゃないのか……?)


情報コンソールを確認する。

やはり、現在地の水深は百メートルにも満たない。

間違いない。太陽だ。

心が息を吹き返す。

エンガインの足を早めさせた。

ゴツゴツとした岩場の傾斜を登らせ続けると、更に水深が浅くなってくる。

水深は二十メートル程度だが、これ以上は先へ進めない。

絶壁に阻まれたからだ。


(もしかすると、切り立った岩石海岸なのかも知れない)


願いを込めて、フットペダルを踏み込んだ。

作動したスライトが海水を激流に変えて、余波が海底を砕く。

強烈な勢いで跳び上がったエンガインが、海面を割った。

陽光に煌めく水しぶきの向こうに、陸地が見える。


(陸地だ! 陸地が広がっている!!)


足元から、地面が迫ってきた。

切り立った崖の端に、エンガインが着地する。

白い巨体から滴る大量の海水が、赤茶けた大地を黒く染めていった。

膝立ちしていたエンガインを立ち上がらせて、周囲を見回す。

日差しが容赦ない。

雲一つない青空から、ぎらぎらとした陽光が照りつけている。

見渡す限り続いている赤茶けた大地からは、砂塵が巻き上がっていた。

植物の姿は下草一本さえ、見当たらない。完全なる不毛の荒野だ。

人工物も、一切見当たらない。


(ここは、どこなんだ……? 位置は分かるのか?)


私物であるタブレット型の情報端末を手に取った。

海底にいたときから変わらず、圏外を表すマークが表示されている。

中継局からの電波を拾えていない。


(そうだ。光通信ユニットを使って、通信衛星に割り込めば……)


エンガインに外付けしている光通信ユニットに自己診断を走らせる。


(正常であってくれ)


深海の水圧に耐えたようだ。

異常は検出されていない。


(広域への通信は、……止めた方がいい)


誰に拾われるか、知れたものではない

手間だが、真っ青な空へ向けて、指向性の通信を試みる。


(通信衛星は、それなりの数があるはずだ。何度か試せば、当たるかも知れない)


所定の手続きを行った。

応答は返ってこない。


(十五度目。これ以上は……)


無駄だろう。

やはり、通信衛星の位置が分からないことには、接続しようがない。


(手持ちの通信手段では、ネットワークへ接続できないことが分かった。……一体、どうすればいい?)


思いついたのは、地形照合だ。


(……駄目だ。バルテルへの落下時には巨大台風に遮られて、地形を見られていない)


地形を照合して、おおよその位置を知ることも出来なかった。

台風の渦は、反時計回りをしていたことを思い出す。


(北半球のどこか……。それが分かったとして、何の役に立つ?)


もちろん、何の役にも立たなかった。


「どうすればいい?」


声に出してみたが、答えは返ってこない。

当然のことだ。

完全に、手段を失っている。


途方に暮れながら、灼熱の景色をぼんやりと見つめた。

外気温は四十一度であると、情報ターミナルが示していた。


ヘルメットを脱いで、シートの後ろへ引っかける。

簡易宇宙服の襟元に指を突っ込んで、ファスナーを引き下げた。

暑さを体感したからではない。エンガインの操縦房は二十五度に保たれている。

視覚が捉えた情報に、思わず身体が従ったのだ。


本能的な動作をしたせいからか、喉の渇きを強く感じる。

一度、意識に上ると我慢が出来なかった。


口を開けて、顔を前へ動かす。

軽い圧迫感が口内を満たした。噛み切るように前歯を合わせて、口を閉じる。

プチンという食感に続いて水分が、じゅわっと溢れて口内を濡らした。


(相変わらず、何の味もしない)


舌触りと味が水と変わらない液体を飲み下した。


このようにして操縦房にいる限り、喉の渇きは凌げる。

操縦房は、無色透明かつ抵抗や浮力のない液体で、満たされているからだ。

皮膚に触れる部分には、膜が形成される。このため身体が濡れることはない。

また膜を透過して空気は循環しているので、呼吸を遮ることもなかった。


この液体は、外部からの衝撃を和らげることが主目的らしいが、飲用にも適している。

思いのほか、喉が渇いていたようだ。三度、口内を満たした液体を嚥下した。

四度目を繰り返そうとして止める。


(……違う。腹が減っているんだ)


苛立つ。

腹が減っている事に気づたせいだ。

気分が、ささくれ立ってくる。


(ニコラス、それにオラヴィ)


感情が黒く染まる。

奴らの顔が、脳裏をよぎったからだ。


(俺の生まれが、普通なら。あんな奴らのところで、働くことはなかったんだ……)


怒りの収まる気配がない。

出自にまで、矛先が向いた。


(親父が、他の生き方を示してくれれば、また違ったのかも知れない)


過ぎ去った過去は、変えられない。

分かっていても、思い返さずにはいられなかった。

俺が、エマシン乗りになった経緯を。

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