第6章⑤
それから数日。
すっかり引きこもりになっていたこの数日間、みたらしとしらたまがいなかったら軽く廃人になっていたと思う。二匹のお世話をすることで自分を奮い立たせ、晴れて無職になった私は、とりあえず銀行のATMへ通帳のチェックをしに向かった。
「…………なにこれ」
そして呆然とした。
なにこれ。いやマジでなにこれ。通帳の残高が見たことのない数字になっている。いやこの数字、私じゃなくてもそうそう見たことがないに違いない。なにこの桁数。いち、じゅう、ひゃく……嘘でしょなにこれ。いや本当になにこれ。
信じられなくて何度もゼロの数を数えるのだけれど、何度数えてもその数は変わらない。
柳みどり子、この年にしていきなり富裕層の仲間入りしました。いや本当の富裕層はもっととんでもないのだろうけれど、この通帳の数字、今までの私からしてみればもう富裕層と言って過言ではないものである。
私がしろくんにクビ宣告されたその日に、とんでもない金額が入金されていたのだ。それこそ、向こう三年は何もせずとものんびり暮らせそうな額である。
そういえば退職金がどうとか言っていたけれど、もしかしなくてもこれ? これなの? いくらなんでも度が過ぎていないだろうか。これ税金とかどうなるんだろう。この上さらに、しろくんへの私の借金もチャラになってるんだよね? 流石にそれはどうなの。しろくんどんだけ私に甘いの。いやいきなりクビにしてくれた相手を甘いと言っていいのかは謎だけれども。最後の最後までお世話になってますありがとうございます、なんて言うと思うなよばーか。
素直に受け入れるにはまだ胸が痛んで、涙腺がまたしてもぶっ壊れそうになる。それにしてもやっぱりこれはまずいのでは。税務署になんて申告するのこれ。レディ・エスメラルダの退職金としては妥当なのかこれ。前例がなさすぎてまったくわからん。
…………もしかして。
「手切れ金のつもりかな」
思わず口からこぼれたその言葉は、驚くほどしっくりきた。
ああなるほど、だったら上等だ、ありがたく頂戴しようではないか。これが手切れ金なら妥当なところ……いや、ぜんぜん足りないくらいだ。それなのにこれっぽっちでOKを出してあげようとしている私はなんてつつましやかで遠慮深いのだろう。そういう私を放り出したしろくんにはぜひとも後悔し、夜、涙で枕を濡らしてもらいた……くはないな、普通に忘れてほしい。主に私のあのアホなセクシー衣装とか。
クビ宣告から数日経過して、やっと落ち着いて現状を考えられるようになった。流石にこの通帳の残高には度肝を抜かれたけれど、それはそれとして、私がカオティックジュエラーに所属し続けるのは、遅かれ早かれそのうち無理が生じるに違いなかったように思う。
なにせジャスティスオーダーズ略してジャスオダの正体も知ってしまって、こっちの身バレもしてるからな。柳みどり子がレディ・エスメラルダであるという方程式に、ジャスオダ側に辿り着かれるのも時間の問題だっただろう。そのジャスオダのメンバーからはなぜかあれ以来度重なる連絡が来るし。
朱堂さんからは「おはよう、いい天気だな」とかなんてことのない挨拶が来て返信に毎回困る。おはようからおやすみまで、カスタネットでスタッカートのリズムを刻むように来るメッセージに何度と惑わされたことか。
どう変身……間違えた、返信しろと。結局こっちも「おはようございます」から「おやすみなさい」まで、最低限の挨拶を返すことしかできないでいる。私に連絡してる暇があったら、なんだっけ、新たに現れたレディ・エスメラルダと同じくらいの熱量で想う女性とやらに小刻みに連絡を取った方がいいと思うのだけれども。
桜ヶ丘さんからは「二人でアフタヌーンティーとかどう? 女子会しましょ」というありがたいけれど金銭的な問題でお断りするより他はないお誘いが来る。アフタヌーンティーと以外にも、ウィンドウショッピングとかカフェでランチとかパフェ巡りとか。彼女はおしゃれな上に甘いものがお好きらしい。それであんな華奢なボディなのだから素直にうらやましい。私なんて、ちょっと食べたらすぐに贅肉になるのに。主に胸とお尻に。
そろそろお断りするのも申し訳なくなってきているので、しろくんからの手切れ金もとい退職金で、私がご馳走させてもらうのもいいかもしれない。私なんかのお誘いに桜ヶ丘さんが応えてくれるかは解らないけれども。
蒼樹山さんからは「今日も深赤がまたやらかしました。それがいいところでもあるんですが……。みどり子は無茶な真似はしないでくださいね」云々という日々の愚痴と気遣いのお言葉を頂戴している。蒼樹山さん、私のことナチュラルに子供扱いしてる気がするな。名前も呼び捨てだし。彼の親愛の証は名前呼びなの、とは桜ヶ丘さんが言っていたことだったか。
蒼樹山さんはクールぶってるけど、あの人、たぶんオカン属性だと思う。ようは世話焼きなのだ。私が節約にいそしんでいることをチラッと言ったら、わざわざ近隣のスーパーの特売情報を送ってくれるようになった。とてもありがたいけれど蒼樹山さんくらいハイスペックな男性にそれをやらせているのだと思うと罪悪感がすごい。
山吹さんからの連絡は、一番雑談に近い。やれ「あの映画が面白かった」だの、やれ「あそこの商業施設に新しい店が入った」だのと、いいな、面白そうだな、というキャッチ―な話題に富んでいて、地味に一番心に優しい連絡だったりする。
たまに「一緒に行かない?」と社交辞令で誘ってくれる彼は、やはり気の利くモテる男なのだろう。毎回「皆さんで楽しんできてください。お土産話で十分です」と返すより他はないのが、こちらもそろそろ申し訳なくなってきている。
とはいえ、ジャスオダメンツと一緒に一人でお出かけできるほど私の神経は図太くできていない。レディ・エスメラルダがアホなセクシー衣装を着ているとはいえ、その中身は極めて繊細な一般人なのである。自分で言うなって? 自分で言わなきゃ誰も言ってくれないから言っているのである。
さて、こうなると残る一人の黒崎さんは? という話なのだが、彼はジャスティスブラックであると同時にカオティックジュエラーのスパイであるエージェント・オニキスであるので、カオジュラをクビになったその日にさくっとブロックさせていただいた。どうせ今後私に連絡してくることなんてないだろうし構わないだろう。
ついでにカオジュラの連絡網からも私のアカウントはもちろん脱退、ばっちりブロックしている。別にこんなことをしたって意趣返しにも何もならないし、向こうにとっては手間が省けたくらいにしか思ってもらえないだろうけれど、もう気分の問題だ。いつまでも過去にすがっているほど私は暇ではない。
そうだとも。考え方を変えよう。いつまでもレディ・エスメラルダでいられるわけもなかったのだ。あんなアホなセクシー衣装から解放された、望んでいたはずの退職だ。退職金は想定以上にたんまりだし、次の職を探すのにも余裕がある。あの高級宝飾店NEWBORNに長年勤めていたという実績もあるのだから、次を見つけるのはそう苦労はしないはずだ。
そう、何も悩むことなどない。私の人生は、やっと順風満帆なのだ。それなのに。
「……さびしい、なんて」
通帳に並ぶゼロの数が、こんなにもむなしいものだなんて知らなかった。
やだやだ、過去にすがらないとか言いながら結局過去を惜しんでいるこの女々しさに嫌気がさす。ぬれ落ち葉みたいなこの根性を誰か叩き直してほしい……いや嘘です今だけは優しくしてほしい。私は基本的に自分に甘い人間なので。
あーあ、とりあえず今日はさっさと帰って、求人サイトめぐりでもしようかな。高卒で特に資格を持っているわけでもない私がどこまで通用するか解らないけれど、いつまでも立ち止まってはいられない。
私は、大丈夫。しろくんがいなくたって、私は生きていける。ツンと鼻の奥が痛くなったけれど、気付かないふりをして、やっとATMを後にする。
せっかくの多額の臨時収入だし、みたらしとしらたまに豪華なおやつを買って帰ろう。駅前のホームセンターか薬局あたりに寄り道して……、と、そちらへと足を向けた、その時だ。
就職した時にしろくんに「お祝いだからね」と半ば無理矢理押し付けられ、いまだに手放せない、もう随分型落ちになってしまったスマホの着信音が鳴り響いた。
私のスマホに直接連絡を入れてくる相手なんてしろくんくらいなものだ。だからだろうか、やっぱり私の根性はぬれ落ち葉のようにべったりと彼の面影に張り付いていて、画面に表示されている名前を確認するよりも先に、反射的に通話ボタンを押す。
「はい、柳です」
『あ、柳さん?』
「……桜ヶ丘さん?」
電話越しでも可憐な声音に、思わずその名前を呼んだ。
そう、電話をかけてきた相手は、ジャスティスオーダーズのピンク担当、桜ヶ丘桃香さんである。私の驚きが伝わったのか、電話の向こうで桜ヶ丘さんはくすくすとやっぱり可憐に小さく笑って、「今、電話して大丈夫?」と問いかけてくれた。
「大丈夫ですけれど……どうしました?」
いつも何かしらある時は、連絡用アプリでメッセージをくれるのに、こんな風に直接電話をくれたのは初めてだ。何かあったのだろうか。ここでさらに私にショックを受けさせるような内容だったらもれなく泣き崩れる自信があるぞ。
まあね、もうレディ・エスメラルダの正体について怯える必要はなくなったし? 今後桜ヶ丘さんをはじめとしたジャスオダメンツを避ける必要はないだろう。
とはいえ、それでもいきなり距離を詰めることもためらわれる。そんな私の逡巡に、桜ヶ丘さんは気付いているのかいないのか、「あのね」と口火を切った。
『いきなりで悪いんだけど、次の日曜日とか空いてる?』
「え? あ、はい。空いてますけど」
『ほんと? じゃああたし達と、遊園地行かない? ほら、このあいだオープンしたばっかりの、コズミックギフトランドってとこ』
「コズミック……ああ、港の近くの?」
『そうそこ! 透子さんがあたし達にってチケットくれたの。あそこも行政が一枚噛んでる施設らしくて、そのツテで手に入れたんだって』
だからどう? と重ねて問いかけてくる桜ヶ丘さんに、どう答えたものかと思案する。
正直言って、今の気分でジャスオダメンツと楽しく遊園地なんて無理だ。無理無理の無理、もう一つ重ねて絶対に無理だ。
というか、透子さん、そこまで手広いツテとコネをお持ちなのか。コズミックギフトランドは開園以来満員御礼で、そのチケットは予約戦争待ったなし、転売ヤーから手に入れようにも、その対策は今までになく厳重なもので、個人情報をきちんと登録して身分証明書がないと入園不可能という、ある意味地上の要塞と言っても過言ではない行楽施設なのに。
この機会を逃したら、おそらく一生縁がないに違いない場所だ。今までもそうだったのだから、今後もたぶんというか確実にそうだろう。でも。
「あの、そんな貴重なチケット、私……」
『あのね、柳さん。あたし、基本的にわがままなの』
「は、はい?」
何を突然言い出すのか。桜ヶ丘さんの言葉の意図が掴めずに瞳を瞬かせると、電話の向こうで桜ヶ丘さんは笑ったようだった。
『あたしはそういうあたしが好き。だからわがままなところは治す気がないの。というわけで、柳さんに拒否権はないわ』
「ええええ……?」
『日曜日、柳さんも一緒にコズミックギフトランドに行きましょ。他のメンバーは、深赤と青威と黄一ね。ちなみに玄磨は欠席』
「あ、あの」
『玄磨の予定が合わなくてね。だからその分を、柳さんに譲りたいの。他の男どもも満場一致で柳さんがいいって言うくせに、自分で誘えないヘタレどもだから、あいつらのことは背景だと思えばいいわ』
背景ってそんな。あまりにも豪華すぎる、だいぶ無理がある背景である。
あのイケメン三人を背景と言い切る桜ヶ丘さんは心身ともに強い、凛々しい女性なのだろう。そうですね、桜ヶ丘さんほどの美貌があれば、あのイケメンも背景に……っていやいやいや、無理があるでしょやっぱり‼
どうやっても主役にしかなれないイケメンが三人もいるんだぞ⁉ そんな彼らを従えるおひめさまが桜ヶ丘さんだと言うのならまあ納得は納得だけれど、その中に私が入るとなると話は違う。おひめさま付きのメイド役すらおこがましいわ身の程を知れ!
い、いくら、黒崎さんが……エージェント・オニキスがいないって言っても……うう、あの人がいないなら、だ、だったら…………い、いや、でも!
「いいいいや、で、でも、私……」
『…………あたしとデート、嫌?』
「とんでもございません‼」
悲しげな儚い声音に、食い気味でつい即答してしまった。アッしまったつい。
あああああ桜ヶ丘さんが「よかった、嬉しい」なんて電話の向こうで言ってくれている。ここで前言を撤回できるほど私は鬼にはなれない。柳みどり子は完全敗北です。白旗をぶんぶん振り回しております。桜ヶ丘さんこそ世界で一番おひめさまです……。
そして桜ヶ丘さんは、「待ち合わせとか詳しい予定についてはメッセージ送るわね」と言って、トドメのように「やっと柳さんと遊びに行けるわ。楽しみにしてる」と言い残してぷつんと電話を切ってくれた。
ここまで言われてしまったらもう覚悟を決めるより他はない。桜ヶ丘さん、ずるいなぁ。自分のわがままだと言い切って、私の拒否権まで奪っておきながら、最後の最後で本当に嬉しそうな声でこっちまで嬉しくなる台詞をくれるのだから。
桜ヶ丘さんとデート……あの美女と……しかもコズミックギフトランド……。桜ヶ丘さん曰くの背景に三人もイケメンがいるけれど、でも、うん。
「ぱーっと息抜き、してもいいかなぁ」
まあ桜ヶ丘さん達がジャスオダだという無情な現実を忘れてはいけないんですけれども‼
それでもかまわない。だって私はもう、カオジュラとは何の関わりもない一般人なのだから。これくらい遊んだって許されるはずだ。そうだとも、誰に許されなくたって、私が私を許してあげよう。
そう思ったらなんだかすごく日曜日が楽しみに思えてきて、私は数日ぶりに心からの笑みを浮かべたのだった。
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