第5章⑦

 これで私が本当にただの一般ピーポーだったらまだ納得できたかもしれな……いやあんまりその自信はないな、まあでも納得できずとも諦めることはできたかもしれない。けれど私はノット一般ピーポー、イエスレディ・エスメラルダなのである。うっかりジャスオダで正体がバレたら私はどうなるというのだろうか。考えるだけでも恐ろしい。

 それなのに、だからこそマスター・ディアマンは行けとおっしゃる。笑顔で。にっこり笑顔で。そのお綺麗なツラ、いっぺんビンタでもされないと現場が解らないのか。お望みならバチンバチンバチコーン! と三連発と言わずいくらでも全力ビンタをプレゼントしてさしあげますが。

 そうやって私が内心で反論しながら、なんとかジャスオダ加入から逃げるための糸口を探し続けていることに、マスター・ディアマンはしっかりばっちり気付いていらっしゃるらしい。「期待はしていないから、適当に頑張ってくれればいいよ」と続けてくれた。

 いやだからあのですね、期待してないなら最初からこんな命令しないでほしい。

 ええそうですね、私、隠し事下手ですもんね、そりゃスパイになんて向いてないですよね、自分でも解ってますよ、付き合いの長い幼馴染のあなたならそりゃあよくよくご存じのはずですよね‼

 ――――と、言いたくても、言えるはずもなく。


「レディ・エスメラルダ、善処を尽くします……」


 頭痛と胃痛できりきりまいまい、図らずも涙目になって粛々と頭を下げる。しがない派遣社員でしかない自分の身の上が憎い。上司の命令は絶対である。どうしてこうなったぽいずんぽいずん。

 なんとかしてくれると思っていた頼みの綱のマスター・ディアマンがコレなので、私は当分カオジュラとジャスオダの二足わらじが決定してしまった。なんということだろう。

 ああでも、『なんとかしてくれる』と思い込んでいたのは思い返してみるとまずかったな。何もかもおんぶにだっこされたいわけじゃないのだから。自分の甘えに今更気付かされて情けないし恥ずかしい。

 マスター・ディアマンは、しろくんは、私にそれを許してくれているけれど、それでは私が嫌なので、やはり改善の余地がある。まあでもそれはそれとしてそれにしてもこんな二足わらじは勘弁してほしかった。ぽいずん。

 マスター・ディアマンの前であるにも関わらず、つい遠い目になって溜息を吐いてしまう。そんな私を、にこやかに見つめていた彼は、そのままの笑顔で、「みどり子ちゃん」と私を呼んだ。

 レディ・エスメラルダ、ではなく、みどり子ちゃん。

 おや、と目を瞬かせると、彼はいつも通りの笑顔で微笑んでいた。

 

「本当に嫌だったら、逃げていいんだよ」

「え?」

 

 やわらかく告げられたその言葉は、思ってもみなかったものだった。不意打ちすぎて一瞬理解すらできなくて、瞬きをしてからその言葉を噛み砕く。

 マスター・ディアマンは……しろくんは、そんな私を穏やかな笑顔で見つめるばかりだ。

 

「逃げる、って」

 

 何から、だろう。それともこれは私の聞き間違いか空耳だろうか。

 うん? と首を傾げてみせても、しろくんの笑顔が崩れることはなく、彼はとうとうと謳うように続ける。

 

「ジャスティスオーダーズからも。カオティックジュエラーからも。他には、そうだな、個人を挙げるなら朱堂深赤、だっけ。あのジャスティスレッドからだって逃げていいし、大きなものを挙げるなら、この国からだって逃げていい。みどり子ちゃんにはそれがゆるされているし、それができるだけの手段がある」

「いや私そんな権力ないけど」

「僕がいるでしょ」

「……なるほど?」

 

 うわこの人、普通に国家権力くらい屁でもない発言しましたよ皆さん。

 流石天になんでもかんでも与えられ、なんなら押し付けられるくらいの勢いでギフトをたまわってる人は言うことが違う。あまりにも傲慢な物言いは、呆れるを通り越し、一周回って感心を呼ぶ。

 そんなしろくんが、自ら私なんかの味方となり、手札となると言ってくれるのは、世界の七不思議のひとつに数えられるべき事実であると思う。

 昔からそうだ。出会った時からずっと、しろくんは、しろくんだけは、ずっと私の味方であり続けてくれている。

 

「しろくん、私は……」

「だからね」

 

 思わず、何を言おうとしているのか自分でも解らないのに、つい口を開いたけれど、その台詞はしろくんの有無を言わせない口調に遮られた。

 あ、と口を噤むと、彼はそのやわらかくて優しい笑みをふんわりと深める。


 

「もちろん、僕からだって、逃げていいんだよ」


 

 いっそ甘やかさすら感じる、ピロートークみたいな響きだった。いやピロートークなんざ聞いたことないけど。これからも縁がないに違いないけど。でも、たとえるならきっと、と思えるくらいには、しろくんの言葉は優しくて甘い、毒のような魅力に満ちていた。

 なんとなくごくりと息を呑む私を置き去りに、しろくんはあまりにも甘く続ける。

 

「全部捨てて、自由になっていいんだ。みどり子ちゃんが心から望むなら、僕はいくらでもその手伝いをしてあげる。だから、逃げたくなったら、いつでも言ってね」

 

 ――――なんだろう。

 とても優しいことを言われているのに、それなのに私はなぜだかどうしようもなく悲しくなっている。さびしく、なっている。思わずぎゅっと拳を握り締め、ついでに唇も噛み締める。そうしないと、うっかりぼろっと泣き出してしまいそうだった。

 冗談ではない。ふざけないでほしい。泣いてたまるものか。

 しろくんはもしかしたら私がここでキレ散らかして自爆するのを待っているのかもしれないけれど、だとしたらお生憎様である。私はまだ冷静だ。冷静で、いなくては、と、そう自分に何度も言い聞かせて、そうしてやっと、口火を切る。

 

「……しろくんは、私に逃げてほしい?」

 

 声が震えそうになった自分がもうあまりにも悔しくてならない。それでもちゃんと言葉ははっきりとしろくんに伝わった。伝わって、しまったのだ。安堵したのも束の間、すぐに後悔した。一度発した言葉はもう取り戻せない。やめておけばよかったと、どれだけ後悔したとしても。

 きっとこの問いかけは、口にしてはいけないものだったのだろう。いくら馬鹿な私でもそれくらい解る。理解せざるをえなかった。

 だってしろくんが、本当に困り切ったように、その笑顔を、途方に暮れたものへと変えたから。


「――さあ、どうだろう?」


 それは、私に対する問いかけというよりは、しろくん自身へと向けた問いかけであったのかもしれない。

 賢くて頭のいい、知能指数未知数の天才にも解らないらしい。「どう思う?」と続けざまに問いかけられても、しろくんに解らないものが私ごときに解るはずもない。

 誰かドクター・ベルンシュタインもとい曙原橙也くんを呼んできて、と思いながら、わざとらしくムッとした表情を取り繕う。

 

「ちょっと、質問に質問で返すのはずるいでしょ」

「そうだね」

 

 ごめんね、としろくんは笑う。やっぱり困り切った、途方に暮れた笑顔だ。とても綺麗な笑顔だけれど、同時になぜだか悲しくてさびしくてならない笑い方だから、どうにもこうにもたまらなくなって、けれどどうしようもなくて、私はいつも通りを装いながら、ずっと握り締め続けていた拳を解いた。

 何も解らないし、何も解っていないし、何も解ろうとしない私こそが、きっと一番ずるいということを、改めて思い知らされる。

 でも、そういうずるい私だからこそ、何も知らないふりをして、この場でしろくんに笑い返せるのだ。

 

「今のところ逃げたいとは思ってないから、まあたぶん大丈夫!」

 

 わりとギリギリのところでだけどな‼ 何度か辞表をしたためたことあるけどな‼

 そう顔にでかでかと書いて、わざとらしくぎゅっと両手を握り締めてガッツポーズを決めてみせた。年甲斐もないあざとい仕草なんて似合わないことは百も承知の上だけれど、これくらいやってみせないと心が折れそうなんだよこっちは。カオジュラもジャスオダもぽいずんぽいずん‼

 私のカラ元気なんて絶対にお見通しだろうに、しろくんはそれでも突っ込んでくるような真似はしなかった。にっこりと、やっといつもの感情が読めない笑顔になって、「頑張ってね」と他人事のようにのたまってくれた。

 ほんっとに他人事だと思いやがってこんちくしょう、と思いながら、私はやっぱり粛々と頭を下げるしかなかったのである。

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