第5章⑥

 その次の日、思いのほかあっさりと、私はジャスティスメイカー総本部から解放してもらえる運びとなった。

 深く地下に広がる施設から地上に出た時、その表向きの姿が、昔ながらの駄菓子屋さんだったことには流石に言葉を失った。カオジュラの秘密基地があるビルが都会のど真ん中というのならば、こちらは下町のど真ん中だ。電車一本、ものの十五分の距離である。近い。思っていたよりもだいぶ近かった。

 透子さんの趣味の一環で運営されている駄菓子屋さんらしい。あの方、ジャスティスメイカーの司令官として公務員扱いらしいけど、どこまで手広く商売を広げているのだろう。いや彼女がやり手なのはもう最初から解り切っていたことだけれど、まあそれにしてもすごい。

 そんな彼女は、昨日の今日で早くも、物件から荷造りから引っ越し手続きから、何もかもの手続きをしてくれたそうで、「今日会社に行ったら、帰りはここの家だよ」と住所が書かれたメモを渡してくださった。ありがたいというよりもただただ怖い。対応が早すぎて追いつけない。透子さんが一晩でやってくれましたとか言っている場合ではない。外堀が完全に埋められたことを私は悟らざるをえなかった。

 透子さんのご厚意、いやご配慮、いやいやむしろ逃げられないようにするための根回し、に無理矢理甘えさせられて、みたらしとしらたまを新居に連れて行ってもらうように託し、私はその足で会社へと向かった。もちろん昨夜から今朝に至るまでのあらましを、しろくん、もといマスター・ディアマンに報告するためである。

 透子さんのご厚意で借りた宿泊室で、シャワーは浴びてきたし、桜ヶ丘さんが気を利かせて下着とストッキングを用意してくれておいたけれど、それにしてもほぼほぼノーメイクでの出勤はいたたまれない。それがあのとんでもない美貌のしろくんを前にしなくてはならないのならばなおさらだ。

 これで幼馴染じゃなかったら絶対に遅刻してでもフルメイクしていたな、と半ば現実逃避のように思いつつ、いよいよしろくんがいる、高層ビルの最上階に辿り着く。

 あああああああ、ここにきてものすごく嫌になってきた。なに? なんて説明するの? レディ・エスメラルダは、昨夜からジャスオダに加入しました! 二足わらじで頑張ります‼ とでも言えというのか。そんな馬鹿なという話である。

 じわじわと冷たい汗が噴き出す中、扉の前に立ち尽くす。けれどいつまでもこうしているわけにはいかない。

 いざ、と、ノックを三回。「どうぞ」という返事に従って、扉を開けて足を踏み入れる。

 しろくんは、部屋の奥のデスクの向こうの椅子に腰かけて、こちらのことを見つめていた。「おはようみどり子ちゃん」とやわらかく笑いかけられて、うぐっと言葉に詰まりそうになったけれど、そこを乗り越えて「おはようしろくん」といつものやりとりを交わす。

 そして。

 

「社長……ではなく、マスター・ディアマン。このレディ・エスメラルダ、ご報告したい旨があり参上しました」

「……そう。話を聞こうか」

 

 そして私は、昨夜からの顛末を、マスター・ディアマンに語ることになった。彼は、私のアパートが襲われて、みたらしとしらたまがさらわれた件については当然知っていた。最終的に助けに来てくれたのだからそれは当然だろう。問題はその後だ。

 私がレッドの正体を知ってしまったこと、それがきっかけでジャスティスオーダーズに加入しなくてはならなくなったこと、ついでに引っ越しもすることになったことを余談として付け加える。

 私の話を、マスター・ディアマンはいつも通りの笑顔で、ときに相槌を打ち、ときにうまいこと促してくれながら、ちゃんと聞いてくれていた。

 そう、ちゃんと聞いてくれているからこそ、なのか、彼の周りの空気がどんどん冷たくなっていく。こんなにもやわらかくて優し気な笑顔なのに、その色素の薄い瞳に宿る光が氷点下だ。寒い。空調が故障したのかと思えるくらいに寒い。

 そして彼は、私が「以上です」と話を締めくくると、すうっと瞳をすがめた。


 

「――――やってくれたね」

「申し訳ございません‼」


 

 とんでもなく冷たく低い声音に、土下座せんばかりに頭を下げる。ここまでしろくん、じゃなかった、マスター・ディアマンが不機嫌……を、通り越して、はっきりとした怒りをあらわにすることなんてそうそうない。

 はい、やりました。私、やらかしました。私のせいではないんじゃないかな⁉ とは思うんですけど、結果的には全部私が悪いです。申し訳ございません。

 頭が上げられなくて、九十度腰を曲げたまま固まっていると、マスター・ディアマンは「顔を上げるように」と静かに続けた。

 恐る恐るその通りにすると、彼はいまだに怒りの雰囲気をまといながらも、それでも穏やかに私に笑いかけてきた。

 

「やってくれた、と言ったけれど、僕が言いたいのはエスメラルダのことじゃないよ。その点は安心するといい」

「は、はい」

 

 だったら誰が『やってくれた』んだろうとは思ったけれど、ここで問いかけるような愚は冒さなかった。人間、知らなくていいことは人生において往々にして存在する。私のせいじゃないならそれでオッケーだ。

 マスター・ディアマンの怒りの矛先を向けられた相手は気の毒だけど、私は私の身がかわいいので知ったことじゃございません。

 

「それで、今後については何か聞かされているかな?」

「とりあえず、柳みどり子としては、普通にこのまま会社勤めを続けていいとのことです。ジャスティスオーダーズに加入するにあたっては、今後、ジャスティスメイカーの総本部でおいおい訓練を重ね、いずれ正式に我らカオティックジュエラーとの戦いに臨む、のが目標と聞かされています」

「ふぅん、なるほど」

 

 白くて綺麗な手を口元に寄せて、マスター・ディアマンは一つ頷いた。そのまなざしが思案するように揺れて、そうして改めてこちらへと向けられる。

 

「結論から言えば、『柳みどり子』のジャスティスオーダーズへの加入を止める手立てはあるよ」

「えっ⁉」

「簡単なことだ。“上”にそのまま報告すればいい。いくらなんでも彼らも、レディ・エスメラルダをジャスティスオーダーズ側につかせることにはいい顔をしないだろうからね。今のところ僕らのパワーバランスは均衡が取れているから、ここで新たな風を呼び込む必要はないと僕は考えているよ。“上”の方から、ジャスティスメイカーに待ったをかけてもらうことは不可能ではないね」

「だ、だったらぜひ……!」

 

 ぜひとも“上”にかけ合って、今回の話をなかったことにしていただきたい。

 ああ、よかった、これで肩の荷が下りた。透子さんが用意してくれたのだと言う好物件の新居は惜しいけれど、もうこれはそれ以前の問題だ。みたらしとしらたまと暮らせる物件、また探そう。

 それまでは申し訳ないけれどしろくんの家にお世話になって……と、私が安堵に胸を撫でおろしていた、その時だ。

 

「でも」

 

 私の思考をぴしゃんと遮断する、よく通る声。

 反射的に姿勢を正し、マスター・ディアマンを見つめると、彼はにっこりと笑った。


 

「レディ・エスメラルダ。きみにはスパイとして、このままジャスティスオーダーズに加入してもらおうと思う」

「…………………………は?」


 

 言われたことが理解できなくて、私は大口を開けて固まった。えっ。えっ? えええっ? な、何を言い出しやがりあそばしたんですかマスター⁉

 私はよっぽどまぬけな顔をしていたんだろう、くつくつとさも面白そうにマスター・ディアマンは喉を鳴らして笑って、「だからね」と続ける。

 

「言葉の通りだ。いくら現状として僕らカオティックジュエラーと、彼らジャスティスオーダーズのパワーバランスが保たれているとはいえ、先日のイミテーションズがやらかしてくれた数々の案件も相まって、僕らへの国民からの悪感情が最近捨ておけない部類にまで達している。“悪の組織”としては正しい姿だが、“カオスエネルギーを収集するための一企業”としては、これはまずいものがある。僕らが必要とするのは、人々の憤怒や憎悪ではなく、あくまでも混乱であり混沌だ。となると、ここでジャスティスオーダーズに一躍脚光を浴びせつつ、その情報をこちら側に流してもらうことで彼らの動向に合わせて、僕らは“正しい敗北”を国民に見せ付けるのが得策だと思うんだけれど、どうかな?」

 

 ど、『どうかな?』と言われましても……⁉

 え、ええと、つまり…………。

 

「私がスパイになって、ジャスティスオーダーズのアレソレを探って、そのアレソレに合わせてカオティックジュエラーがうまいこと負けられるようにする、ってことですか……⁉」

「その通り。理解が早くて助かるよ」

 

 にこにこにっこりとさらに笑みを深めて頷くマスター・ディアマンの前で、膝から崩れ落ちなかったのが奇跡だった。

 嘘でしょう、と言いたくても、こういう時、彼はまず嘘も冗談も言わないので、となるともうこれは決定事項であるというわけだ。

 ちょっと待て。ストップ。なんでやねん。裏拳でツッコミを入れたい衝動に私が襲われたとて何一つ不思議はない状況である。

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