第23話食べられたかったけど実家に帰る5


 千代は、びくりと肩を震わせた。


 万里子が言った『あのどんくさい子』というのは弟の柊のことだ。


 万里子は、いつもそうだった。千代を苛めようとするとき、必ず弟の柊のことを口に出す。


 どうすれば、千代が一番傷つくのか、万里子は分かっているのだ。そして、千代を傷つけることを楽しむために、千代が大切にしている者たちを平気で痛めつけようとする。


 これが、千代が万里子を一番苦手とする理由だった。正雄の暴力も、蘭子の暴言もそれほど気にならなかった。でも、万里子の言葉、動作、一つ一つが怖くてたまらない。


「ねえ? いいでしょう? それに柊君は、千代ちゃんがいなくなってから塞ぎ込みがちになってしまって、私達が声をかけてもなかなか部屋から出てこないの。だから直接千代ちゃんが迎えに来てくれたら、喜ぶわ」


 千代から離れると、再び無邪気を装った笑顔を浮かべて万里子はそう言った。


(……これで、最後だもの。今日、柊さえ連れ出せれば、もう万里子様とも会うことはない)


 今までずっと、弟のことを持ち出されて脅され従うことに慣れていた千代は、自分にそう言い聞かせて頷いた。


「分かりました。もともと柊には私から説明をするつもりでしたから」

「良かった! 銀嶺様は、柊君の準備が整うまで、我が家でゆっくりしていらしてくださいませ。それに何かご入用のものがあれば何なりとお申し付けくださいね」


 万里子はまた銀嶺の方に向き合うと甘えたような声を出した。


「千代がそれで良いと言うのならば、私は構わない。……それに、聞きたいこともあるしな」

「嬉しいですわ! 龍神様をおもてなしできるだなんて、最高の名誉ですもの! お父様、龍神様を応接室へとご案内して差し上げて。私達は柊を連れてまた伺いますわ」


 楽しそうに万里子がそう言うと、逃がさないとでも言いたげに千代の手を握る力を強めた。


 正雄は銀嶺を前にして恐怖で顔を引き攣りながらも、こちらになどと言って銀嶺を屋敷の中へと案内していく。


 しばらくして銀嶺の姿が見えなくなって、千代と万里子、そして万里子の母の蘭子だけが残されると、万里子は千代の手をパッと乱暴に離した。そして、汚らしいものでも触っていたかのように、手を桃色のハンカチでゴシゴシとぬぐう。


 その顔に先ほどまでの笑顔は消え、心底鬱陶しそうな表情が浮かんでいた。


「万里子様、弟は……」

「ちょっと何? 勝手に私に話しかけないでくれる?」


 ぎろりと、先ほどまで甘さしかなかったはずの瞳が、鋭く千代を射抜いた。


「ご、ごめんなさい」


 とっさの癖で謝ると、呆れるような万里子のため息がこぼれた。


「ちょっと優しくしてやったら、すぐ付け上がって。本当に嫌になるわ。それにしても、まさか荒御魂の神様だと思っていた龍神様が、和御魂の神様だったなんてね」

「和御魂の神様……?」


 万里子の言葉に、千代が目を見開いて万里子を見る。


「なんで驚いているの? 和御魂の神様に決まっているでしょう。お前が生きているのが、何よりの証拠じゃない」

「それは……」


 確かに万里子の言う通りだった。荒御魂の神であるならば、千代はすぐにでも食い殺されていた。


 だが、今まで荒御魂の神が和御魂の神に代わったという話は聞いたことがない。それに、銀嶺は千代に隠れて血肉をむさぼっている可能性がある。霊力を人の血肉から得るのは、荒御魂の神ならではの性質だ。


 戸惑う千代を見て、そばにいた蘭子まで苛立たしそうにため息を吐いた。


「本当に愚鈍ねえ。一緒に話しているだけで苛々するったらありゃしないよ。だいたい、龍神様を連れてくるなら前もって連絡しなさいよ。まったく気が利かない」


 銀嶺を前にした時とは全然違う乱暴な口調の蘭子に万里子も頷くと、二人は並んで屋敷の方に歩いて行った。


 千代がそれを呆然と見ていると、


「早く着いてきなさいよ!」


 と蘭子に怒鳴られて慌ててその背中を追う。

 まるで癖のように万里子達に従ってしまう自分に、千代自身が驚いていた。もう如月家からは出た身。そう思うのに、逆らえない。


 自分の意気地のなさに幻滅しながらついていくと、万里子の部屋にたどり着いた。


(何故、万里子様の部屋に……)


 呆然としていると、蘭子は長椅子に腰掛け、万里子は姿見の前で立ち止まった。そしてしばらくして振り返って千代を見る。


「ちょっと、なにぼーっとしているのよ。早く、私の服を整えて。前もって龍神様がいらっしゃると分かっていればもっとおしゃれしていたのに。ねえ、ほらあれ持ってきて、赤紫の牡丹の花の着物。うちで一番高いやつ」


 当たり前のように万里子は言うと、また姿見に向き直って髪の毛をいじり始めた。

 どうやら万里子は、千代が今まで通り、女中のように仕えてくれるものだと思っているらしい。


 それは蘭子も同じで、千代に命令を下す万里子を当然のような顔をして流している。


 思わず千代は愕然とした。


 万里子にとって、千代は何があろうとも下僕のような存在なのだと、そう言われている気がした。


 そうこうしているとノック音が鳴る。


「ああもう。お前がとろとろしている間に来ちゃったじゃない」


 と文句を言ってから、万里子が入室の許可を出すと、使用人が一人、千代の弟、柊とともに入ってきた。


 千代と同じ黒髪に、少し吊り上がりぎみの目。

 年齢は十三歳のはずだが、満足に食事がとれない生活のためか同年代の子と比べて背丈が低く、幼く見える。

 その上、元の色すらわからないほどに色褪せ汚れた着物を着ていた。最後に会った時よりも痩せた気がする。


 なんと言われて連れて来られたのか、仏頂面で床のあたりを見ていて、千代のことにはまだ気づいていない。


 万里子は玄関先で柊は引きこもっていて声をかけても出てこないなどと言っていたが、ここまで普通に連れられてきたところを見るに嘘だったのだろう。


「柊!」


 千代は、思わずそう声をかけて駆け寄った。

 その声に反応して、パッと柊が顔をあげる。その時にはすでに千代が抱きすくめていた。


「え? え……っ? 姉上? 本当に?」

「ええ、そうよ。柊! 迎えに来たの!」


 無事を確かめるように千代は抱きしめる。やはり痩せた。

 どれほど辛い生活を強いられていたのだろう。そう思うと、思わず泣けてきた。


 千代がいた頃、千代が庇っていたと言うのもあるが、叔父一家はそれほど弟を虐げてこなかった。おそらく、千代と違い、男子だったことが影響したのだろう。

 だから千代がいなくなってもそれほど酷い仕打ちはされないはずだと、そう思っていたが……その考えは甘かったようだ。


 痩せ細った弟の体を抱きしめながら、己の浅慮さを悔やむ。


「本当に、本当に? 龍神に食べられてないの? あ、姉上……! ずっとずっと、あいだぐで……!」


 最初こそ信じられず戸惑っていた柊だが、しばらくして姉が帰ってきたことを認めたらしく、千代の背中に腕を回して抱き返した。

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