第24話食べられたかったけど実家に帰る6


 目には大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、言葉が涙に濡れすぎて次第に聞き取れないような言葉になっていく。

 それでも弟が千代との再会に喜んでいることだけは十分にわかった。千代にとっては、それだけで十分だった。


「ちょっとやだ! 涙で汚さないでよ!」

「いた……っ!」


 万里子の苛ついた声と、柊が痛みを訴える声が響いて、千代はハッと顔をあげる。

 ボサボサと無造作に伸ばしっぱなしにされている柊の髪を、万里子が掴んで引き剥がそうとしていた。


「やめて! 弟に乱暴しないで!」


 とっさに万里子の手を払う。柊からは離れたが、万里子の鋭い視線が千代に向けられた。


「ちょっと、私に触れないでよ。ていうか、やだ、何その目。うすのろのくせに、生意気じゃない。私は、ただこのままだとその高価な着物がダメになるから止めてあげただけなのに」

「着物って……そんなの、どうでも」

「どうでもいいわけないでしょ! この着物だって、私のものなのよ!」

「え……」


 万里子に言われたことが、よくわからなかった。どうして今千代が着ているものが、万里子のものになるのだろう。


「ん? 確かにいい着物ねえ。なかなかの値打ちものじゃない。これは龍神様がお前に贈ったの?」


 そう聞いてこちらにきたのは、長椅子に寄りかかって寛いでいた蘭子だ。わざわざ椅子から降りて近くまで来ると、着物の生地をじっくりと見分し始めた。蘭子の強すぎる香水の臭いが鼻につく。


「そ、そうですけど」

「あら、すごいじゃない。千代、もっと龍神様からこういう素晴らしい物を引き出してきなさいよ。そしてそれを私たちに渡すの」


 欲にくらんだギラギラした蘭子の瞳が、千代を見る。


「な、何を言って……」


 さきほどから、蘭子と万里子の言っていることが良く分からない。一体、彼らは何を話しているのだろうか。


「待って、お母様。着物を渡すとか、変なことをいわないで」


 つんと澄ました万里子の声。蘭子と千代の視線が万里子に集まると、彼女はにこりと笑って口を開いた。


「だってこの着物はもう私のものよ? 今はうすのろに貸してあげてるだけ」


 さも当然のことを言うかのように万里子が言う。

 戸惑う千代を、万里子が馬鹿にしたように笑う。


「え? まだ分からないの? 本当にうすのろねえ。でも、今日は許してあげる。だって、私のために和御魂の神様を連れてきてくれたし」


 やはり何を言っているのか、千代には分からなかった。

 決して万里子のために銀嶺を連れてきたわけではない。


「私ね、和御魂の神様の花嫁になるのが長年の夢だったのよ。うすのろ、本当にご苦労様だったわね」

「和御魂の神様の、花嫁? それって……」

「そう。あの麗しい龍神様は、私が貰ってあげるわ。だから龍神様に贈られた品物は全部私のものになるってことよ」


 思わず絶句した。

 先ほどからずっと意味がわからなすぎて、瞬きするのさえ忘れて愕然とする。


「だって。当然でしょ? あのお方は私を選ぶもの」

「え……?」

「何? まだわからないの? うすのろって本当にばかねえ。ねえ、まさかこの私がいるのに、うすのろが龍神様の花嫁に選ばれると、本気でそう思っているの?」

「……!」


 万里子は勝利を確信した強者の笑みで、千代を見下ろす。


「確かに前から愚鈍だったけれど、ここまでだったなんて。私とお前がいて、どうしてお前が選ばれると思えるのかしら。この私が選ばれるに決まっているじゃない。うすのろはね、捨てられる運命なのよ。ボロ雑巾みたいに惨めにね」


 そう言って高らかに笑う万里子を見て、千代はすっと血の気が引く思いがした。

 万里子にそう言われると、そうかもしれないと思えてきた。


 今までずっとそうだった。誰もが万里子を愛したし、千代がなんと言うおうとも、万里子が優先されてきた。


 それが当たり前で、当然で……。


(銀嶺様も、万里子様を選ぶ……?)


 怖くなって、両腕で自分を抱いた。でも、少しも不安は拭えない。


「まあ、確かに! 万里子の言う通りだわ!」


 蘭子がはしゃぐようにそういうと、またノックの音が聞こえた。

 良いところで話を遮られた蘭子がムッとしながらも許可を出すと、げっそりと疲れた顔をした正雄が入ってきた。


「二人ともここにいたのか。探したぞ」

「お父様こそ、どうしてここに? 龍神様をおもてなししていたのではなくて?」


 責めるように万里子が言うと、万里子の父である正雄は身を小さくさせて申し訳なさそうに口を開いた。


「龍神様が毒花の一族のことを聞かれてな。何も知らないとお伝えしたら、用済みだからどこかへ行けと追い払われてしまった……」


 正雄が参ったように答える。

 千代は目を見開いた。


(銀嶺様は、やはり毒花の一族をお探しなのね……)


 思わずじわりと背中に嫌な汗をかく。


 すると、何故か万里子が軽く振り返って千代の方を見た。目が合うと、何故かにやりと意地の悪い笑みを浮かべて、また正雄の方へと視線を戻す。


「あら、毒花の一族をお探しなの。ふーん。では、私がお父様の代わりに龍神様とお話してこようかしら」


 万里子がもったいぶった口調でそう言った。


(万里子様は私が毒花の一族の血を引いていると知っている? いえ、でも、そんなはずない……そんなはずは……)


 弟の柊でさえ知らないのだ。万里子に千代と千代の母親の素性を知る術はないはずだ。


 戸惑っていると、蘭子が千代の肩に手を置いて、口を開いた。


「そうね、万里子ちゃん。こんなところにいないで、龍神様のところにいってさしあげたら? だって未来の和御魂の神の花嫁様なのだもの」


 楽しげな蘭子の提案に、万里子も笑顔で頷く。


「そうですわね、お母様。未来の花嫁の務めですわね。ずっとお一人でお待たせするわけにはいきません。ちゃんと私がおもてなししてきますわ」


 そう言って、万里子は艶やかに笑う。

 千代は止めようと腕を伸ばそうとしたが、蘭子のせいで動けない。


「ふふ、本当に万里子は親孝行な娘ねえ。ほんと、お前とは大違い」


 耳の近くで蘭子の蔑みの声が聞こえてくる。

 そうこうしていると、軽やかな足どりで万里子は部屋から出て行ってしまった。


「あ、姉上……? 一体、今はどういうことになっているのですか?」


 心細そうに弟が千代を仰ぎ見る。彼の心配を拭うために何か答えるべきなのに、何も答えられない。

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