第8話生贄花嫁は食べられたい5


「あ、あの! 琥珀さん! 鰻をもってきてくださるのでしたら、あの、鰻のタレを多めにもらってきてくださらないでしょうか!?」

「タレを? 良いですわよ。鰻のタレって美味しいですものね。あれだけでご飯、何杯もいけちゃいますわ」

「ですよね!」


 千代は気持ちが明るくなった。全ての疑問が解決した。


 生贄を前にして気分じゃないと言って食べるのを拒否した龍神。

 その謎がやっと解明された。


(私が食べられなかったのはきっと……味付けをしてなかったからだわ!)


 千代だって、どんなに美味しい鰻を前に出されても、タレがなければ物足りなく感じる。


(そう、私に必要だったのは味付けだったのだわ。鰻のタレ、それは全てを解決する)


 沈んでいた心は一気に晴れて、ようやく目的を成し遂げられそうだと、そう思えた。





 鰻のタレを大量に入手した千代は、正座で銀嶺を待つ。


 卓上に鰻の蒲焼がある。どうやら琥珀がうなぎを一緒に食べるために銀嶺を呼んだのだと勘違いしたようだ。

 うなぎ定食が二人分並んでいた。


 千代が今着ているのは太竹節柄の小豆色をした銘仙着物。

 この着物を選んだのは、銀嶺の屋敷にある着物の中で、一番地味なものだからである。

 銀嶺の屋敷にあるもののほとんどは人からの貢物で、上等なものばかり。

 その中で、一番地味で汚れても良さそうな着物を選んだつもりだが、千代にとってはそれでも十分上等なもので少し気おくれしてしまう。


(着物は、あまり汚さない方がいいわよね……。あ、でも、どうせそのまま食べられるのだから気にしなくてもいいのかしら)


 平織りの銘仙の着物を見ながらそんなことを思って、両腕の袖を捲って紐で縛った。

 そこには、細っそりと白い千代の肌がある。


 その白い柔肌に、千代は、鰻のタレをたっぷりとつけたはけを滑らせた。

 はけが通ったところから、千代の白い肌が茶色に変わっていく。タレが少なくなったら、タレの入った壺にはけを突っ込んでまた肌の上へ。

 着物を汚さないように気を遣いながら、たっぷりしっかり鰻のタレを自身の体に塗っていく。


 部屋の中に、鰻のタレの甘辛い匂いが広がった。


「鰻のタレのいい匂い。これならきっと、銀嶺様も食べてくださる」


 両腕にたっぷりとタレをつけた千代はそう言って満足そうに頷くと、今度は足も塗ろうと正座を崩そうとした時だった。


「な、なにをしているのだ……?」


 いつの間にか、部屋の中に銀嶺がいた。

 襖のところで、困惑したような顔で千代を見下ろしている。


 タレを自分の体に塗りつけるのに夢中で気づかなかった。

 崩そうとした足を改めて正す。


「銀嶺様、いらっしゃったのですね。本来なら三つ指をついてご挨拶したいのですが、なに分このように腕にタレがついておりますのでご容赦くださいませ」

「いや、三つ指をつくとかよりも、タレがついているのが気になるが……」

「嬉しいです。タレに気づいてくださったのですね」

「流石に気づかずにはいられなかろう」


 困惑する銀嶺である。

 しかし千代は構わず腕を広げて胸を張った。

 さあどうぞ、そう言わんばかりの笑顔である。


 さらに困惑を深める銀嶺だったが、しばらくして何か思いついたのかハッと顔を上げた。


「まさか、あの家の者にやられたのか?」

「え!?」


 思ってもみなかった反応が返ってきて、千代は目を丸くする。


「そなたを外には出しておらぬし、屋敷に誰も入れていないが、どうやって……。たしか遠隔地でものを動かす術があると聞いたことがある、それで、タレをかけられたのか!? それか意思伝心の術で、タレを塗りたぐれと脅されたのか!?」

「いえ、その言うわけでは、これは私が……」

「許せん! あの家の奴ら、やはり八つ裂きにしてやらねば気が済まぬ! いや、あの家の奴らだけでない。あの家の者たちの悪行を増長させている周りの奴らもだ!」


 銀嶺の冷酷なまなざしがさらに鋭く細められる。黄緑の瞳に、怒りの炎が揺らめくようだった。


「えっ……! え……!?」

「あの家がある場所一帯を我が力にて灰塵にしてやる!」

「え? ちょ、お待ちくださいませ! 銀嶺様」

「いや、もう我慢ならぬ」


 と言って背を向けた銀嶺は今にも外に行って如月家の屋敷を焼き払いに行きそうな勢いだ。

 千代は、慌てて立ち上がった。


「我慢ならぬとかではなくて、このタレは自分でつけたのです!」


 千代が素直にそう白状すると、銀嶺が振り返る。いぶかし気な顔で。


「千代、そのような嘘をついてまでどうしてあの家の者達を庇うのだ」

「いや、嘘ではなくて……」

「自分の体に自らタレを塗るような者がいるわけがなかろう」

「それはまあそうなのですけれど」

「どうしてそこまでして庇う、千代」


 いや、かばっているのではなく、ただの事実なのだが。


 このままではウナギのタレを自分の腕に塗り込んだせいで、千代が住んでいた屋敷周辺が大変なことになる。


「あの、本当に自分でたれをつけたのです! その、召し上がっていただきたくて!」

「召し上がる……?」


 そう怪訝そうな顔をした銀嶺だったが、すぐそばにある机に置かれたウナギのかば焼きを見て、「なるほど」とつぶやいた。

「まさか、そなた、私のためにウナギの蒲焼に手ずからたれを塗って焼いてくれたのか」

「え……」


 違いますけど? という言葉が出かかったが……。


「そうなのだろう? 一生懸命たれを塗って、それで少し刷毛を滑らせて、腕を汚してしまったのだろう。そうでなければ、あの家の者達の陰謀しかあり得ぬからな」


 という龍神の言葉が続いて、千代は言葉を飲み込んだ。


(私を食べてもらうためにタレを塗っただけなのだけど、なんだかそう説明しても納得してくれなさそうな雰囲気だわ。このまま、そうですと言ったほうがいいかしら。そうじゃないと、叔父一家の屋敷周辺が酷いことになりそうな……)


 どうしたものかと思う千代の側に銀嶺が歩み寄った。


「千代は、本当に……優しいのだな。こんな私のために、手ずから鰻のたれを塗って焼いてくれるとは」


 そう言って微笑みかける銀嶺の顔こそあまりにも優しい表情で、千代は何もいえなくなった。


 叔父の一家と暮らしていた頃、千代は悪意のある視線にさらされてきた。

 千代を見れば誰もが、嫌そうに顔をしかめる。

 それが当たり前で、それが日常。


 だから、こんな風に柔らかい表情を向けられることには慣れていない。

 何とも言えない、たまらない気持ちになる。


 銀嶺が手を伸ばす。白く美しく、それでいて千代よりもずっと大きな銀嶺の手が、汚れた千代の腕をやさしく触れる。


 そして、袖で、千代の腕についたタレを拭いはじめて、呆然としていた千代はハッと我に返った。


「あ……! いけません! ……銀嶺様のお召し物が汚れます!」


 あろうことか、鰻のタレを自ら着た着物の袖で丁寧に拭っていく銀嶺を、千代は必死で止めようとする。

 が……。


「かまわぬ」


 本当に、気にしないといった顔つきで銀嶺にそう返される。銀嶺から離れようとしてもしっかりと千代の腕を握っていて引き離せそうにもない。


(私は、かまいます……)


 心の中でそうこぼして、口を閉ざす。

 何とも言えない面はゆい気持ちが、千代の頬を赤く染めていた。


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