第4話生贄花嫁は食べられたい1

 かつて人々は妖と呼ばれる異形の者達の存在に悩まされていた。


 至る所に大小さまざまな妖が跋扈し、人々の生活を安寧から遠ざける。

 そこで平安の世において最高の霊術士と言われた五人の術者達は、とある奇策を用いることにした。


 妖達と『天神契約』を交したのだ。

 それは、江戸が終わり、明治を迎え、大正に至る今にまで続いている妖達を神に祭り上げて守り神とする契約だ。


 力の強い妖は、知性を持っている。そんな妖達を『神』として崇め、生贄を捧げることで他の弱く粗暴な妖から人々の生活を守ってもらうのだ。


 人と契約を交わしている神には、和御魂の神々と、荒御魂の神々がいる。


 和御魂の神は、慈悲深く理性に富んだ神。

 和御魂の神に捧げられた生贄は、男女関係なく『花嫁』と呼ばれ、いたく大切に扱われる。

 和御魂の神の生贄に捧げられることは、誰もが思い描く幸福そのもので、憧れだった。


 一方、気性が激しく、残虐な面が目立つ神のことを荒御魂の神と言う。

 荒御魂の神の生贄に選ばれた者は、その場で神の糧となる。つまり、食べられてしまうのだ。


 そして、神仕族の名門、花京院家の分家の分家のそのまた分家である如月家の娘・千代は、残忍で冷酷なことで有名な荒御魂の龍神の生贄花嫁に選ばれた。


 つまり、千代は生きたまま荒御魂の龍神に食べられてしまう運命……のはずだった。


「本当に、なんで食べてくれなかったのかしら……」


 鏡台の前で身支度を整えていた千代は思わず鏡に映った自身に向かって、そうこぼした。


 神の力を封じる毒を持ってきた千代は、己の身を食われることで、龍神に一矢報いるつもりだったのだ。だというのに、いまだ千代は食べられていない。


(お母様の残してくれた手記さえあれば、他に力を封じる方法があったのかもしれないけれど……)


 千代の母は、霊術師のなかでも毒花の一族と言われ、神の力さえも封じる毒を作れる一族。

 幼い頃にその秘術を教えてもらったが、全てを教わり切る前に母は亡くなった。


 何かがあった時のためにと母が残してくれたはずの手記もどこかに消え、両親亡き後、叔父一家のものとなった屋敷中をくまなく探しても見つからなかった。


 千代が辛うじて知っていたのは、簡単な毒の作り方と、その毒と自らの生き血を飲ませることで神の力を封じることができるということだけ。


 現状、千代が龍神の力を封じるためには、毒と共に食われるぐらいしかないのだ。


 そして千代は神の力を封じるために決死の覚悟で生贄に捧げられたというのに、なぜか食べられなかった。


「昨日はそのことに動転して、龍神様に言われるがまま、屋敷にそのまま泊まってしまうし……」


 などとブツブツこぼして、横目で布団を……ふっかふかの布団を見る。


 叔父夫婦に預けられてからというもの、固い床の上に薄い布を敷いただけの場所で弟とともに丸くなって寝ていた千代。

 それが突然、埃っぽくない綺麗な部屋で、清潔な服を与えられ、やわらかな寝床が準備されていたのだ。秒で落ちた。


「一体、どうしてこんなことに……。こんなふかふかな布団に私を眠らせて、どういうつもりなのかしら……」


 ふかふかの布団の効果ですっかり熟睡してしまった千代の朝の目覚めは最高だった。

 が、昨日のことを思い出して思わずくらりとめまいを覚える。


 食べられなかった原因を探すために、千代は鏡台に向き直った。


 鏡の中には貧相な娘がいた。

 身体はやせ細り、髪につやが全くない。

 無駄に伸ばした手入れのまったくされていない黒髪が、ぼさぼさと広がっている。


 顔色は、久しぶりの熟睡で多少は良いと言えるかもしれないが、そもそももとが悪かったので、良いとは言えないし、頬はこけて、肌も乾燥しひどく荒れている。


 千代は頬に指をのせた。

 荒れた指が置かれた途端、頬にガサリというような不快な感触がして、慌てて指先を見る。

 毎日、水仕事を押し付けられていた千代の指は当然荒れている。皮がむけ、赤く硬くなり、切り傷のような痛々しい跡も……。


 今まで叔父夫婦にひどい扱いを受けていたので、見た目を気にする余裕もなかったから当然ではあるが。


「今良いか?」


 戸の向こうから声がかかる。

 低くて美しい声。昨日聞いた、龍神の声だ。


「は、はい。どうぞお入りください」


 千代は、改めて床に座りなおし、三つ指を付けて頭を下げた。


 すっと戸の開く音が聞こえると。


「どうしたのだ? やはり体調が悪いのか?」


 何故、そのようなことを聞くのだろうか。千代は、思わず顔を上げて龍神を見る。


「いいえ、そのようなことはありませんが、体調が悪く見えますか?」

「いや、うずくまっているから……」

「あの、これは、うずくまっているのではなく、龍神様を迎え入れるために、ご挨拶を……」


 千代の返答に、今度は龍神が目を見開いた。


「挨拶……? そんなふうに挨拶するのか? 挨拶というのは笑顔を向けておはようと、それだけのはずだろう?」

「えっと……それは……確かにごくごく親しい者には、そうですが……龍神様を相手にそのような無礼なことはできかねます」


 逆に神に向かって笑って『おはよう』の挨拶で済ませる存在がいることに、千代は驚かされる。


「そう、なのか……?」


 どこか、がっかりしたような声。声も表情もあまり動かないのに、何故か龍神が抱く感情は分かりやすい。


 人間離れした美貌と、たまに見せる幼い少年のような一面が、チグハグに感じられて、でもそれがとても可愛らしい。

 そんなことを思って思わず微笑んでしまってから、千代はハッと息を飲んだ。


 かわいいなどと思っている場合ではないのだ。千代は、早々に龍神に食べられなければない。


「……そなたは、挨拶でそのように踞らなくていい」

「しかし、龍神様……」

「それと、私のことは、銀嶺と呼んでくれ」


 思わぬことを言われて千代は顔をあげた。


「……!? そんな、恐れ多くも龍神様の御名を口にするなど」

「銀嶺と。そなたにはそう呼んでほしい」


 有無を言わせぬ強い口調。そう言わないならば許さないと言いたげな強い瞳が千代にぶつかる。それに逆らうことなどできるはずもなく、千代はやむを得ず頷いた。


「そこまで、仰せになるのでしたら……銀嶺、様」

「様もいらないが……まあ、いい」


 満足そうに微笑む銀嶺があまりにも美しくて、千代はまじまじと見てしまった。


 また、千代の決意が揺らいでいく。

 目の前の彼を知れば足るほどに、荒御魂の神に手を掛けようとしていた自分の気持ちが、薄らいでいく。


 目の前にいる龍神が、荒御魂というのは嘘なのではないか。

 そんな願望にも近い妄想が、一瞬でも頭によぎったが、そんなことはあり得ないのだ。


 龍神はかねてより荒御魂としてその悪名を轟かせている。


「そうだ。そなたの生活を助けるものが必要だろう」


 話題を変えるようにして銀嶺がそう言う。千代は首を傾げた。


「生活を助ける者、ですか?」

「うむ。私の眷属を付けよう。少し待っていてくれ」


 そう言って、銀嶺は頭から髪を一本引き抜く。

 そしてふうと息を吹いてその髪を飛ばした。


 ただの銀の髪と思われたそれは、銀嶺に息を吹き込まれると女性の形を成した。白い水干に赤い袴という白拍子のような恰好をした大人の女性だ。


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