第2話プロローグ2


 人々から黒龍様やら龍神様などと呼ばれているが、実を言えば、ただの黒蛇の大妖だ。


 本来なら人の宿敵で倒されるべき大妖だが、あまりにも強いためになす術がなく、神として奉るしかなかったのだ。

 そうして黒蛇の大妖は、荒御魂の龍神となった。


 人々にとって、龍神は敬うことで雑多な妖から守ってくれる相手である一方、いつ牙を剥くかわからない恐れの対象でもあった。


 目の前の神として奉られた黒蛇は、幾度となく人を襲っている。

 捧げられる生贄が足らぬと言って暴れることもあれば、時には特に理由もなく気まぐれに人を襲うこともあったと聞いている。


 だからこそ、もっと冷酷で、残忍で、悪辣な何かなのだと思っていた。

 こんなふうに、千代の言葉一つで顔色を変えるような神だなんて、想像すらしていない。


 千代は、無意識に帯のところに手を置いた。

 神をも殺せる毒。幼い頃に母から教わった、母方の一族の女にしか作れない特別な毒。

 この毒は、千代とともに食べられることで龍神の力を封じることができる。


「千代、実は話しておきたいことが」

「どうして! どうして食べてくださらないのですか!?」


 龍神が何事か話そうとしていたが、千代はそれに気づかず声を荒げた。


 強い覚悟をしてここまできたのに、上手くいかない。

 そのことが、千代から冷静さを奪っていた。


 あまりの千代の剣幕に、龍神は驚いたように目を見開く。

 そして気遣うように口を開いた。


「その、そなたは私に食べてほしいのか? 食事的な意味で?」

「その通りです」


 千代がそう返すと、龍神は不思議そうに眉根を寄せる。


(あ、大変。変だと、思われている……?)


 しかし、冷静になって考えれば、自ら食べて欲しいと言ってくる生贄は、おかしいのかもしれない。


 ひやりと背中に汗をかいた。もし、千代の思惑に気づかれたら龍神の力を封じることはできない。

 必死になって言い訳を探す。


「その、私、強い人が、ではなくて強い神様が好きで! ずっと龍神様のことをお慕いしていたのです! ですから、龍神様の力の一部になれるのでしたら、本望と言いますか……!」


 思わずそう口に出してみたが、流石に言い訳が苦しい気がした。

 だが、千代はもともと口が達者な方ではない。これが限界だった。


「強いものが好き? ずっと、龍神を慕って、いた……?」


 愕然とした表情でうわごとのように龍神が呟いた。


「え? あ、はい……」


 千代は戸惑いつつも頷く。

 すると龍神はさらにショックを受けたようで、今にも倒れそうに後ろに下がった。


(信じてはくれたみたいだけれど、どうしたのかしら、なんだか、様子が……。いえ、それよりも、早く食べてほしい。そうしないと、弟が……)


 千代は戸惑いを飲み込んで、クッと顔を上げた。


「ですからその、私のことはバクっと食べて欲しいのです! お願いします!」


 そう言って、千代はさあどうぞとばかりに両手を開いて差し出した。


「そんな、食べろと言われても……ん?」


 龍神は困ったような顔をしたが、差し出された千代の指先を見て顔色を変えた。


 素早く千代の手を取ると、痛ましげに赤切れた指先を見る。

 叔父一家から押し付けられた家事労働を一手に引き受けているため、千代の手はいつも荒れている。


 千代は自分の手が嫌いだった。誰にも大事にされていない証のように思えてしまうから。


 千代は、咄嗟に手を引っ込めようとした。だが龍神はそれを許さない。労るように千代の手を己の手で包み込む。


 何故か、妙に気恥ずかしい。


「痛いか……?」


 龍神は、我が事のように悲しそうな顔をしてそう口にする。


「……いえ、別に」

「いや、痛いに決まっている」


 龍神は、そう言って、千代の手を優しくなでる。

 まるで宝物にでも触れるような優しい手つき。龍神の手から優しい温かさが千代の手に移っていく。


 懐かしい感覚だった。幼い頃、両親がよく手を繋いでくれた。温かな手で、千代の小さな手をしっかりと握ってくれていた。


「……許せない」


 懐かしい記憶にぼんやりとしていると、龍神の口からそう冷たい声が漏れてびくりと肩を揺らした。


 龍神の顔を見れば、冷たい美貌に怒りを滲ませている。


(許せないって……何を?)


 何か怒らせるようなことをしてしまっただろうか。だが理由を聞くに聞けない。


 龍神の怒りが、あまりにも美しく、恐ろしすぎて。


「千代の美しい手をこれほどに痛めつけたあの家の者達が許せない」

「え……家の?」


 想像すらしていなかった話になった。


「ああ、そうだ。あの家のもの達ときたら、千代を利用するだけ利用し、虐げるだけ虐げた。使用人に至るまで千代が困っていても見て見ぬ振りだ。千代によくもあのような仕打ちを……」


 家の悪態をつく龍神に、千代は思わず目を丸くした。


 どうして知っているのだろう。神の御業なのか、龍神が言ったことは事実だった。


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