第40話「穏やかに愛を紡いで」
「平気かい?ほら、顔をこっちへ向けて」
「……ええ、ごめんなさい」
新郎の流血に騒めく教会の裏庭にて、姉リリアンナもその二の舞にならないよう、人知れず堪えていた。エドモンドは慣れた様子で紺色のハンカチを彼女の鼻に当てると、人差し指で優しく鼻翼の辺りを抑える。
「以前会ったのは二ヶ月も前だったから、少し刺激が強過ぎたわ」
「しかもウェディングドレス姿だったしね」
「本当に、空から天使が舞い降りたのかと……!」
齢二十四になり、双子の母となり、王族の妻となった。普段滅多なことでは表情を崩さないリリアンナだが、やはり弟妹を異常に溺愛する姉心は健在のまま。
さすがに教会で流血するなど、そんな人間はいないだろうと彼女は必死に自重した。あのエドモンドでさえ懸命に涼しい顔を繕っていたのだから、自分が耐えねばどうするのだと。
「リリアンナ様、ご容体はいかがですか」
音もなく現れたのは、痣持ち双子の一人であるオリバー。現在は近衛騎士団所属、見習い筆頭として頭角を表している才人である。
昨年仲間を庇って負傷した彼は、顔に浮かぶ痣の上に刀傷まで負ってしまった。本人は「目立たなくなってちょうど良い」とけろりとしており、多くの団員から称賛を得た。
怖いもの知らずで仲間思い、十六の若さですぐに先陣を切ろうとするところは長所だが、彼を大切に思う妹オリビアやリリアンナ達からすれば短所でもある。
「必要とあらば担架を」
「大げさね、オリバー。私なら平気よ」
彼は自分を救ったリリアンナを女神化している節があり、どんな要望でも喜んで聞き入れる忠実な番犬だと周囲から揶揄われている。それはオリビアも同じで、うっとりとした視線で「命を賭して侍女職を全うします」と、物騒な物言いをするものだからよくリリアンナに叱られている。
――お母様やお姉様が守ってくださった尊い命を、決して粗末に扱ってはならないわ。
ぴしゃりと冷たい言い方だが、二人の胸にそれはそれはぐさりと刺さる。かつてルシフォードとケイティベルの暗殺を企てた自分達を尊んでくださるなんてと、涙を流しながら喜びに悶えた。
「……あまり私が言えることではないけれど、随分と変わっているわね」
エドモンド然りレオニル然り、愛情表現に偏りのあるものばかりが集まっている。側から見るとその筆頭はリリアンナなのだが、本人達にそれほど自覚はないようだった。
「ご入用の際はなんなりとお申し付けください」
恭しく頭を垂れるオリバーに、リリアンナは穏やかな溜息をひとつ落とした。
「今は私達しかいないから、そんな仰々しい物言いをする必要はないのよ」
「……しかし」
「立場は変わっても、関係性は変わらないわ」
僅かに微笑む彼女に視線をやるオリバーの瞳には、もじもじとした気恥ずかしさが見てとれる。思春期男子には、滅多にお目にかかれない彼女の笑みは少々刺激が強過ぎる。
「……仕事とか関係なく、普通に心配なので」
「ふふっ、ありがとうオリバー」
照れたように唇を尖らせながら口早にそう言うと、彼はくるりと踵を返してあっという間に姿を消した。
「エドモンドも、もう離して」
「……ああ、うん」
もはや日常過ぎて、彼に鼻を押さえられていた状態だったのをすっかり忘れていたリリアンナ。この状態でオリバーに説教めいたことを口にしたのかと、今さら頬が熱くなった。
「夜のパーティーまで、少し休みましょうか。明日はパレードもあるし、さすがに体力を温存しておかなければ」
「……そう、だよね」
愛する妻の前でだけ、エドモンドはめっぽう子どものようになる。先ほどまでぴっちりと整えられていた前髪も、今はしゅんと力無く垂れていた。
出会った頃は、リリアンナと話すたびに緊張して腹の音を轟かせていたエドモンドの食欲も、彼女との関係性が深まるにつれだんだんと落ち着いていった。そしてその代わりに、まるで主人からしばらく放置された懐こい大型犬のように、瞳をうるうると潤ませ甘えるという技を会得したのだ。
これには鉄面皮のリリアンナも肩なしで、とにかく愛でたい衝動に駆られて仕方ない。弟妹や我が子も当然可愛らしいが、まさか自分より体の大きな男性に対してこんな感情を抱くなど、彼女自身も想像していなかった。
視線だけで辺りを見回し誰もいないことをしっかりと確認すると、リリアンナはその細腕をエドモンドに向かってめいいっぱい広げる。
「いらっしゃい、可愛い私の旦那様」
オリバーに妬いているのを隠そうとして、まったく隠れていない。それが愛らしく、どうしようもなく甘やかしたくなる。本人に自覚がないのが、また殊更に。
この六年の間に積み重ねてきた信頼関係は、この先何があろうと揺らぐことはない。決して我の強くない控えめな二人だが、今の幸せだけは絶対に手放さないと固く誓っていた。
ブラックダイヤのような瞳が途端に光り輝き、彼はまっすぐリリアンナの胸に飛び込んでいく。とはいえ彼の方がずっと長躯でがたいも良く、自然と抱き締める格好になってしまうのだが。それでも、全てを受け入れてくれるリリアンナの広い懐と深い愛情に、エドモンドは得も言われぬ多幸感を胸いっぱいに吸い込んだ。
「愛してる、リリアンナ」
「ええ、私も」
妹の結婚式の場でなんて破廉恥な……、と思わないわけではないが、今は彼の好きにさせてやろうと、リリアンナはそっと目を閉じる。何年経っても落ち着かないその鼓動が可愛らしく、自然と頬が緩んだ。
「リリアンナ、相談なんだが」
「どうしたの?」
「体力を温存とは、具体的に何割ほど回復させることを意味するのだろうか?」
愛する夫からの突拍子もない問い掛けに、リリアンナは細い首をことりと横に傾げる。エドモンドは甘えた声色で、すりすりと彼女の頭に頬を寄せた。
昔から変わらない、甘く華やかでどこかほろ苦い肌の香りが、好きで好きで堪らない。これからも永遠に、自分だけがこの距離を許される唯一の男でありたい。その為ならばどんな努力も厭わないと、エドモンドは六年前からそう心に決めている。
「つまり、加減すれば多少の無理は構わないと……」
「あ……っ、もう!いやらしいったら!」
質問の意図をようやく理解したリリアンナは、ぱっと彼から体を離すと頬をぱんぱんに膨らませる。それはまるで、妹ケイティベルがヘソを曲げる時とそっくりだった。
「実家でそのようなことはいたしませんわ!」
「ああ、すまなかった!謝るから、もう少しだけ」
「嫌です、離れてください!」
真白な頬を赤く染め、ぷいっとそっぽを向いてみせる。こうして頑なに拒絶したところで結局、夜が更ければ甘えたのエドモンドに絆されてしまうのだろうと、彼女は先の未来を透視しているような気分になり、それは深い溜息を吐いたのだった。
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