第25話「それは気軽な魔法の言葉」

 少し肌寒い秋風が二人の間を吹き抜け、足下の芝生をざあっと鳴らす。それはまるで緞帳が上がる合図のように、やけに大きく響いていた。

「きっと、大丈夫です」

 エドモンドは、これまでの人生で得た知識がすべてどこかへ吹き飛んでいったのだと、そんな錯覚を覚えた。その場しのぎの耳障りの良い言葉を繕うのは、得意な方だと思っていたのに。

「なんとかなります。貴女がそう、信じる限り」

 もっと上手い励まし方があるだろうにと、今さら後悔してももう遅い。

「……殿下のおっしゃる通りです」

 飾り気のない台詞は、リリアンナの心を柔らかく解してくれた。自身とは違い分かりやすい彼の表情や仕草を見れば、いかに真摯に向き合っているのかが伝わってくる。突拍子もないことを言い出したにも関わらず、エドモンドはそれを流したりしなかった。

 ただでさえ知り合って間もない、それも周囲から疎外されている自分を受け入れてくれた事実が、リリアンナにとってどれだけ嬉しいか。噂よりも、自身を見て信じてくれたのだと。

 たとえ心とは裏腹だとしても、これまでそれを隠そうと努力してくれる者は僅かだった。どんな形であれ、リリアンナは彼の気遣いに心の底から感謝した。

「ありがとうございます、殿下」

 ふわりと微笑む彼女を見たエドモンドは、途端にぱっと顔を逸らす。鏡で確認せずとも、今自分がどれだけ赤面しているのかすぐに分かったからだ。いまだに流れる冷たい風も、その熱を冷ましてはくれそうにない。

 リリアンナもまた、彼をただの食いしん坊ではなく心の綺麗な人だと認識しているわけだが、いかんせん彼女は恋愛経験など皆無。脳内のほとんどすべてが弟妹で埋め尽くされており、そこにはほんの僅かな隙間しか残っていない。

 それにエドモンドはケイティベルの婚約者となる男性で、弟妹の話ではリリアンナがそれを奪うような構図となるらしい。いくら妹の為とはいえ、他にやりようがあっただろうと見知らぬいつかの自分を責めたくなる。


――二人の婚約が上手く経ち消えたとしても、彼が私と婚約を結び直す必要はまったくないわ。もっと相応しい女性と、幸せになってほしい。


 と、自己肯定感の低いリリアンナはそんな風に思っていたのだった。

「お姉様!こっちへ来て一緒に馬に乗りましょう!」

「僕が撫でたら気持ち良さそうに鳴くんだよ、見て!」

 双子はまん丸もちもちの白い頬っぺたを膨らませながら、興奮気味に姉を呼ぶ。彼女はそちらへぱっと視線をやると、伸びそうになる鼻の下を即座に掌で覆い隠した。

「よろしければ殿下もご一緒にいかがですか?」

「えっ?ああ、喜んで」

 最初はほんの配慮からくる気持ちだったのに、気付けば彼女の相談に乗るよりも自分がぼうっと惚けてしまっていた。エドモンドはそのことを情けなく思いながら、リリアンナに続いて立ち上がる。その瞬間、どこかで誰かがホラ貝でも吹いたのかと思うほど、彼の腹の虫が盛大に暴れ鳴いた。

「あ、あはは!これは失礼、緊張するとどうしても……」

 整った眉をふにゃりと下げ、誤魔化すように後頭を掻いている。先ほどの熱が引いていない上にさらに羞恥が襲いかかり、彼の頬はそれはもう真っ赤だった。

「緊張などと、私相手にそんな」

「貴女だからこそです……」

 もうどうにでもなれと、半ばやけになりながらエドモンドはぽつりと本音を漏らす。恋愛に関しては赤子よりも鈍いリリアンナにその真意が伝わるはずもなく、彼女は「私の顔が怖いせいだわ」と、申し訳なささえ感じた。

「申し訳ございません、殿下」

「は、はい?なぜ謝るのですか!」

「あら?」

 驚くエドモンドに、違ったのかときょとんとするリリアンナ。見事に話の噛み合わない二人の間に割って入ったのはルシフォードで、いつまで経っても来てくれない姉の腕をぐいぐいと引っ張る。

「お姉様、こっちだよ!」

「ええ、今行くわ」

 弟の手はふかふかで柔らかく、彼女の心はたちまちそちらに持っていかれる。完敗のエドモンドは「あまり役に立てなかったな」と無意識にしょんぼりと肩を落とすが、リリアンナは話を聞いてくれた彼に感謝していた。

 その意を込めて、彼女はエドモンドに向けて控えめに微笑んでみせる。その直後、まるで雷鳴かのような腹の音が辺りに鳴り響いたのだった。


 エドモンドから思いがけず勇気づけられたリリアンナは、翌日自室にルシフォードとケイティベルを招いた。助産師エマーニーから聞き及んだ話を二人にも打ち明けようと、ようやく決心が着いたのだ。

「わぁ、私達の好きなお菓子がいっぱい!それにお花も!」

「まるで今日が誕生日みたいだ!」

 ぽっちゃり双子は本日も大変に愛らしく、無邪気な笑顔で飛び跳ねている。姉の部屋で遊べるというだけで嬉しいのに、素敵なサプライズにますます胸が高まる。

 最近では、リリアンナに対する屋敷の侍従達の態度も随分と柔らかくなり、彼女の頼みを二つ返事で聞いてくれるようになった。これはルシフォードとケイティベルの暗躍の賜物で、リリアンナには内緒でせっせと彼女の売込み活動に勤しんだ成果でもある。

 というよりも、単純に「リリアンナがいかに天邪鬼か」という点について力説したり、実際にこっそりと覗いて確かめさせたり、常にべったりと張り付いて仲の良さをアピールしたりと、ただ仲良しアピールを行っただけ。

 リリアンナは恥ずかしがり屋なので、こういう時は自分達の出番だ!と、その可愛さを存分に活かして姉を引き立てた。長年に渡り染み付いたポーカーフェイスがすぐに消えてなくなるわけではないが、愛しい弟妹の前ではその仮面も粉々に砕け散る。

 それに加えて、これまでは冷ややかだった婚約者レオニルとの交流も増えたとあれば、もう誰もリリアンナを軽視することは出来ない。

 双子の策略により彼女の知らないところで素性がすっかり露見してしまい、その不器用さが逆に健気だと評判が急上昇というわけだ。残念ながら、両親だけはまだ懐柔出来ていないが。

「……いい?二人とも。これから、とても哀しい話をしなければならないの」

 部屋中焼き立ての菓子と芳しい花々の香りに包まれ、明かり取り窓からはきらきらと陽光が差し込んでいる。そんな中でただ一人、リリアンナが重苦しい表情で形の良い唇をゆっくりと開いた。

 ルシフォードとケイティベルはまだ十も迎えていないけれど、何も分からない幼子ではない。リリアンナは悩んだ末に、エマーニーから聞いたことを包み隠さず打ち明けた。

「そんな……。ただ痣があるというだけで、ひどすぎるわ……」

「……信じられないよ。僕が同じ目に遭ったら、きっと耐えられない……」

 姉の話を聞き終えた二人は互いに手を握り合い、大きな空色の瞳いっぱいに澄んだ涙を溜めていた。どうしても他人事とは思えず、登場人物を自分に置き換えてしまう。境遇が同じとはとても言えた立場ではないが、大切な家族が自分達を庇って命を落とすということがどれだけ辛いか、少しは理解しているつもりだった。

 ただの悪夢では片付けられない、あの夜の悲劇の記憶。二人の繊細な心には、深い傷がしっかりと刻み付けられていた。

「……抱き締めさせてくれるかしら」

 けじめをつけなければならないと考えあえて正面に腰掛けていたリリアンナだったが、あまりにも辛そうに体を震わせる弟妹の様子に、どうしても我慢が出来なくなり立ち上がる。大きく両手を広げると、ルシフォードとケイティベルは大粒の涙を流しながら勢いよくそこに飛び込んだ。

 そうしてしばらくの間、リリアンナは耐えず二人の背中を撫でてやる。しばらくして涙は止まったが、ひくひくとしゃくり上げる高い声は残ったまま。

 先に顔を上げたのはルシフォードで、彼はずっとケイティベルの手を握って離そうとはしない。普段しっかり者だと言われるのはどちらかと言えばケイティベルの方だが、こういう時には必ず片割れを守らなければという強い意志が働くのは、実は彼だった。

 誕生日パーティーのあの夜も、パニックに陥るケイティベルを逃そうと最後まで争うことを諦めなかった。結果誰も助からなかったが、今回は絶対に同じ過ちは繰り返したくない。

「大丈夫よ、ルシフォード。もう二度、誰も死んだりしないわ。貴方達も、そして私も」

 本当は、彼だって怖くて堪らない。けれど自分は男だから、二人を守る義務があると震える心を必死に鼓舞させているのを、リリアンナは気付いている。

「きっとなんとかなるわ。三人で力を合わせましょう」

「お姉様……」

 三人でと言われたことが、ルシフォードは嬉しかった。自分達の荒唐無稽な話を信じ、全力で守ろうと手を尽くしてくれる。リリアンナ以上に素敵な姉は世界中のどこを探してもいないと、再び涙が溢れそうになった。

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