第二十一話 ヘスティリア、全貴族をドン引きさせる
皇帝と談笑しながら会場に戻ったヘスティリアを見て、会場中の貴族がホッと胸を撫で下ろした。
突然皇帝に呼ばれて別室に行ったヘスティリアが、皇帝に罰されるのではないかと危惧した者が多かったのだ。皇太子を跪かせた事を罪とされてもおかしくなかったからである。
しかし、皇帝とヘスティリアは会場を出る前より親密な様子で帰ってきた。これを見て、多くの貴族は本格的にヘスティリアこそが次の皇帝になるのではないかと思い始めた事だろう。
ただ、ヘスティリア自身には、自分が皇帝になる気などサラサラなかった。変な言い方になるが、ヘスティリアは行動の自由が欲しくて権威や権力を欲したのであって、皇帝のような権威も権力もあるが自由な行動が出来ない地位になどまったくなりたいとは思えなかったのである。
現状のヘスティリアは、皇太子を上回る権威を持ちながら、皇族としての義務はほとんど負っていない状態である。これはヘスティリアにとっては理想に近い。皇帝の信任を受ければそれこそ完璧である。今やヘスティリアには全てが許され制限されない立場になったのだった。
ヘスティリアは私利私欲に塗れた女だが反面、自制心も強く領主夫人としての自覚も持っていた。行動原理は「それを私がしたいから」なのだが、それを領地のため、帝国のために必要な事と自然と結び付けることが出来たのである。
反面、欠点としては自分が興味を持てない事はまるで頭が働かない事で、例えば彼女は軍事関係については全く分からず知ろうともしなかった。しかし幸いな事にその方面には詳しい夫であるヴェルロイドがいた。彼女は苦手分野を夫に丸投げすることが出来たのである。
皇太子は会場の主みたいな顔をして貴族と交流するヘスティリアを無表情に見ていた。ヘスティリアは皇帝への野心は無いと断言したのだからそれを信じるしか無い。父である皇帝も皇妃もヘスティリアを罰しなかったところから考えても、彼女は皇帝にも皇帝になる気は無いと言ったのだと思われる。
それならば皇太子としては、癖が強くて手には負えないが、有能で人心掌握能力の高いヘスティリアを、上手く使って次期皇帝として帝国を統治しなければならないという事になる。毒も上手く使えば薬になる。彼女が自分にとっての毒にならないのなら、何とか使いこなさなければならない。そしてその鍵になるのは……。
「皇太子殿下」
皇太子に声を掛けて来たのはヴェルロイドだった。皇太子よりも少し背の高いこの銀髪の男。ヘスティリアを制御するためには、彼とは積極的に交流を持っておかなければならない。
「ヴェルロイド。其方はヘスティリアをどう扱うつもりだ。自分より身分の高い嫁など扱いにくくて仕方が無いであろうに」
皇太子が牽制する意味で答え難い質問をすると、ヴェルロイドは苦笑しながら顎を撫でた。
「ヘスティリアは身分程度でどうなる女ではないですな。例え平民であっても皇帝にすら遠慮などしないでしょう。ある意味、身分が上になってくれて良かった」
それは確かにその通りかもしれない。皇太子は内心で頷いた。身分が下だからと上から扱おうとすれば、ヘスティリアは反発してその頭脳と行動力で状況を覆そうと画策する。事実彼女はそうして皇太子の上に出てしまったのだ。明後日の方向に行動されるくらいなら、下出に出て上手くおだてて、望む方向にその有能さを発揮して貰った方が良い。
「よく分かっているのだな」
「それは愛する婚約者ですからな。安心は出来ませんが」
ヴェルロイドはニヤッと笑った。
「殿下も、妃殿下と仲良くした方がよろしいですぞ。愛する者が常に側にいるというのは良いものです」
「……其方に私の気持ちが分かるものか」
ヴェルロイドは笑い、皇太子も思わず苦笑したのだった。
ヴェルロイドは軍事についての才能と経験を持っていたので、ヘスティリアが帝国の政治に関わると共に、彼も帝国の軍事に関わって行く事になる。特に皇太子はヘスティリアの暴走を抑える意味もあってヴェルロイドを重用し、彼も次第に軍の指揮官の一人として帝国の重鎮になって行くのである。
同じ時、ヘスティリアも皇太子妃と話をしていた。ヘスティリアにとって皇太子妃は、これからも末永く味方に付けておきたい存在だ。ヘスティリアは朗らかに笑いながら皇太子妃に言った。
「これで色々妃殿下の思い通りになると思いますよ」
皇太子妃はヘスティリアを睨んだ。
「貴女、私が殿下と離婚出来るよう協力すると言わなかったかしら?」
「さて、そんな事を言いましたかね?」
ヘスティリアが嘯くと皇太子妃は苦いものを噛んだような表情になった。
「妃殿下は皇太子殿下との関係修復を願っていると信じておりますよ。お二人は幼少時からの許嫁。子供の頃は仲が良かったと伺っております」
皇太子妃はため息を吐いた。そしてヘスティリアの発言を訂正する。
「結婚しても仲は良かったわよ。……殿下が浮気をするまでは」
一年ほど前に、皇太子がある伯爵令嬢に惚れてしまい、その女と密会するようになったことで、二人の関係は悪くなったのだ。
ヘスティリアはうんうんと頷いて、シレッとした顔で言った。
「その関係はもう終わってしまっておりますし、もう浮気している場合ではありますまい。大丈夫ですよ」
……本当はそういう問題ではないのだ。皇太子妃としては、皇太子の不実に怒り、呆れてしまい、心が離れてしまったのだ。今更、自分の元に戻ってくると言われても、もう一度愛せるかどうか。
しかしヘスティリアは全てを見透かしたような微笑みを浮かべながら言った。
「嫉妬して、怒る事が出来るのなら、相手にまだ想いが残っているという事でございましょう。大丈夫ですよ」
皇太子妃はヘスティリアの言葉の正しさを認めた。確かに、皇太子の浮気に腹が立つのは、自分が未だに皇太子に未練があるからだろう。
皇太子夫妻の離婚は難事である。おそらく、帝室もブレブラージュ侯爵家も認めてはくれまい。貴族にとって浮気や不倫はそれほど責められるものではない。夫の浮気など我慢するのが女の甲斐性なのだ。
しかし皇太子妃は、一度は本気で愛した皇太子だからこそ浮気が許せなかった。なので離婚がしたかったのだ。しかし離婚が出来ないとなると……。
「……もう一度、殿下を愛せるように努力をしてみます」
冷たい結婚生活を、味方のいない帝宮で送るよりも、なんとか皇太子との関係を修復した方が健全だろう。確かに皇太子はヘスティリアの登場で、次代の皇帝の地位が怪しくなっている。浮気などしている場合ではない筈だ。
皇太子にその気があるのならば、おそらく関係は修復出来るだろう。元々仲は良かった二人なのだ。
「それがようございます。お二人の間にお子が生まれれば、帝国は安泰でございますもの」
ヘスティリアは屈託なく笑った。その無責任な表情が流石に癪に触る。皇太子妃はわざと意地悪そうな表情を浮かべて言った。
「貴女も。他人事みたいな顔をしているけどね。最愛の夫が裏切ったら、貴女はどうするのですか?」
来月に式を挙げれば彼女も人妻だ。ヴェルロイドのあの調子では簡単に浮気などするまいが、それを言ったら皇太子だって結婚当初は「其方だけが大切だ」と言ってくれていたのだ。男の気持ちなどどう転ぶかわかったものではない。
皇太子妃の言葉に、ヘスティリアは目を丸くして、そしてケラケラと笑った。
「そうですね。ヴェルロイドも男ですものね。浮気されないように、私も女を磨かなければなりませんわよね」
そしてヘスティリアはチラッとヴェルロイドの方を見た。少しは不安になったのだろうか。しかし、ヘスティリアは目を細めて婚約者の事を見やりながら、自信に溢れた口調でこう言ったのである。
「まぁ、ヴェルロイドはそんな愚かな男ではないと思いますけどね」
◇◇◇
宴も終わりに近付き、ヘスティリアとヴェルロイドは連れ立って皇族への挨拶回りの最後の場所へ向かった。
前皇妃の所にである。
別に行きたくはないが、前皇妃は帝室における最上位である。名目上の序列としてはもちろん皇帝が最上位なのだが、帝室を家族として見た場合、前皇妃は皇帝の義理の姉であるので上位として扱われる存在である。そして皇帝が即位する際には、その後ろ盾にもなっているのだ。
世俗的な権力はもうほぼ無いのだが、その発言力は皇帝でも未だに無視は出来ない。そんな帝室のゴッドマザーたる前皇妃に、帝室の新米であるヘスティリアが挨拶しないなどあり得ないのだ。
ヘスティリアは椅子に腰掛ける前皇妃の前に出るとスカートを広げて一礼した。
「前皇妃様。この度帝室の一員としてお迎え頂ける事になり、恐悦至極に存じますわ。前皇妃様も仲良くして下さいませね」
前皇妃はのっぺりとした笑顔を浮かべていた。感情が完全に消されている。何も読み取れない笑顔。
「喜ばしい事ですわ。ヘスティリア。先帝陛下もお喜びになるでしょう」
そして前皇妃はテーブルから細いグラスを取り、ヘスティリアの方に差し出した。
「お祝いに乾杯を致しましょう」
ヘスティリアはニッコリと笑いながら、そのグラス恭しく受け取った。前皇妃も違うグラスを手に取る。
「乾杯」「乾杯」
二人同時に言ってグラスを傾ける。が、前皇妃はグラスを干すが、ヘスティリアは飲むふりをした。グラスに唇も付けない。そしてすぐにグラスを侍女に渡してしまう。それを見て前皇妃が目を怒らせたが、ヘスティリアは知らんぷりをする。
前皇妃は笑みを深めて言った。
「貴女は本当に先帝陛下に似ていますわね。本心を隠すのが上手だこと」
口調に隠し切れない憎しみが滲んでいる、どんだけ先帝のことを恨み憎んでいるのか。詳しい事情は知らないが、一体先帝は何をしでかしたのだろう。ヘスティリアはゲンナリしたが、口に出してはこう言った。
「相手は選んでおりますよ。隠した方がいい相手には隠しますけど、信用出来る相手には本心で対します」
暗に「貴女は先帝に信用されていなかたんじゃない?」と言う。それを聞いて前皇妃の微笑みがひび割れた。口元が引き攣り眉が吊り上がる。
「……そういう、口の減らないところはあの女の血筋かしらね。本当に……」
ヘスティリアは鉄壁の微笑みを浮かべながら言い返した。
「減らず口は育ての親譲りでしょう。お貴族様にはこの味は出せんませんよ」
そしてヘスティリアは胸を張ってふんぞり返った。出来る限り偉そうな、挑発的な態度を意識する。どうやら、やはり前皇妃とは対決が不可避のようだ。ならばここで決着を着けてしまいたい。ダラダラ長引かせても、この女の暗躍を許して事態が面倒な事になるだけだろう。
そしてヘスティリアは決定的な一言を言い放った。
「先帝陛下もお可哀想に。妻の前でも本音を出せなかったなんて。早死にしたのはそのせいでしょうね。いっそ離婚して愛する人と再婚なされば良かったのに。なんでそうしなかったのでしょうかね?」
聞いていた周囲の者の顔が青くなるような痛烈な一言だった。もちろんだが、皇帝と皇妃が離婚など出来ない。どんな事情があろうともだ。先帝と前皇妃にも複雑な事情があったのだろうし、前皇妃にしても思うところは山ほどあっただろう。
それを一切無視したヘスティリアの無神経な言葉。前皇妃の逆鱗に確実に触れる言葉を選んだのだから、ヘスティリアとしてみれば、これで前皇妃が激発してくれなければ困るところだった。
もちろん、そうはならなかった。既にとっくに限界ギリギリだった前皇妃はブチ切れた。
「許せぬ! やりなさい!」
前皇妃が叫ぶと同時に、ヘスティリアのすぐ側に立っていた侍女がヘスティリアに体当たりした。ヘスティリアがその勢いで転ぶと、赤い飛沫が辺りに舞い散った。
「きゃあぁぁぁああ!」
それを目撃した婦人が悲鳴を上げる。体当たりをした侍女の手には血塗られたナイフがあった。
そして侍女はそのままヘスティリアに駆け寄るとのし掛かり、馬乗りになると、ナイフを逆手に持ち、動けないヘスティリアにグサグサと突き刺した。
「いやー!」「なんと!」「うお!」「キャー!」
様々な悲鳴が響くが、誰も咄嗟には動けない。その中で侍女に何度も刺されたヘスティリアは血塗れで全く動かなくなった。それを確認すると、侍女はゆっくりと立ち上がり、自身も真っ赤に染まった姿で前皇妃に一礼した。
「……よくやりました」
前皇妃は禍々しく口元を歪めて言った。悲鳴に駆け付けた皇帝が、血の海の中に仰向けに倒れるヘスティリアに絶句する。
「こ、これはなんとしたことだ! い、医者を医者を呼べ!」
「騒ぐ事はありませんよ。陛下」
「あ、義姉上! 貴女の仕業ですか!」
皇帝の詰問に、前皇妃は優雅に答える。
「そうです。許せるわけがありませんでしょう? この娘はあの女、私から陛下を奪ったあの女の娘なのですよ? 許せるわけがありません」
そのイラスターヤ伯爵夫人は駆け付けるなり、血まみれのヘスティリアを見て速やかに気を失ってしまった。それを見ながら前皇妃は愉悦に満ちた笑顔を浮かべる。
「これで少しは気が晴れました。私を裏切った先帝にもあの女にも、少しは仕返しをしてやりたかったのです」
「しかし! ヘスティリアは既に帝室の一員なのですぞ! それに……」
こんな理不尽な殺され方をしたら、婚約者であるヴェルロイドが激発してしまうかもしれない。アッセーナス辺境伯領が帝国に対して反乱を起こすことになってもおかしくないだろう。
そう思って皇帝はヴェルロイドを見たのだが、ヴェルロイドは何故か、静かな表情でただヘスティリアを見下ろしていた。皇帝は驚くと同時に違和感を覚えた。ヘスティリアは何人か侍女を連れていたのだが、その誰もが大人しく立っているだけなのだ。主人の危機に動揺した様子すらない。な、なんだ。どういう事なのだ?
しかし前皇妃は込み上げる悦びに、遂に声を上げて笑い始める。先帝とイラスターヤ伯爵夫人に対する積年の恨みが滲み出るような笑い声に、皇帝を始め会場の人々は戦慄を禁じ得ない。
「ふふふふふ、ずいぶん威勢の良い娘でしたがこうなれば可愛いものですね。自分の侍女を入れ替えられた事にも気が付かないなんて。間抜けな話ではありませんか」
ヘスティリアの侍女を前皇妃の手の者と入れ替えて、暗殺させたという事だろう。前皇妃には動かせる手勢がない。故に信頼出来る侍女に実行させたという事なのだろうが。
……皇帝は首を傾げる。前皇妃の侍女は位の高い貴族の家から集められた、貴族令嬢ばかりである。つまり箱入りのお嬢様であることを意味する。その侍女が、こうも見事にヘスティリアを暗殺することなど出来るのだろうか。
皇帝がそう思って改めてヘスティリアと、横に立つ血塗れの侍女を見た。その時だった。
「私がそんな間抜けなわけがないでしょう」
と死体が言った。死体の筈のヘスティリアが言った。え? と会場の全員が硬直する。
すると、血溜まりの中にべちゃんと手を突いて、ヘスティリアがゆっくりと身体を起こしたのだった。顔には血がべっとりと貼り付き、緑の髪にも首筋にもドレスにも真紅の彩りが広がっていたが、ヘスティリアはまったく構わず起き上がると、血を跳ね飛ばしながら優雅に立ち上がった。紫色の瞳が周囲をぐるっと見回す。
あまりといえばあまりのことに、数名の貴族婦人が失神して崩れ落ちた。慌ててその夫やパートナーが助け起こす。男性の貴族も愕然と大きく口を開けてしまっている。皇帝も例外ではない。
ヘスティリアの視線は会場を見渡した後、ピタッと前皇妃に固定された。ニーっと目が細められる。
前皇妃は文字通り固まっていた。死体のヘスティリアを嘲笑っていたその顔のまま、動けなくなっている。それを見ながら血塗れのヘスティリアは言った。
「黄泉の国から帰ってきた訳ではございませんよ。前皇妃様」
「な、なぜ……」
ようやく前皇妃の表情に驚愕が表れた。目を見開き、口を開けてガクガクと震え出す。それを見ながら満足そうにヘスティリアは頷く。
「私が自分の侍女を間違えるわけがないじゃありませんか。貴女じゃないんだから」
前皇妃はおそらく、自分は自分の侍女の顔など知らないのだろう。よほどのお気に入りででもない限り。侍女は入れ替わるものだし、前皇妃の侍女は人数も多い。
なのでヘスティリアも一人くらい入れ替えられても気が付かれまい、と考えて指示を出したのだろう。もちろん、ヘスティリアは自分の連れている五人の侍女の名前も顔も覚えているから、入れ替わったらすぐに分かる。
そもそも、ヘスティリアの侍女はアッセーナス辺境伯領から連れてきた者たちで護衛も兼ねている。武術を身に付けていてそこらの兵士など相手にならないくらい強いのだ。
なので、入れ替わるべく襲ってきた前皇妃の侍女達は見事に返り討ちにされて捕まっている。不意打ちで五人掛かりで襲ってきたらしいのだが、戦闘経験のない女性などケーラの相手ではなかったのだ。
報告を受けたヘスティリアはこれを利用する事にした。襲撃が成功した旨をヘスティリアの侍女を一人送って報告させる(服装を入れ替えたら全く気が付かれなかった)。そして、前皇妃の合図と共にケーラがヘスティリアに襲い掛かったのである。
ヘスティリアはナイフを持ったままだったケーラから、自分を刺したナイフを受け取ると、その切先をグイッと押した。
するとナイフの刃が柄の中にめり込んで行く。手品用の仕掛けナイフなのだ。刃自体も木で出来ていて、どんなに頑張っても殺傷能力はない。
「後は豚の血を服の中に仕込んでおき、刺されると同時に吹き出させれば、見事刺殺されたように見えるわけです」
皮袋に入れた血を自分でタイミング良く吹き出させるのは難しかったがなかなか面白かった。この準備は、先ほど皇帝と話をしている間に護衛の者やケーラたち侍女が
してくれている。
「さて、私への暗殺未遂は、立派に犯罪ですわよね。皇帝陛下?」
ヘスティリアは皇帝に向かって血塗れの姿のままニッコリと笑う。皇帝は額に脂汗を浮かべながら頷く。
「ああ。未遂とはいえ、害意は確認した。前皇妃は罰せられねばならない」
ヘスティリアが前皇妃の行動を完全に事前に潰しておきながら、こんな大袈裟な一芝居を打ったのは、自分からこの言葉を引き出すためだったのだろう。と、皇帝は確信していた。
今回のこの事件で、前皇妃は離宮への幽閉処分になり、今後ヘスティリアに憎悪をぶつける事は出来なくなるだろう。同時に、皇帝主催の夜会でヘスティリアが襲われたことは、これを防ぐ事が出来なかった皇帝の失態になる。ヘスティリアは皇帝に大きな貸しを作ったことになるのだ。
ヘスティリアは満足そうに頷くと、前皇妃に向き直った。
「そういう事ですから、前皇妃様。残念でしたね」
ヘスティリアの言葉に、前皇妃は唇を戦慄かせた。
「おのれ! おのれ! よくも! この化け物が!」
化け物とはこれはまたずいぶんな褒め言葉だとヘスティリアは思った。ただ、これ以上彼女の好きに言わせておくのもまずいだろう。まだ誰も知らないような先帝の醜聞でも飛び出したりしたら皇族全体の評価に関わる。黙らせておくべきだろう。ヘスティリアは前皇妃に殊更な笑顔を向けると言った。
「その化け物から前皇妃様への贈り物がございます。お受け取り下さいませ」
更なる呪詛をヘスティリアに投げつけようとしていた前皇妃が流石に戸惑う。そこへ。
突然、前皇妃の頭の上から真っ赤な血が降り注いだ。前皇妃の黄緑色の髪からまだまだ美しいかんばせから、濃紺のドレスにまで、どろっとした真っ赤な赤い血が、錆のような匂いと共に降り注いだのだった。
前皇妃は一瞬キョトンとした後。
「ひ……!」
と短い悲鳴を上げ、ポテっと気絶した。
同時に会場から悲鳴が上がり、またご婦人方がバタバタと倒れてしまったが、ヘスティリアは涼しい顔で言った。
「私も血塗れになったのですもの。これでおあいこですわよね」
これは前皇妃の背後に立っていた侍女、前皇妃の侍女と入れ替えたヘスティリアの侍女が、前皇妃の頭から豚の血をぶっかけたのである。前皇妃は侍女の顔など覚えていないので気が付かなかったのだろう。当たり前だが前皇妃には傷一つ付けたわけではない。
しかし、生き血など見たことのない前皇妃には刺激が強かったのだと思われる。ピクリとも動かなくなった前皇妃を見ながらヘスティリアは実に楽しそうに笑って、皇帝に言った。
「おあいこですので、前皇妃様には寛大なご処置をお願いいたしますわ」
皇帝は唖然としてしまって返答をする事が出来なかった。
血塗れで周囲を睥睨するヘスティリアに、ヴェルロイドが呆れた顔を隠そうともせずに近付いた。
「皇帝陛下も皆様もドン引きしているではないか。着替えもせねばならんのだからお暇するとしよう」
ヘスティリアは頬を膨らませる。
「あら、貴方もドン引きですか?」
「私は今更この程度では驚きもせぬ」
ヴェルロイドは苦笑しながら答えると、血で汚れるのにも構わずヘスティリアを抱き寄せた。そして二人は唖然茫然の会場の皆様に向けて優雅に礼をした。
「では皆様これにて、ご機嫌よう」
◇◇◇
ヘスティリアはこの日以来「不死身のヘスティリア」という二つ名で呼ばれてしまう事になる。
彼女自身はこの二つ名をずいぶんと嫌がったものの、これ以上に彼女らしい異名はまたとあるまいという事で、遂には後世の歴史書にも残ってしまう事になるのであった。
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