第8話

 20時30分


 バイトを終えアパートに帰ると、一人暮らしの俺の部屋の明かりが当たり前のように点いていた。


「ただいま」


 ドアを開けるとエプロン姿の心が極上の笑みで迎えてくれた。


「おかえりなさい、斗真くん。食事もうすぐできますから、うがい手洗いしてきてください」


 今日の心は昼過ぎからすこぶる機嫌がいい。昼休みにあれだけ森島に煽られていたのが嘘だったかのような態度だ。


 時折右手を見つめウットリとした表情を浮かべながら「洗っちゃったから更新しなきゃ」と呟いている。


 うがい手洗いを終えリビングに戻ると、テーブルの上にはいつも以上に気合いの入ったと思われる晩メシが用意されていた。


「すげ〜うまそう。ちょっといつも以上に気合い入ってない?」


 「そうですか?」なんて言いながらエプロンを外して隣に座る心。


「……なんで?」


「はい?」


「いや、いつも正面に座るでしょ? 隣だと狭くない?」


「狭い方がいいじゃないですか?」

 

 コテンと首を傾げながら不思議そうな表情。


 あれ? 俺の方がおかしいのか?

しかも、右側に座られると食べにくいし。密着しているからいろいろと当たりそうで怖い。


「じゃあ、いただきましょう」


 俺の葛藤などお構いなしで食べ始めようとする心。

 

 まあ、彼女がそうしたいのならば仕方ないか。


「「いただきます」」


 手を合わせてて食べようとしたところで俺の箸がないことに気づいた。


「あ、箸」


 いつも心が準備しておいてくれるのに慣れてしまっていたのだろう。彼女は忙しいのだ。やっぱり俺も手伝わないと。

 そう思い箸を取りに行こうとしたが、それを制するかのように口の前に豚の角煮が差し出された。トロトロでうまそうだ。


「はい、斗真くん。あ〜ん」


「……え?」


「ですから、あ〜ん」


 まさかと思うが、箸がないのはデフォ? いやいや、いつもは用意されているし。

 まあ、いいか。『あ〜ん』なんて初めてでもあるまいし。いまさら照れてもしょうがない。ここにいるのは俺たちだけだしな。


「あ〜ん。んっ、やっぱうまい」


「〜〜んっ! むぅ〜」


 よろこんだり不満顔になったり忙しいな。


「お口にあってなによりです」


 プイッと顔を背けながらも、次は心ご自慢の玉子焼きがズイッと差し出された。


「はむっ。ん、やっぱ心のメシが一番だな」


 ゴマすりでもなんでもない本心だ。お袋は昔から仕事をしていたので、メシは出来合いのものが多かった。愛莉さんが嫁いできてくれてからはうまい手料理を味わうことができるようになっていたが、味付けの好みは兄貴に合わせたものだ。

 客観的にいえば愛莉さんの方が上なんだろうが、俺にとっては俺好みの味付けで作ってくれる心の料理がオンリーワンだ。

 何があったのかは知らないが今日の晩メシも俺の好きなものばかりだしな。

 この関係性がいつまで続くかはわからないが、未来の心の旦那が羨まし過ぎる。


「あ、あの斗真くん? その、ですね? 思ってること、口に出てますよ?」


「おっと? それは普通に恥ずかしい」


 無意識に口に出ていたみたいだがおかしなことは口走ってないはず。

 ふと気づくと右腕にピッタリと心の柔らかい身体がさらにくっ付いている。


「あの、心さん?」


 さっきの俺同様、無意識にやってしまっている心に視線で「当たってるよ〜」と訴えてみるが、さも当たり前のように左腕を絡めながら「あ〜ん」を繰り返す。


「家事全般得意です。家のことは安心して任せてください」


 得意げにドンと胸を叩くものだから視覚的にも感覚的にも刺激的だ。


「ああ、うん。いつもありがとう」


 正直、俺一人ではまともな生活は出来なかっただろう。ホント、心様々だ。


「う〜ん。今のはそういう意味じゃないんですけどね〜?」


 あれ? ここは日頃の感謝を伝える場面じゃなかったのか? それとも言葉だけじゃ物足りないって? 


「じゃあ日頃の感謝を込めて何かプレゼントを———」

「別に、見返りが欲しくてわけじゃありませんよ?」


 クスクスと笑いながらも食べさせることをやめない心。


「そっか。どこか旅行とか……」

「行きます!! ぜひ行きましょう! 泊まり掛けでっ!」


 あまりの食いつきぶりに若干引いてしまったのは内緒だ。


 




 

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