第2話 現在進行形のキラキラ
オレンジジュースはただのオレンジジュースで、わたしたちは酔いに流されることなく、お互いの近況を語り合った。
哲太は意外なことに地元から近い、家から通える学校に進んでいた。そのせいか、なにも変わらない空気が彼から漂っていた。それは人見知りなわたしには好ましく思えた。
わたしも自分のことを少し話した。東京がいかに忙しい街かということ、大学の友だちもみんなおしゃれだということ、サークルはなんとなく決めて、そしたらたまにみんなでランチに行ったりするような活動しかしてない名ばかりの『ピアノの友』だったこと。
哲太は逐一笑ってくれた。
特に東京のことは興味津々という感じだった。
「来てみたら?」
「東京?」
「うん。自分の目で見たらなにか違うかもよ?」
なにが、だろう? 自分でもそう思ったけど、あちこち案内をするのは楽しいんじゃないかと思えて、半分座布団からズレた姿勢でオレンジジュースを飲んだ。
そして、気がついたらじっと見つめ合う形になった。
哲太はわたしを見たまま「あの頃」と口を開いた。あの頃、というのは、あの頃しかない。ふたりで軍手をして釘を打ったあの頃だ。
「あの頃、依里がすきだった。ほんとは」
そこまで言うとフッと彼は視線を外した。
目から鱗、だった。
だって、それなら、どうして――。
「気持ち、すぐに変わった?」
「いや、どうかな? すぐにとか、ないだろう。軽い気持ちですきになれるほど器用じゃない」
照れた顔をして哲太はぐいとコーラをあおった。わたしは両手でオレンジジュースのジョッキを抱えて、それ以上、なにも言えなかった。
だって、そんなのズルい。あの時、わたしを選ばなかったくせに――。
唇をぐっと噛んで、心の中で頭をもたげてきた新しい自分にその場を譲る。
「じゃあ今ならわたしを選ぶ?」
哲太はわたしを振り返り、どこまで本気なのか疑っているようだった。わたしはわたしの結んでないストレートの髪の向こうに見える彼を見ていた。
わたしだってズルくなれる。
「選んだら、応えてくれるの? 高校の頃はとてもそうは思えなくて」
「あ⋯⋯」
ズルいわたしはその場をするっと抜けて消えてしまい、そこにはいつも通りのつまらないわたしだけが残されていた。言葉は喉の奥に詰まったまま、なかなか出て来ない。
ほかの女の子とつき合ってるような男と、簡単につき合えるわたしじゃなかった。例え哲太が彼女とすぐに別れたとしても。
「ほら、2回目。フラれるの」
哲太は苦笑した。ほとんど氷しか残らないコーラをあおった。
「からかわないでよ、フッた覚えなんてない。どっちかと言えばわたしがフラれたんでしょう? あの子が――あの子が大切で」
すっと、グラスで冷えた手がテーブルの下から伸びてきて、ひんやりわたしの手を握る。目の前をシャンパンの細かい泡のようなものがシュワッと弾けた。心臓が半端なく動き出して⋯⋯。
「夏祭り、行かない?」
お盆の終わりにあるそれは、わたしたちの小さな楽しみだった。つき合ってる子たちはみんな行ったし、そうじゃない子は思い切ってすきな子を誘った。
行ってなにになるんだろう? 頭の中でもうひとりのわたしはそう考えた。残りのわたしは――。
彼の手を握り返していた。
大きくて、節くれだったその手は、ひょろっとした体格の割に大きくて頼もしい感じがする。
「じゃあ決まり。一緒に行く人、いないし、今年は花火の音だけかなって思ってたところだったんだよ」
「うちはベランダから結構よく見えるよ?」
「うちは全然なんだ」
ふぅん。市内でもいろいろあるんだな、と思う。
その埋め合わせがわたしというわけか。別に、それが悪いわけじゃない。
「花火、大すきなの」
「なら楽しみだね」
「うん、誘ってくれてありがとう」
ありがとう? 本当にそれでいいのか。泰知の顔がチラッと脳裏に浮かぶ。
でも浮気してる彼氏より、現在進行形のキラキラしたものを捕まえたい。目の前から消えてしまわないように。
あの頃だってわたしが踏ん張れば、哲太はわたしをきっと⋯⋯多分、選んだ。そういう流れだと思った。勇気が、ほんの少しあれば。
「あー! なんかそこイチャついてる!」
すっかり出来上がった未恵ちゃんが、わたしたちを指さしてゲタゲタ笑った。
ビールの大ジョッキ片手にズカズカとこっちに向かってくる。
わたしたちはほんのちょっとの間だけ繋いだその手を、どちらからともなくサッと離した。
「ちょっといい?」
未恵ちゃんは遠慮なくふたりの間にドカッと座った。気がつけばわたしたちの距離はすごく近くて、割って入った未恵ちゃんも一瞬「ん?」という顔をした。
そして哲太の肩をとんとんと叩いた。
「依里さぁ、東京まで行ったのに彼氏に浮気されて傷心なんだよ。パワハラでモラハラで束縛系浮気男なんて最悪じゃない? うわー、サイアク! 哲太どうにかなんない?」
ああ、ダメだ。完璧に酔ってる。
しかも今なんて? 東京の彼氏? 泰知もずいぶん修飾されて、かえってフィクションに聞こえる。
「この子、かわいいでしょう? 哲太だってさぁ、あの時、ひとりだったら」
「過去は変わんないし」
わたしは毅然と答えた。そこのところはどうやっても、どんなに誰かが努力しても捻れたままなんだ。
わたしはそう受け入れてきた。
「そうだね、オレに少しでも勇気があれば。例え依里にフラれたとしてもあそこで押せばよかった」
未恵ちゃんは、生大おかわりぃ、と大きな声を出した。
「ちょっとそこんとこよく聞かせてよ。わたしより依里にだよ? あの時の、本当の気持ち」
「未恵ちゃん、飲み過ぎだよ」
「いや、あえてはっきり言うよ。オレは依里をすきだった」
「そんなこと聞いてなにになるって言うの?」
周りの何人かが、わたしのヒステリックな声を聞いてこっちを見た。
そして視線を元に戻した。
特に面白いものはなかったんだろう。
「今さらだよ」
「じゃあ約束は無効?」
約束⋯⋯それくらいはいいじゃん。友だち同士だってするよ。
もうひとりの都合のいいわたしが声を上げた。
「あとでそれについては」
「うん、あとで」
未恵ちゃんはガバッと顔を起こすと「やっぱりふたりとも飲んでるんじゃん。顔赤いもん」と言って、届いたビールのところに戻って行った。
そっと、くぐるように手が触れてきゅっと握った。
「あのさ」
「繋いでたい。3年分くらいは」
3年分というのは、あの日から今までの時間くらい? 離れてた時間がわたしを後悔させる。もしこっちに進学していたら――。
「なんか、悲しい」
「どうして? パワハラでモラハラな束縛系浮気男がいるから?」
わたしは彼を見て、パチパチと瞬きをした。
「信じてるの?」
「だってオレが来た時、依里、顔が暗かったもん。とても楽しそうには見えなかった。だから聞いたじゃん? 『東京はどう?』って。向こうでなにかあったのかと思って」
彼の顔を見ているのが難しくなった。
あの日、教室で泣いてしまった時とおなじような気持ちに襲われた。
「東京は――東京は寂しいよ。哲太がいないもん」
ハッとした。今の言葉はどこから転がってきたんだろう? 虚実が曖昧になってくる。
「ごめん、いろいろ。ここじゃこれくらいしかしてやれない」
繋がれてた手が、きゅっと、更に強く繋がれる。ドキドキした鼓動がそのまま指先に届いて、哲太に伝わらないか心配で。
わたしだって結局忘れられず、哲太がすきだったんだと思い知った。
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