第43話
「春華はともかくだ。私もこの歳までたくさんの『気』を見てきたが……穂村君のようなのははじめてだったな。いったい彼は何者なのか。圭吾が言っていた、もしもロボットに『気』があったら……という例えがぴったりだの。とはいえ、そんなことはあり得まいに、不思議な子だな」
「うーん。太郎自身に訊いても、自分じゃどう変なのか、いまいちわからないみたいだったし。それにあの覚えの良さも異常だよね。過去のお弟子さんにも、さすがにいなかったでしょ?」
「……おらんな。私が武才に感心するような、天才ともてはやされた弟子は何人もいたが、それでもあそこまで飲み込みが早い……というか、教わったその場でできるようになったものなど、一人もおらん」
もちろん春華も含めて、そんな弟子は見たことがなかったと黄は言う。
「それだけではない。ほかにも気になることはあったがな」
考え込む黄に、反町は首をかしげた。
「なに? まだなんかあったの? ……あ、ちょっと待って」
ふと反町は振り向いて、芹田に声をかける。
「マイケル! 電話終わったのー? 太郎来てくれることになったー?」
反町の声に顔を上げた芹田は、なんとも言えない表情で再びがっくりとうなだれた。
「ダメだった……」
「ありゃま」
芹田から自分の携帯端末を返してもらいながら、反町は「まあそうだろな」とつぶやく。喧嘩の戦歴だけ聞くと、太郎は芹田ら不良グループのさらに元締めのような猛者で、無類の喧嘩好きのように伝わるが、会ってみるとむしろ喧嘩とは対極にある頭脳派の少年で、好んでキックボクシングのジムに行きたがるタイプには見えなかった。
黄の道場に来たのも、中国拳法に興味があったというより、『気』について詳しく知りたい、ということに関心があったからと感じた。要は、本来なら格闘技を自分でやってみようとする人種ではなさそうだったのだ。それなのにあれだけ強い。そこも不思議だった。
「で、連絡先は教えてもらえたの?」
反町が訊くと、芹田はうなだれたまま小さく頷いた。
「そっちはな。圭吾には伝えているんだからと、おれにも教えてくれたよ。だけど、ジムに来て欲しいと言ったら一言で『嫌だ』と断られた。興味がないってよ」
うん、思ったとおりと反町は考える。
「じゃあさ、興味があれば来るってことだろ?」
「ああん?」
芹田が胡乱げな目を反町に向けた。
「どういう意味だ?」
「そのまんまさ」
と反町。
「興味がないから行かない。なら、興味があるようにすれば行くってことじゃないか。だろ?」
「……どうすれば興味があるようになるんだ?」
「それはマイケルがこれから考えるのさ!」
一段と暗い顔になった芹田に、反町は笑顔で肩を叩いて励ました。
「連絡先はわかったんだから、一度断られたくらいであきらめることないだろ? 何度もチャレンジすればいいじゃないか。な?」
「……なんかいいこと言ってくれるのかと、一瞬でもてめえに期待したのが間違いだった」
「いやいや、振られてからが恋ってもんだよ、たぶんね! 頑張れ」
「恋とか言うなバカ! なにが頑張れだ、ふざけてんのか? だいたいてめえだって彼女いねえだろ」
「いや、おれはいないんじゃなくて、作らないんだよ」
「勝手なこと言ってんじゃねぇ!」
たちまち追いかけっこに発展しそうになり、反町は慌てて芹田に待ったをかける。
「ちょ、ちょい待ち、マイケル。そういや、じいちゃんがなんか太郎について気になることがあるって話してくれてるとこだったんだよ。ね、じいちゃん?」
それを聞いた芹田は即座に真顔になり、反町に迫ろうとした姿勢のままで黄を見た。
「え、てっぺ……穂村君の? 気になるって、どういう……?」
「話より、じゃれ合いたければ好きにやってきてもかまわんぞ?」
呆れたように二人を眺める黄に向かって、芹田はばっと頭を下げた。
「お願いします! 聞かせてくださいっす!」
その態度の豹変に、反町はにやにやし、黄も意外そうな視線を芹田に向けた。
「ほーら、やっぱり恋だよ、この反応」
「うるっせぇな圭吾! 黙ってろ! 穂村君のことで黄先生が気になると言うんじゃ、聞かないわけにはいかねぇだろうが!」
(ほう?)
黄はあらためて、芹田を興味深げに見る。その目は真剣に、こちらへひたと向けられていた。
(穂村君を理解したいと欲する、か。なるほどの)
芹田は実際に太郎の勝負を見ているという。太郎のようになりたい、太郎の域を目指したいと考えても、実際問題としてそれは不可能であろう。あれはなろうと思ってなれるものではない。単純明快に、もともとがそうあるから、できる。理不尽で不公平ではあるが、そういうものだと黄は考える。しかし、だからといって理解をあきらめるというのは話が別だ。相手に感心を持ち、情報を得て咀嚼し、自分なりの糧を得る。そうした行為が無駄であろうはずがなかった。それは何も武の道に限ったことではないが、ともかくも、太郎という規格外の存在を見たことで、芹田の内面に外向きの変化が現れてきている。そのことに黄は、これからの楽しみが増えたな、と思った。
「マイケルは、随意筋というものを知っておるか?」
「え?」
いきなり黄から質問されて、芹田は面食らった顔になる。
「ズイイキン、すか? えっと……」
何かのばい菌あたりを想像したのか、芹田の目が泳ぐのを見て、黄は苦笑した。
「まだ学校で習ってはおらんかな」
「えー、マイケルに訊いてもだめだよ、じいちゃん。だってマイケルばかだし」
「う、うるせえな! じゃあおまえわかんのかよ?」
「知ってるさ、もちろん。随意筋は、自分の意思で動かすことができる筋肉だよ。腕とか足とか、筋トレで鍛えられる部位が多いんだ。その逆に、自分の意思で動かせないのが不随意筋。でしょ? じいちゃん」
「そうだな」
黄が頷いた。
「ほーら見ろマイケル」
「くっ。勝ち誇った顔しやがって……」
悔しそうにする芹田に、反町はニヤニヤとした笑いで応えている。
「では圭吾。不随意筋にはどんなものがある?」
「どんなって……ええと、心臓とか胃みたいなところの筋肉?」
「うむ。生きていく上で、止まっては困る部分の筋肉がだいたいそうだな。いま出た心臓などは、動かそうと思って動いているわけではなく、止まれと思って止められるものでもない。心臓は持ち主の意志に関わりなくいつでも勝手に動いてもらわねば困るし、意志の力で止めてしまえるようでもまた困る。胃の方も、こちらから食べ物を消化する意志を持たねば消化できないのでは、効率が悪すぎる。こういうところは、自分の身体でありながら、自分の意志では御することができないわけだ。我々の身体には、そういう部分がたくさんある。それはわかるな? マイケル」
「あ、はい、そうっすね」
「へぇ、ホントにわかってる? マイケル」
生真面目に応える芹田を、反町が茶化す。
「わかってるって! てめえ本気でおれをばかだと思ってるだろう?」
「だってばかだしねー」
「てめぇこの……っ」
またもつかみ合いになりそうな二人を見て、黄が反町を窘める。
「そのくらいにしておけ、圭吾。真面目な話だ」
存外に真剣味のこもった黄の声音に、反町が肩をすくめて従った。
「はあい、わかったよ。もう言わない」
「……けっ。あとで覚えてやがれ」
からかうことは止めにしたとしても、格別反省の色の見えない反町に、芹田が小さく毒づく。
「ところがな、この不随意筋による身体の活動の中で、ほとんど唯一と言ってもいいくらいに、自ら動かしたり止めたりすることのできるものがある。それは何かわかるか、マイケル?」
「え? 自分の意志でも動かせる……ってことっすか? うーん、なんだろう?」
芹田は腕組みをして首をひねる。懸命に考えているのがわかる。からかいの言葉が口まで出かかっていた反町は、黄の睨みによって、辛うじてそれを抑えていた。
「……あ!」
芹田がぱっと顔を上げた。
「わかったっす! 呼吸だ! そうでしょ、黄先生!」
「そのとおり」
「いよっしゃ! 見たか圭吾! おれだって考えりゃちゃんと答えられるんだぜ?」
「うん、マイケル頑張った。えらいぞ!」
にこにこして素直に褒める反町に、それはそれで芹田が不満げな顔になった。
「なんで褒められてんのにばかにされている気がするんだ?」
「ふふふ」
「……くそっ、なんか納得いかねぇ!」
「続けて良いか?」
黄が口を挟み、二人は黙る。
「私はな、内功というのは、使える力を十全に使うということのほかに、これら不随意筋に代表される、ままならぬ身体の部分の力まで引き出す手法だと思っている。普通なら思い通りにならぬ肉体の能力までも利用して技に上乗せするから、見た目よりもはるかに大きな力が出せる、そういうものだとな」
「……はあ」
芹田は、わかったようなわからないような表情だ。
「そのために、本来自律的な活動である呼吸に対して、意識的にも積極的に御することで、身体に関与するための入り口とするのだ。もちろん、肺の活動自体はいくら頑張っても自由にはならん。だが、息を一時的に止めたり、深呼吸して長く大きく息を吸ったり、ということなら誰にでもできるのはわかるな? それに腹式呼吸も一般的に身につけられる技術だ。これら肺に空気を送るための筋肉や、腹筋をはじめとした随意筋を使う補助的な動きによって、呼吸をできる限り意志の元に置くように修行する。そうして、呼吸という動作を媒介に『気』を練ることを感覚的に身につけていくわけだ。ここまでは良いかの」
「ええっと」
芹田が唸りつつ反芻する。
「ほんとなら勝手に動くだけの呼吸を、自分でコントロールする修行を積むと、いずれ心臓も自分で動かしたり止めたりできるってことっすか?」
芹田の短絡した理解に、反町が思わずぶふっと吹き出したが、黄は笑わず真面目に答えた。
「そうは言っておらん。……が、突き詰めればそれも可能かもしれんの。実際に見たことはないが、自ら心臓の鼓動の回数を減らし、体温を下げて仮死状態になるという技を持つ武術もあると聞く」
仮死状態になる技と聞いて、芹田には格闘とのつながりが想像できなかったらしく、ますます首をひねリ始める。
「ええ? ……それ、何か役に立つんすか」
「さての、現代とは環境の異なる時代に培われてきた技だ。ほんとうに可能だというのなら、その当時は必要なことであったのだろうよ。例えば……そうさな、動くことが困難な状況にあって、飲まず食わずで長いこと待ち続けねばならん機会があったら、その技は便利であろう? あるいは、仮死状態であれば生きている気配が希薄になる。敵から身を隠すために、存在感を消したいときにも使えそうだな。いいかマイケル。武術とは相手と争う方法ばかりではないぞ、生き延びるのに必要な技もたくさん考え抜かれたのだ」
そう諭されて、芹田は唸った。究極には、戦わずに済むこと、相手に戦う気を起こさせないことが、真の武術の極意であるのだがなと黄は内心つぶやくのだが、いまの芹田にそれを言っても呑み込めまい。
「ううん……。えっと、それでその仮死状態と、穂村君って、どうつながるんすか?」
「うむ。心臓や肺というような、身体の不随意筋を司るのが、自律神経という。内功の修行を深めていくことは、この自律神経の領分にどれだけ自分の意志を反映させられるようになるか、という修行であると見ることもできよう。でな、穂村君だが……どうも彼はこの自律神経が、はじめから彼の意志の味方をしているように感じられたのだ」
「自律神経が?」
「太郎の味方??」
芹田と反町がそれぞれ同時に疑問の声を上げた。
「……意味わかんないっす」
「そんなこと起きるの?」
しかし疑問に感じたことは、どうやらそれぞれが異なっているようだ。
「うむ」
黄は話を続ける。
「自律神経はその名のとおり神経であって、自我もなければ人格もない。言葉にできるような、何らかの思考をするようなものではない。ただただ、生命活動に必要な身体の動きを司るだけだ。だから、普通は私たちの意志に応えるも、応えないもない……はずなのだ。だがなぁ」
そこで黄は首を傾げるのだった。
「穂村君の身体の反応は、彼の意志の反映が早すぎる。あれは、自律神経のほうから歩み寄り、こうしたいという要求を聞き入れているとしか思えん。……いや、私もおかしなことを言ってるとは思っておるよ? しかし、そう感じてしまったのだから仕方がない」
芹田はやはりよくわかっていない様子だったが、反町の方は「ああ、なるほど」と頷いた。
「身体の方から自分の意志に応えようとしてくれるのなら、内功がいきなり完成しちゃうってのもおかしくはないのか。いや、そんなことが起きてるんなら、だけどさ」
「そう、起きているのなら、だがの」
祖父と孫は、揃って腕組みをして、うーんと唸るのだった。芹田が一人、蚊帳の外であるのを感じながら、似ていないようで似ている二人をなんとも言えない表情で眺めていた。
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