第44話

 八月に入り、長いと思えた夏休みもあっという間に三分の二を過ぎようという頃、ことりはいまにも泣きそうな真理からSOSの電話を受けた。

「宿題、わかんないぃぃぃ。終わんないの~! 助けておおとり!」

「あのねぇ。それ電話する相手が間違ってない?」

ことりの成績は真理より良いとはいえ、あいにく周りから勉強で頼りにされるほどではない。ことり自身だって、宿題の進みが順調とは胸張って言えないのだ。七月を部活動に捧げたぶんも取り戻さなければならず、他人の面倒を見ている暇はなかった。

「頼るなら佳子のほうでしょうが。そっちは訊いてみたの?」

佳子は三人の中ではダントツに成績が良いのだ。ことりも授業でわからないところなどを、ちょくちょく教えてもらっている。しかし真理はその案に悲痛な声でダメを出した。

「佳子なら昨日から家族でカナダ旅行だってば! 忘れたの?」

「あ……」

そうだった、とことりは思い出す。今年は10日間ほどの日程で、カナダへ氷河を観に行くのだ、と休み前に佳子から聞いていたのである。ことりも、それからソフトボール部の真理も、休み前は部活の締めくくりのことで頭がいっぱいであり、友達のこととはいえ海外旅行の計画など、いいなぁとは思っても自分とは違う世界の話題くらいにしか考えていなかった。

「それにしたって、わたしも真理を助けられるほどの余裕ないよ?」

「何言ってんの? おおとりには強い味方がいるでしょう!」

「味方?」

何の話か、とことりは首を傾げる。

「穂村君よ。おおとりから頼んでくれない? お願い!」

太郎ちゃんか! なるほど、確かに成績が学年トップの彼なら、勉強では大いに助けになりそうだ。だが。

「なんでわたしなのよ? 直接自分で頼めばいいじゃない」

「あたしが穂村君の連絡先、知ってるわけないでしょう。家だってわかんないし。おおとりは知ってるんでしょ? お願い、頼んでみてよぉ」

「ええ……? いやぁ……どうなんだろ」

自分が勉強教えて、と頼んだとして、太郎はその頼みを聞いてくれるのだろうか? そもそもそんなことを考えた例しがないのだ。大丈夫、と言い切れる自信はなかった。

「むむ。わたしが頼んで……うんと言ってくれるかなぁ?」

「言ってくれるに決まってるよぉ!」

怯んだ口調でことりがつぶやくと、真理は勢い込んで続ける。

「穂村君の電話番号知ってる女子なんて、クラスで間違いなくあんただけなんだから。それにおおとりが頼んでダメなら、あたしの頼みなんてなおさら聞いてくれるわけがないよ。でしょ?」

でしょ、と言われても。ことりは鼻白む。しかし、そうか。太郎ちゃんと連絡できる女子は自分だけか。それはちょっと嬉しいかな。

「ね、お願い。せめて頼んでみるだけでも。ダメでも恨まないから!」

いや勝手に恨むな。ことりはため息を吐いた。

「……わかった、でも訊くだけだからね? OKもらえるかなんて保証できないからね?」

「ありがとう! 恩に着るわ!」

調子の良いことだ。途端に口調が明るくなった真理との電話を切りつつ、ことりは悩ましい思いで太郎のことを考える。

 休みになってからも、電話でなら何度か太郎と話してはいた。部活動が終わって時間が空いたこともあり、できれば直接会いたいなと思うものの、さすがにもう学校関連の用事はなかったし、武雄伯父からも太郎に関わる新たな連絡は来ていない。電話をすることはできても、会うには何も口実がないのだった。

 会うこと自体が目的で遊びなどに誘ってみるのも考えなくはなかったが、つまりそれはデートの誘いと同じことになってしまって、とてもではないがことりから切り出すのは無理であった。逆にもし太郎から誘いがかかれば、一も二もなく自分は喜んで会いに行くだろうと思ったが、太郎がそんなことを言ってくるわけがない、ということもよく承知していた。

 バスケットの試合の帰り、太郎と並んで歩いた時間は、ことりにとってかけがえのないひとときであった。しかし、昼間の人目に付く時間に自分と並んで歩くことを、太郎自身は好まないのではないか? とことりは考えていた。なにしろ太郎よりことりのほうが、身長はかなり高い。隣りに立つことをことりはまったく気にしなくとも、太郎は気にするかもしれない。そう思って、学校以外で太郎と会うのはかなり難しいのかなぁ、とことりは勝手に想像を巡らせていたのだった。

 してみると、この話は太郎と直接会うためには、かなり良い「理由」になるのではないか? と、ことりは考える。うまく行った場合は真理も一緒に来ることになって、二人きりではないわけだが、むしろその方が変に意識せずに会うことができそうな気がした。真理も実は太郎よりほんの少しだけ背は高い。だが三人でいるならそのあたりはあまり考えなくとも良さそうに思えた。

(……よし。訊いてみよう)

覚悟が決まって、ことりは太郎に電話をかけた。


 翌朝、ことりは真理と待ち合わせて、近くにある市立の図書館へ向かっていた。

「いやー、さすがおおとり。穂村君をあっさり口説き落としてくれるなんて」

ニコニコ顔で真理がことりを持ち上げる。

「……別に口説いてないし」

「いやいや、それでさらっとOKもらえるんだから、持つべきものはモテる友人ってことよねー」

ことりはどう反応してよいものかわからず、あさっての方を向いた。一大決心をもって臨んだ昨夜の太郎との電話を思い出す。実際、太郎とのやりとりは拍子抜けするほどあっけないものだった。

「あのね、あの、迷惑でなかったらでいいんだけどね。真理と一緒に、宿題のわからないところを教えてもらえないかな」

遠慮がちにそう切り出したことりに、太郎は「いいよ」と即答した。ことりのほうがむしろびっくりして「え、いいの?」と訊き返してしまったほどだ。

「うん。どこでやる? 図書館とか?」

場所のことまで考えていなかったことりは慌てて、「あ、そうね、図書館なら冷房あるしね」と同意する。

「そういえば太郎ちゃん、自分の宿題はいいの?」

思い出したように、ことりが太郎の宿題の邪魔にはならないのかと訊いてみると、太郎はこれまた「終わってるから」と一言だけ答えた。これにはことりも絶句してしまった。

(いやー、まだ夏休み三分の一残ってるのよね? しかもこの答え方、昨日や今日終わったって感じじゃないよね?)

夏休みの終わりも見えないうちに、宿題を全部済ませてしまう。そもそもことりには、まずそうした発想がなかった。これまで休みの最終日に宿題が間に合わなかったことはないが、それでも間に合えば良いというペースでしか取り組んだこともない。なるほど、だから太郎ちゃんは学年トップなんだな、とあらためて感心したのだった。

 図書館の自動ドアが開くと、二人は中から漏れるひんやりとした空気に包まれる。

「おお~、涼しい」

「ホント、気持ちいいね」

歩いたことで少し汗ばんだ身体には、天国のようだった。

 太郎は、館内の学習室で待っている、と言っていた。ことりはこれまで入ったことはないが、勉強する人のため、あるいは館の蔵書で調べ物をする人のために、机と椅子を備えた部屋があるのだという。入ってすぐの案内図を見ると、確かに二階の一角に、学習室の表示があった。

「二階なのね」

「行こう」

階段を上り、『会話の声は小さくネ』と書かれた学習室のドアから中を覗くと、丸テーブルのひとつに陣取った太郎がこちらを見て、片手を上げるのが目に入った。

「あ! 穂村君いた!」

思わず声に出した真理へ、室内にいた利用者たちから一斉に視線が突き刺さる。

「真理、声が大きいよ」

「あ、いっけない……」

見れば、部屋の片側は一人用のブース形式になったスタンド付きの机がずらりと並べられており、反対側には丸テーブルや四角い大きめのテーブルに何脚もの椅子が揃えられていて、個人とグループで利用者を分けているようだ。真理の大きな声に反応したのは、もっぱら一人用のブースにいたほうの面々である。

 そそくさと太郎のいるテーブルまで行くと、椅子にかけながらひとまずおはようと声を交わし合う。ことりはこの部屋の利用者の多さに驚いていた。

「この部屋初めて来たんだけど、ほとんど満席なのね……」

ぐるりと室内を見回して、ことりが感心したように言った。

「そう、とくに夏とか冬とか、空調の効いた勉強場所が欲しい季節はね。すぐいっぱいになっちゃうから、開館と同時に席取りしないと」

太郎は見ていた参考書を閉じながら言う。ことりはその参考書が、学校で使われているものではないことに気づいた。

(はあ、さっすが太郎ちゃん)

自分なら、やりなさいと言われている以上の勉強に手を出す気になんて、とてもならない。

「ありがとう、場所取りまでしてくれたのね」

一人用の机にはまだひとつふたつ空きがあったが、テーブル席に空きはひとつも残っていなかった。

「ぼくはよく来てるから」

「助かります、感謝してます、穂村様」

真理は既に太郎を拝んでいる。いやまだ何もしてないだろう、とことりは言いたくなった。

「じゃ、さっそくやろうか」

太郎の言葉に一瞬、きょとんとした真理が、「そうよね」と慌てて宿題のテキスト類をバッグから引っ張り出す。

「……真理、あんたまさか何しにここまで来たか忘れてないよね?」

「あったり前でしょー? さあ、勉強するぞ!」

だから声が大きいんだってば、とことりは再び、一人席からの視線に身をすくめることになった。


 真理の宿題の進み具合は、予定どおりでない進捗のことりをして、「うん、これは……終わらないわ」と思わせるもので、自分だって、もしもこんな状態だったらきっと誰かに助けを求めたくなる、と唸ってしまった。

「だってだって、自分でやっててもすぐわかんなくなっちゃうんだもん。考えてもわからないと、もうそれでやる気が尽きて、続けられなくなっちゃうんだよ」

それはものすごくわかるが、そこで放置してはさすがにまずいだろう。その挙げ句が、ことりへのSOSだったというわけだ。

 そこで、まずは真理の行き詰まっているところをひとつずつ太郎に見てもらった。そうして真理が一人で進められるようになったら、次にはことりが太郎に教わる番である。自分でできるページを進めつつ、真理を教える太郎の話についつい耳をそば立ててしまったが、太郎の教え方は有り体に言って上手だった。答えを教えるのではなく解き方や考え方を教えているのだが、あの真理がきちんと理解できるよう噛み砕かれた説明に、思わず聞き入ってしまった。さらにあらためて自分が教えられてみると、学校の先生の授業よりもよほどすっと頭に入ってくる。

 クラスの全員に向けて行う授業と、相手の反応を直接見ながら一対一で教える授業では、理解のしやすさにおいて同じように比べることができないとわかっていても、これなら先生ではなく太郎に授業をさせた方が、クラスの成績もっと良くなるんじゃないかしら、とついことりは思ってしまった。自分が勉強できるのに、どうして勉強できない人が躓く中身を理解できるのか? ことりは不思議になって、テキストよりも太郎の横顔をまじまじと見つめる。そしてふと、わかったような気がした。

(あ、太郎ちゃんって、もしかして天才じゃあないのかも?)

自分とかけ離れて頭の良い人を見ると、どうしても安易に「天才!」と思ってしまいたくなるものだが、太郎はどちらかというと秀才タイプなのではないか、とことりは考える。もちろん、頭の出来は良いのだろう。だが、成績を上げるためにはきちんと勉強してこそ、良い結果を出せるのであって、感覚的に「わかってしまう」「解けてしまう」というタイプとは違うのではないだろうか。

 効率はきっと自分たちよりはるかに良いのに違いない。それでも積み重ねた努力の結果としての、いまの学力と成績ではないのか。新しいことを自分が理解するために、学んだことを吸収して自らの血肉とするために、試行錯誤し考えたプロセスが理路整然として残っているから、能力が劣っていることりたち相手であっても、そのプロセスを言葉にして伝えることができるのかもしれない。

 太郎の成績は、きっと正しく太郎の努力でできている。その重ねた努力の厚みを思うと、むしろ天才が学年トップに立つことよりも、ずっとすごいことだとことりには思えた。

「……さん、世羅さん」

「は、はいっ」

「聞いてる? 大丈夫?」

ことりは太郎から呼ばれていることにようやく気づき、はっとなった。

「だ、大丈夫」

「ほんとに? 一休みしようか」

「ううん、平気よ。続けて?」

太郎の向こうから、真理がにまにまとした笑いを浮かべてことりを見ている。この表情は……いつかの多佳子伯母と同じものだ。ことりは頬が熱くなるのを感じながら、それを振り払うようにテキストと向き合った。


 * * * * *


 お読みいただきありがとうございます。

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