第42話
道場を出ようとした太郎を、反町が呼び止めた。
「太郎! それにマイケルも! 汗かいたろ? タオル貸すからさ、風呂入って行きなよ」
「……風呂?」
眉をひそめる太郎に、芹田がああと頷く。
「そういや、おまえん家の風呂も久しぶりだな。うん、暑いし、ちょっと入らせてもらうか」
「どういうこと?」
太郎が訝しげに訊いた。
「ああ、圭吾んとこの道場には、銭湯みたいにおっきな風呂があるんす。お弟子さんが稽古のあとに入る用なんすけど、今日は誰もいないからきっと貸し切りっすよ」
すぐにも帰るつもりだったものの、実は結構な温泉好きの太郎は、大きな風呂と聞いて心がぐらついた。その場で断われなかったために帰ると言い出すタイミングを逸し、そこへ反町が二人へ持ってきたタオルを投げて寄越したので、なし崩し的に風呂を借りていくことになった。
風呂は檜の香りのする湯船に、10人は一度に浸かれそうな大きなものだった。湯は24時間、常時沸かしてあるらしい。夏場のこととて、ぬるめにしてあるという湯に身体を沈めながら、太郎は大きく「はぁぁ」と息を漏らした。
そんな太郎を、同じく湯に浸かった反町と芹田がまじまじと見つめているのに気づき、太郎はちょっと赤くなる。
「なに? 二人してそんなこっち見ないでよ」
反町と芹田は顔を見合わせる。
「うーん」
「細い、よなぁ」
どうやら二人は、太郎の身体の肉付きを見ていたらしかった。基本的にスポーツをせず、ろくに鍛えても来なかった太郎の身体は、身長だけではなく体重も軽い。筋肉の量は、同じ背丈の少年の平均よりも、かなり少なく見える。
比べて芹田はバネの利きそうなみっしりとした筋肉が付いており、中学三年生にして既にマッチョと言っても差し支えない体格だった。上背のみならず、厚みや重さも相応にあって、運動能力の高さを思わせる。反町は服を着ていると痩せ型に見えるが、筋肉ムキムキではなくとも、必要なところに必要な筋肉の付いた、バランスの良い体付きだ。
「そういえば、黄先生も言ってたけど、おれはやっぱり中国拳法向きじゃないんだろうなぁ」
湯船の反対側で、芹田がちょっと残念そうな顔を見せる。それに反町が答えた。
「中国拳法にも、筋力重視の流派はあるよ。そういうのならマイケルでも行けるかもしれない。とはいえまあ、流派の違いはあるにせよ、だいたいが内功の鍛錬あるからね。おれの考えでは、やっぱり中国の武術ってのは、どっちかというと体格に恵まれない者のほうが、修得に向いているんだと思うよ。だから、この中ならマイケルよりおれ、おれより太郎のほうがより適性があるんじゃないかなぁ」
「……どうしてそう思うの?」
太郎が訊いた。反町の視点に興味を持ったのである。
「いや、だって戦いに勝つために技術が必要なのは、体格の劣る方でしょ。マイケルみたいな体格の良いやつは、そもそもそれだけで強いんだよ。なんかのマンガで主役キャラが言ってたけど、『虎が強いのは、虎だから』なのさ。虎に武術は必要ない。だって虎であることで、もう強いんだもの。熊とかだってそうだろ。鋭い爪や牙、人間より大きくて重い身体、強い力とスピード。そういう武器がはじめからあるなら、別に武術を身に付けなくてもいいんだよ」
「ふうん?」
「……意外に難しいこと考えんだな、圭吾は」
太郎は興味深げに、芹田はどうでも良さそうに返事をする。
「だから、マイケルはその恵まれた身体をそのまま、よりうまく使うことを考えるべきなんだ。欧米系の身体能力を重視した格闘技は、マイケルには正解だと思うよ。下手に拳法の修行に時間を費やすより、筋トレでパワーを上げる方が、よっぽど効率よく強くなれるさ。だって、おれがただ筋肉の力だけで思いっきり殴ったって、きっとマイケルには効かないだろ?」
「ばかいえ、おまえにだって思いきり殴られたら痛えに決まってるだろうが!」
芹田が口を尖らせる。
「でも、ノックアウトはできない。キックだってボクシングだって、ちゃんと体重で階級が分かれているじゃないか。メジャーなのでは相撲くらいでしょ、完全に体重関係無しの無差別試合って。小さくて軽いと、より大きな相手には基本勝てないから、そうなってるわけだよ。ただ、格闘技なら階級があるけど、武術が生み出された昔の戦いの中では、体格の不利なんて理由にならないでしょ。負ければ死んでしまうんだからさ、そこで体重差をひっくり返すために必要とされた技術が、武術だと思うんだ。わざわざ理解しづらい修行を何年も積んで、内功で『気』の助けを借りて破壊力を出そうなんて、もともと大きな破壊力のある人には、やる必要のない工夫だよ。そう思わない?」
「……公園の桜の木、かな」
太郎がふとつぶやいた。
「そう! あれだよ。さっすが太郎!」
我が意を得たり、といった感じで反町が大声を出す。
「何の話だよ。わかるように言え」
芹田の文句に、反町は公園で発勁が初めてできたときのことを話した。その過程で、反町の殺人未遂についてもようやく芹田の知るところとなる。なるほど、それは黄も孫を本気でぶん殴るわけだ、と芹田は納得したようだった。
「で、おれがそのときの全力で打ち込んだ発勁でも、落ちてきた桜の葉は一枚だけ。何年も修行を重ねて、やっとできるようになって、それでもたった一枚だ。まあ、この先もっと威力は上げたいけど、それにはあと何年かかるのかなんてわかりゃしない。それなら、たとえばマイケルがキックをやってなかったとしても、力任せに木の幹を蹴っ飛ばしたら、もっとたくさんの木の葉が散ると思うんだよ」
「まあ、そりゃ……」
あまり納得はしていない顔で、芹田があいまいに頷く。
「だから、マイケルが強くなりたいんだったら、いまないものを求めるより、もともと持っている強さを伸ばすこと。その蹴る力を手っ取り早く強化できる方法を選ぶほうがいい。つまりは、ジムにちゃんと通ってもっと強いキックを手に入れたら良いのさ」
「む……」
どこか丸め込まれた気分の抜け切れないふうの芹田を放り出し、反町は太郎に向き直った。
「それにつけても、太郎ってばわからないなぁ。ほんとにいままで拳法の修行とかやってなかったの? こんなに短時間で『気』をものにしちゃうなんて、ありえないよ。この目で見てもまだ信じらんない」
おう、と芹田も同意する。
「てっ……穂村君は武術の才能もすげーんすね。そういえば三宮さんのときも、吹っ飛ばした技、あれは発勁なんすか?」
「え、まさか」
太郎は慌てて首を横に振った。
「発勁なんて、圭吾君に会うまでマンガの中の話としか思ってなかったよ。まさか実際にできる人がいるなんて」
「まあ、普通の人はそういう反応だよねー。でももう太郎は、自分でもできるでしょ」
「え!」
反町の発言に、芹田がざばっと音を立てて湯に沈んだ身体を起こす。
「できるんすか、てっ……穂村君?」
「うわっ、お湯がかかったよ、マイケル!」
あおりを喰らって文句を言う反町にかまわず、芹田は太郎をまじまじと見た。
「う……ん。たぶんできるんじゃないかな?」
「やって見せてくださいよ! 穂村君の発勁、見てみたいっす」
「いや、見えないでしょ」
勁力の発露は『気』を感じ取れるものしかわからない。傍から見て、できたのかどうかは判別が難しい。
「圭吾ぶっ飛ばしてくれたらわかりますよ!」
「よせばか! おれ死んじゃうって! やってほしけりゃマイケルがくらってみなよ」
「何言ってんだ、『気』なんて使えねーんだぞ? おれこそ死ぬだろう。ふざけんな」
「ふざけてるのはどっちだよ?」
そこで反町と芹田のあいだに、小学生のようなお湯の掛け合いが始まってしまう。いくら風呂が大きいと言っても、太郎にもしぶきは飛んでくる。とばっちりを避けて二人からなるべく遠くへすーっと離れ、そのまま太郎はちょっと考えて、静かに呼吸を整える。そうして、湯船のなかで二人に向かって手を前に突き出した。
「あ? 太郎? うわちょっと待ってそれ! 何しようと」
先に太郎に気づいて手を止めたのは反町だ。芹田は気づかずまだ反町にお湯を飛ばし続けている。
「ぶへ! ばかマイケル止めろ、それどころじゃ」
どぱん!
そんな音とともに、湯船の湯が大津波となって、芹田と反町を襲った。
「ぎゃあぁぁっ!」
「ぐべっ?」
「あ……」
気づけば、湯船の湯はあらかた外へ弾き出されてしまっていた。太郎は湯のなくなった風呂の中で、右手を前に出した姿勢でぽかんと呆けている。反町は正面から津波を喰らってひっくり返り、芹田はお湯かけの格好のまま、何が起きたのかもわからずお湯をたらふく浴びて固まった。当然のことながら、三人ともタオルはどこかへ吹き飛んでいた。
「ほんとにごめんなさい……」
太郎は小さな身体をなお縮込ませながら、黄に謝っていた。
「くくっ。かまわんよ。圭吾にも良い薬だ」
黄はこらえきれずに笑いを漏らす。太郎の発勁は見事に成功していた。おかげで湯船のお湯をほとんど空にしてしまい、太郎は最後に赤面しながら道場を辞去していった。その背中を見送り、見えなくなったところで黄の表情が引き締まる。
(しかし驚いた。あんな子がまだ世の中にはおるのか)
すべてにおいて規格外も甚だしい。常識がまったく通用しない相手だった、と黄は思う。
孫に運動公園で起きたことを聞いたときは、さすがに信じられなかった。使われたのが自分の『気』だったらダメージを受けないなどと、そんなことはない。『気』の鍛錬のできていないものがまともに発勁を受けたら、下手をすれば命を失う。仮にそこまでのダメージを受けなかったとしても、その場ですぐに立ち直り、普通に話ができるようになる、ということは考えられなかった。勁力への耐性がものすごく高いのか、それとも回復力がすさまじいのか。どちらにしても常人の域ではあり得ない話である。
(それに)
黄はさらに考える。
黄が太郎に放った二度目の発勁。あれは、そのときできる全力の発勁だった。手加減どころか、これ以上できないほどに『気』を込めた一撃であったのだ。その一撃を、こちらが不意を突いた状態で受けていながら、太郎はぐらついただけで済ませてしまった。おそらくたいしたダメージはあるまいと確信しての一撃だったが、あそこまで軽いとは思っていなかった。
(なにが達人だ。自信なくすわ)
黄は自嘲気味に笑う。自らそう名乗り始めたわけではなくとも、周りは黄を達人と呼ぶ。拳法家として、いち拳士として、自分が最強だなどと驕ったことはないが、修行を積んだある時点からは、勝てない相手に会ったこともまた、事実としてはなかった。
(いや、一人だけおるの。が、あれは数に入れなくて良かろう)
しかし、あの発勁でぐらつかせるのがせいぜいだとしたら、黄には太郎を倒しきる一撃がない。もちろん実際にやり合うとなれば、拳打だけが武器ではないし、負けないように戦う術はいくらもあるだろうが、しかしそれは勝負に勝つ道が見えているのとは違う。
(ううむ。まだまだ道ははるかに遠い。それがわかっただけでも良しとしようかの)
黄はこの先の修行のことを思った。
「じいちゃん! 風呂掃除終わったよ」
反町は黄に向かって声を上げた。
24時間風呂から湯がなくなってしまったので、いっそのこと湯船からすべての湯を抜き、掃除しておけと言われたのであった。太郎は「ぼくがやります」と言ったが黄が押しとどめ、さらに「圭吾には公園での詫びにちょうど良かろう」と言うので、太郎には帰ってもらって、反町がやることになった。
じゃあおれもこれで、と帰ろうとした芹田の足にしがみついて引き留め、反町はぶつぶつ文句を言われつつも掃除を手伝ってもらった。ただその際に、芹田に対して大きなニンジンをぶら下げたのである。
「マイケル、なんか忘れてない?」
「なんかってなんだ? おれが忘れてる? なにをだ」
ふふふと反町は意味ありげに笑う。
「マイケルさ、藤堂さんと約束させられたんじゃないのか? 昨日電話で言ってたろ」
「藤堂さんと……約束……ああっ?」
芹田の顔が青ざめる。
「ジムへ連れてこいって……言われてたんだった」
「ほらぁ、完全に忘れてた」
やっぱりね、と反町が良い笑顔で反町を見上げた。芹田は太郎の帰った方向を慌てて見やるが、太郎の姿などとうの昔に見えなくなっている。
「しまっ……てっぺん……穂村君の連絡先、訊いてねぇ……」
芹田が頭を抱える。
「さて、どうするマイケル。お・れ・は、太郎の連絡先を知ってるんだよねぇ。それとも、いまから太郎のこと追いかけてみるかな?」
「圭吾……てめぇってやつは……この……」
芹田がぎりぎりと歯がみして反町を見下ろした。
「ふっふっふ。さあ、マイケル。一緒に楽しく風呂掃除をしようじゃないか!」
反町の勝ち誇った顔に、芹田は屈して掃除を手伝ったのである。
そうして二人がかりの作業を終え、黄のところに向かった反町を、芹田が後ろから追いかけてくる。
「圭吾! 手伝ったぞ! さあ穂村君の連絡先、はやく教えやがれ!」
「えー? そんなの、太郎の許可なく勝手に教えることはできないよ」
「なん……っ! てめえ、話が違うじゃ」
「まあ慌てないで。いま電話するからさ、自分で訊きなよ」
カッとなった芹田に向かってすました顔でそう言うと、反町は携帯端末を取り出し、太郎へ電話をかけた。数コールで太郎が出る。
「あ、太郎? おれ、圭吾だよ。……うん、いや、大丈夫。忘れ物とかじゃない……ああ、マイケルにとっては忘れ物になるのかな? マイケルがちょっと話したいみたいなんで、電話代わるね」
そこで反町は、芹田に「はい」と携帯端末を押し付けた。いきなり手渡された芹田は「え? え?」と焦りながら受け取り、おっかなびっくりで端末を耳に当てる。
「あ、あの……。芹田っす。えっと……」
芹田がしどろもどろに太郎と話を始めたので、そちらを放置して反町は黄に訊いた。
「じいちゃん。どうだった? 太郎は」
「ふん」
黄は孫の反町をチラリと見て鼻を鳴らす。
「どうもこうもないわ。とんでもないのを連れてきよってからに」
「へっへー。でしょー?」
褒められたわけでもないのに、反町は鼻高々といった様子で笑う。
「はじめて太郎を見たときは、ほんとうに驚いたもんね。人間とは思えない、というかいまでも同じ人間という気がしないんだけど……あんな『気』を持っているのがいるなんて」
「うむ。量や強さもものすごいが……質がな」
「……変だったでしょ?」
「そうだの。あれは……我々の消化できない食べ物だな」
「そう! それだよじいちゃん、まさにそんな感じ。口にはできるんだけど、決して消化できないやつ。なんだっけ、砂糖の数十倍甘いけど、カロリーにならない甘味料とか、ああいう系統だよね。母ちゃんがダイエットのためって言って、よくコーヒーに入れたりしてるのと同じだ」
「ふん。甘くなければ飲めぬなら、はじめからコーヒーなど選ばなければよかろうに」
黄が反町の母親……つまり自分の娘の行動に呆れてまた鼻を鳴らした。
「それ、母ちゃんに言ってみた?」
「言えるかばかもの」
黄が唯一勝てないと確信できる相手。それは娘の
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