第41話

 どのくらいの時間、そうしていたのかわからない。

 黄は慌てなかった。なるべくゆっくりと変化を先導していた。しかし、呼吸を合わせるなど初めての経験であろうに、太郎はすぐその変化に追従し、ほぼ時間差なくまねて来る。この子にはいったい何度驚かされるのかと、黄は内心の興奮を抑えにくくなっていた。

 そろそろ頃合いか、と黄は考える。

 身体の中だけで変化をもたらしていた『気』を、すっと外へ広げていく。力みを含まず、薄く薄く膨らませ、皮膚を拡張する感覚で、身体から拡散する『気』が自分以外のものに触れていく。

 その中で、例えば反町。

 例えば芹田。

 例えば、板張りの床を通過したその下の、地面を這う虫たち。

 そうした生き物に触れると、拡散した自分の『気』と、相手の持つ『気』がぶつかり、反応する。そのとき、相手の『気』の形、質、大きさ、量、強さ。そうしたものが、拡散した『気』を通して伝わってくる。

 太郎は、おそらくもう何も考えていなかった。黄のやっていることに完全にシンクロして、その通りにトレースしているだけで、それは既に意識してやっていることではないだろうと感じていた。初めてでそこまで呼吸を合わせられることに空恐ろしさを覚えなくもなかったが、それにもまして黄は太郎の才に驚嘆していた。閉じていた目を開くような感覚に驚き、暗闇から明るい世界を知ったに等しい喜びを太郎が味わっていることを、黄も感じていた。太郎の感覚も、黄にまた少なからず影響を与えている。ただ、いまは黄が変化を主導していることで、太郎側に流されないでいられるのだ。

 最後に黄は、外界に広げきった『気』を収束させる。黄自身は、拡張したぶんの『気』についていきなり遮断しても特に問題はないのだが、太郎が合わせていることで穏やかに閉じるよう、普段より丁寧に変化の操作を終了させた。そうして太郎に触れていた手を離し、自身の目を開けたのだった。

 太郎はじっと座ったまま、動かなかった。まだ目を閉じていた。

 自分の中で、いま味わった感覚を咀嚼しているように見えた。やがて、薄く目を開け、頭を上げたのを見て、黄が尋ねる。

「……どうかね?」

「ああ……こういうこと、なんですね」

太郎の頬が紅潮していた。興奮しているのがわかる。

「一度感じがわかってしまえば、もう『気』を拡散してみなくとも、感じ取ることができるだろう?」

「……はい。わかります。圭吾君の『気』も、マイケル君の『気』も、それから……黄先生の『気』も」

黄は笑って頷いた。

「慣れてくれば、意識を向けた相手の『気』について、もっといろいろ感じ取れるものが増えてくるよ」

「はい」

上気した顔で、太郎が黄に向かって頭を下げた。

「ご指導、ありがとうございました」

「いやいや、こんなに進歩の早い弟子は、私も初めてだ」

今度の黄の笑いは、むしろ苦笑いに近かった。指導は指導だが、教えた意識はないに等しい。

 「ちょっと、いまの何!」

ずっと息を止めて見つめていた反町が、ぶはっと吐き出しながらいきなり叫んだ。

「そんなのあり? 太郎ってば、それ早すぎじゃない?」

「……何の話?」

太郎が面食らった顔で反町を見ている。

「おれが……おれが『気』を感じられるようになるまで、何年修行したと思ってるのさ? ずるいよ太郎。分単位で修得って、そりゃいくらなんでも早すぎだよー!」

「ばかもの」

黄が孫を窘める。太郎が内心、「うん、確かにずるい」と同意しているとはつゆ知らず。

「早い遅いではないわ。正しく使えなければ、いくら早くても何にもならん。身に付けるのにかけた時間ではない。身に付けたあとの使い方の問題だと、何度も教えておるだろう」

「そりゃそうだけど……」

反町は膨れっ面が戻らない。

「おれは……」

そのとき、反町の隣りにいた芹田がぼそりとつぶやいた。

「いまの黄先生とてっぺ……穂村君がやってたこと、なーんにもわかんないんすけど」

まさにどよんと沈んだ面持ちで、芹田はがっくりと首を落とす。

 それを見た反町ははっとしたように明るい表情になり、「じゃあマイケルもこれから一緒に修行しようぜ!」と言ったが、芹田本人と黄が同時に首を振った。

「おれには合わない気がする」

「マイケルには向いてないだろうの」

期せずして同じ意味のことを言った二人を見て、反町と太郎が揃って笑い出した。


 次に黄は太郎の求めに応じて、太極拳と八卦掌の連続した型の動きをトレースする、套路とうろをいくつかやって見せた。太極拳に関しては、中国のラジオ体操くらいのイメージしかなかった太郎に、メリハリの利いた拳法らしい動きがあることが単純に驚きであったし、八卦掌の円を描く独特の歩法は、これまで太郎が相手にした誰とも違うフットワークで興味深かった。反町にとっては見慣れたものだったが、芹田が黄の套路を間近でちゃんと見たのは実のところ初めてで、新鮮な思いで黄の演舞を眺めた。

 さらにそのあとは反町も道着に着替え、黄と反町による組手が披露された。二人で決められた動きを行う型組手、寸止めルールだが成り行き任せの自由組手、それぞれ一回ずつが行われ、さすがに自由組手では黄が少し本気を出すと、孫の反町はたちまち圧倒されて好きにやられてしまった。日頃、反町にまともに当てることができない芹田は、「フルコンだったらボッコボコだな、圭吾」と揶揄したが、それだけにこうも一方的に反町が圧されるとは、と黄の実力にいまさらながら舌を巻いていた。

 肩で息をして反町が悔しそうに下がると、黄は太郎を手招きした。

「さすがに組手とまでは行かないが、ちょっと動きを見せてあげよう。来なさい」

太郎を立たせ、右腕を前に突き出して上げさせた。そのうえで、向かい合った位置で肘から先あたりに黄自身の腕を交差させ、軽く触れた状態で立った。

「……じゃあ、この姿勢から好きに動いてみなさい」

「? はい」

太郎は、言われるままに腕を引いて後ろへ下がろうとした。すると、黄はまるでそうすることがわかっていたかのように、ぴったりと太郎の動きに付いてきた。そしてそのまま動きを止めず、腕を支点にして太郎の姿勢を崩しにかかる。黄はほとんど力を込めていないにもかかわらず、いったん動きを掴まれてしまうと、太郎は抵抗すればするほど黄に動きをコントロールされ、最後はきれいにころんと床に転がされてしまった。

「……わぁぁ」

天井を見上げたまま、太郎は数秒間放心した。

 もちろん、強引に黄の動きの制御下から逃げることはできた。スピードも力も、本気を出せば黄を軽く置き去りにできるだけの余力がある。しかし、いまの黄の動きは猛烈に太郎の興味を惹いたので、人外の力で抵抗するのがもったいなくて、抑えていた結果がこの有様である。

 決して、黄の思い通りの動きを強制させられたわけではない。黄は、常に太郎の動きのちょっと先がわかっていた、という印象であった。太郎が次にどうしようと考えているかを感じ取り、そこに少しの力で邪魔をすることによって、太郎のバランスをどんどんと崩していく。そうしてついに太郎自身が立っていられないほど姿勢が崩れてしまって、あとは太郎が勝手に転ぶしかなくなったのだった。

 むくり、と上半身を起こした太郎は、黄に尋ねる。

「いまのは……『気』の感覚の応用ですか?」

「左様」

黄が頷いた。

「相手の『気』を感じ取ることにより、次の一手を察知して、それに合わせた動きの中で、崩しを行うわけだな。一部でも身体が触れていると『気』を感じ取りやすいから、離れないように、なおかつ軽い動きで相手の動きの選択肢を奪う。熟練していくと、こういうやり方もある、ということだの」

「先読みということですか?」

「読んではおらんよ。読んで対応を頭で考えていたら間に合わん。感じ取り、それに合わせた動きが勝手にできるところまで鍛錬せんとな」

ふえ~、と太郎が気の抜けたような声を出した。


 聞いていた芹田が、まだ息の整わない状態で座り込んでいる反町を見やる。

(なるほど……圭吾に触られるとどうもやりにくいのは、きっとこれか。でもまだこっちが距離を取れば逃げ切れるところを見ると、圭吾はそこまで巧くはないってことなのか)

太郎が立ち上がると、黄は「では次で最後としよう」と言ってまた太郎を安定した姿勢に立たせた。

「気を練って構えなさい」

「はい」

黄の指示に太郎が応える。

「では、きみに向かって発勁を当てるよ。いまのきみなら、おそらく問題はないはずだ。圭吾にやられたときとの違いを感じ取ってみなさい」

そう言って、太郎の胸のあたりに手を添える。

 芹田の横で、「え?」という反町の声が上がる。

「いやじいちゃん、いくらなんでもそれ、無茶でしょ?」

「む? ……大丈夫だ」

「じいちゃんちょっと、いまの間はなに? ほんとにやんの? ねぇ!」

反町の声を無視して、黄が太郎の身体に発勁を打ち込んだのがわかった。

 一瞬だけ太郎の顔が強ばったものの、太郎はその位置から動かず、膝を突くこともしなかった。

「どうかね?」

「……大丈夫みたいです」

「うむ、こちらも手応えが全くなかった。私の勁力をきれいに散らして見せたな。見事な『気』の練り方だったよ」

「ありがとうございます」

反町が口をあんぐりと開けて二人を見ていた。

「そんなばかな……じいちゃん、手加減した?」

「しとらんよ? おまえにもやってみようか」

「ひえっ? おれ? ……いや、うん、いいよ。やってみて」

次は太郎の隣りに反町が立ち、呼吸を整えるまで待つと、同じように黄が発勁を打ち込んだ。とたんに後ろへ崩れるようにひっくり返る反町。太郎と芹田が唖然とした顔になる。

「げふっ! うぐぅぅぅぅっ……」

倒れたまま、反町は声も出せずにごろごろとのたうち回る。ようやく口がきけるまで回復すると、涙目で訴えた。

「いってぇ……じいちゃん、ひどいよ! 太郎より強くやったでしょ?」

「ばかもの、逆だ。穂村君のときの半分も『気』を入れとらん」

「マジ……? 信じらんないよ、いててて……」

「まったく……ほれ」

黄が反町に手を貸して立ち上がらせた。まだ反町は胸を押さえてつらそうだ。

「しっかり立たんか。みろ、穂村君を」

そう反町を叱咤する黄が、軽く握った手の甲で、トンと太郎の胸を叩く。すると今度は太郎が「うわっ?」と声を上げ、後ろへ仰け反りよろめいた。そのまま二、三歩下がってしまう。

「あ?」

「え?」

芹田と反町が何事かと太郎を見た。太郎も目を見開いて黄を見つめたが、すぐに何をされたか察したようだ。ちょっと恥ずかしそうに頭を掻く。

「いや。これはやられました……」

「ふふ。いやこっちこそやられたな。完全に虚を突いたつもりだったが。その程度で済んでしまうとはの」

苦笑いする太郎には、反町と違ってもうダメージの影響が見られない。

「え……じいちゃん、まさかいま、またやったの?」

反町がまだ残る自分の痛みも忘れたかのように、息をのんで黄に尋ねた。黄はちょっと人の悪そうな笑みを浮かべて言った。

「実際の真剣勝負では、さあここに打つぞ、と言ってそのとおりに打ってくれるような相手はおらん。間を外し、呼吸を盗み、虚実を織り交ぜて不意を突いてくる方が普通だ。来ると思っていなかったところで発勁を打ち込まれたら、それだけで負けが確定してしまいかねん。また勝負強いものほど、間を外す引き出しもたくさん持っているものだ。隙を見せれば、いまのように打ち込まれてしまうこともある。ただ実力で勝っていれば必ず勝負にも勝てるわけではないからの。少なくとも負けぬためには、臆病に徹しておくことだ」

「……はい、肝に銘じます」

太郎は深く黄に頭を下げた。が、その頭を上げるとき、なぜか微妙に呆けた顔になったのを、芹田は不思議な思いで眺めた。まさか太郎がふと「あれ? なんでぼくこの先も誰かと戦う前提で話をしてるの?」と我に返り、自己嫌悪に陥ったのだとは、察することができなかった。


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