第40話

 芹田は、目の前で何が起きているのか理解できなかった。

 太郎と二人、道場に隣接した八畳間の和室に通された。そこまではいい。なんでおまえまでここにいる? といった太郎の訝しげな視線は居心地悪かったものの、それもあとで説明すれば済む。しかしいま、芹田が見ているのは、座布団に座った太郎に向かって、黄と反町が畳に直に座り、手を突いて深々と頭を下げている光景だった。

 これは挨拶などではなく、土下座とまでは言わないが、あきらかに謝罪の形である。太郎が目を丸くして硬直し、その後に視線だけ動かして芹田を見る。なにこれ説明して、というその目に、芹田は「知らない、わからない」とぶんぶん首を横に振った。

「穂村君」

頭を下げたまま、黄が言った。

「この度は、うちの孫が大変なご迷惑をおかけして誠に申し訳なかった。保護者として監督不行き届き甚だしく、この通り、深く謝罪する」

黄の言葉は日本人とまったく区別の付かない流暢な日本語だ。よく聞けば、たまにイントネーションが少し変わっているか、と思える程度の違いしかない。

「ごめんなさい」

同じく頭を下げた反町も謝った。太郎は目をぱちくりしている。芹田は混乱しつつも考えていた。ということは、反町の青たんは、太郎に関わる何かをやらかしたことによるお仕置きということだろうか。いったい何をやらかした?

「あの……何を謝られているのかわからないんですが」

太郎が困惑をありありと示す表情のまま言った。

「どうか、頭をお上げください。……反町君、説明してもらえる?」

それでも二人はしばらくそのままの姿勢で動かなかったが、太郎が再度促すと、ようやく頭を上げて太郎を見た。そのとき、二人の目にそれぞれ、大きな驚きが宿ったのを芹田は見逃さなかった。それは黄をして、しばらく言葉を失わせるほどのものだったようだが、それでもややあって、黄は口を開いた。

「お気にされていないのはありがたいが……孫が発勁を使った件のことよ」

発勁? 芹田は驚きを隠せない。反町はそんな技が使えたのか。

「未熟な技を興味だけで振り回し、結果としてきみを大変な目に遭わせてしまった。それは拳法家として、この子の師として、とても許容できるものではない。きみがいま無事でいてくれて何よりではあるが、だからといってそれで済むといったことでもない。なにかお詫びにできることがあるなら言ってもらいたい」

 芹田の驚きが止まらない。太郎を大変な目に? まさか怪我をさせたとでもいうのだろうか。あの三宮をしてかすり傷さえ負わせられなかった太郎に、反町がもしや勝ってしまったとでも?

(このやろう、電話じゃぜんぜんそんな話をしなかったじゃないか)

自分と別れたあと、運動公園で太郎と再会したため、そこで太郎の『気』の特殊さについて話をして連絡先を交換、その後で今日の約束を取り付けた、と説明されただけである。発勁だの、太郎が被害を被っただのといったことは聞いていない。

 少し考える素振りを見せながら、太郎はちょっと黙っていたが、すぐに頷く。

「公園での件なら、もう反町君から謝罪は十分に受けています。それは済んだこととしてお考えいただければけっこうです。見たところ……」

と太郎は反町の青たんに目をやった。

「相応の罰も受けられたようですし」

ぶふぉっと芹田は吹き出しそうになり、それを見た反町が膨れっ面になった。

「それでも、とおっしゃるのであれば、今日は『気』について、いくらかご指導いただければ、それで」

「……それで、よいのかね?」

黄が尋ねた。

「はい」

太郎が再度頷くと、黄はまた頭を下げた。こんどは感謝の礼であった。

(うーん、てっぺんはすげぇな。喧嘩の強さだけじゃないのか)

芹田は感心して太郎を眺めた。同い年とは思えない堂々たるやりとり、話しっぷりである。そういえば、三宮と相対したときも、少しも怯まず言葉を交わしていたことを思い出す。きっと頭も良いのだろう、大人と対等に、同レベルの会話がちゃんと成り立っている。自分にはとてもマネできそうになかった。とりあえず、あとで「公園での発勁の件」について、よくよく反町を締め上げて聞き出さねば、と思った。


 黄が道着に着替えてくると言って座を外したあと、太郎が芹田の方を見て訊いた。

「……マイケル君は、今日はなんで?」

自宅では父親に合わせて椅子が普通なので、座布団に不慣れな芹田は、ちょうど足を崩したところに問われて「え?」と言ってその姿勢で固まる。そういえば、反町の誘いに興味津々でやっては来たものの、なぜとあらためて訊かれると、自分がここにいる理由は一言で説明するのが難しかった。

「えー、だってマイケルは友達だからだよ、なんかまずかった?」

答えに詰まる芹田を尻目に、反町は何でもないことのように言う。

「それよりさ、なんでマイケルは名前呼びなの? おれも圭吾にしてって言ったのに」

気にするところ、そっちか! と芹田は突っ込みたくなる。だが太郎は少しも動じず「だってぼくはマイケル君の名字を知らないから」と答えた。え、そうなの? と反町が目を丸くする。

「芹田っす」

「え」

「自分の名前。芹田マイケルっす」

芹田が答えたので、太郎はわかったと頷く。

「芹田君、ね」

「あの!」

「ん?」

「自分も、できればそのままマイケルでお願いしたいっす」

芹田はなんとなく勢いでそう言ってしまう。するとそれに便乗して反町が「はいはい! おれもおれも! ぜひとも圭吾って呼んでよ! ね?」と身を乗り出した。迫られた太郎は、名前呼びの要求に何か思うところでもあるのか、妙に複雑な表情をしたが、ふうっと息を吐いて言った。

「……わかったよ、圭吾君にマイケル君」

「いよっしゃ!」

反町はなぜかガッツポーズである。

「そのかわり」

太郎が芹田を見て言う。

「てっぺん、てのは無しで」

「いっ?」

芹田はびっくりして太郎を見返した。まさかてっぺんと呼ばれたくないと太郎が思っているなどと、まったく考えていなかったからだ。

「てっぺん……ダメっすか?」

「ダメ」

太郎の反応はにべもない。

「そんなぁ……」

芹田が情けない声を出した。だが太郎の表情は動かない。

「じゃあ、なんて呼ぼうか? 太郎でいいのかな」

屈託なく反町が割り込んだ。

「おれのことも、圭吾君じゃなくて圭吾って呼んでくれたら、おれも太郎って呼びやすいんだけど」

「それはきみたちの呼びたいように呼んでくれたらいいよ。ぼくは呼び捨てにする気はない」

「わかった、じゃあおれは太郎君……うーん、なんか据わりが悪いなぁ……太郎……太郎さん……これもいまいち、うーん。太郎ちん、太郎どん、太郎……ちゃん?」

瞬間、太郎の目が大きく見開かれ……ついでギロリと反町を睨み付けた。反町がびくっとして飛び上がる。

「うそうそ、ほんの冗談だって。やっぱりおれは太郎がいいな。マイケルはどうする?」

「お、おれか?」

急に話を振られ、芹田が慌てる。反町のようにすとんと相手に懐に飛び込む振る舞いは、自分にはとても無理だ。あの三宮をぶっ倒した太郎に、名前呼び……まして呼び捨てなど、到底できそうになかった。

「おれは……穂村さんで……」

「なにそれ」

反町が口を尖らせる。

「学年はタメなんだから、さん付けはないでしょ」

「いや、そこはほら、番格には序列ってのが重要だからな。自分より喧嘩の強い相手は、どうしても尊敬の対象っつーか……対等には話しにくいっつーか」

「いや、そうだとしてもさぁ。せめて、穂村君でいいんじゃない? ねぇ太郎」

「なんでもいいよ、ぼくは」

「じゃあ太郎ちゃ」

即座にギロリと太郎の視線が反町を刺す。反町は慌てて口をつぐんだ。見ていた芹田が、また吹き出す。

「なんだかな、じゃあおれは……穂村君にさせてもらうっす。いいっすか、それで」

「どうぞ、マイケル君」

ちょっと嬉しそうな芹田の表情に、反町がよしよしとばかり、にっと笑った。その笑顔を目にして、芹田がなんだよニヤニヤすんなと文句を言う。ちょうどそこへ、道着姿になった黄が戻ってきたため、そろって道場へ場所を移すこととなった。


 太郎は、道場の中を興味深く見回した。

(へぇ……こんな感じなのか)

道場は板敷きの部分と、コンクリート敷きの土間の部分に分かれていた。壁の一面には、木刀や棍、ヌンチャク、トンファーといった武器の数々も並べられている。

(あれは……三節棍だっけ。実物は初めて見るなぁ)

ぴかぴかの飾りではなく、どれもかなり使い込まれている印象だ。太郎は、前に見たカンフー映画を思い出した。記憶はうろ覚えであるが、いま見たらあの動きも再現できるだろうか。ほんとうの拳法ではなく映画向きな、見応え重視で外連味たっぷりのアクションだけなら、むしろすぐにできそうな気がした。

「さて、穂村君」

板の間で向かいに立った黄が、太郎に問いかける。

「はい」

「『気』について学びたい、ということだが……それは『気』を御したい、という意味でよいかの?」

太郎は頷いた。自分の『気』を他人に利用されない。まずはそれが肝心だと考えていた。ところが、黄はあごに手をやってうなり始めた。

「ううむ。どうしたものか。それ……もうできとるよ?」

「……え?」

思わぬ黄の指摘を受けて戸惑う太郎に、脇から反町が声をかける。

「ねえ。太郎はもともと何か修行でもしてたの?」

「……何でそう思うの?」

「いや、そりゃそうだよ。だって、おれがこの間見たときとは、ぜんぜん別人みたいなんだもん。前は大きくて強くて、量もものすごいのがただそこにあるだけで、ふわふわしてて何も意識されてなかったのに、いまはかちっとした服を着ているみたいにばっちりコントロールされている感じ」

ねえ? じいちゃん、と反町が黄に同意を求める。

「私はこの前というのを知らんからなんとも言えんが、圭吾の話を聞く限りでは、別人というのもあながち間違ってはおらんと思うよ」

黄は太郎をじっと見つめて言う。

「いまのきみの状態であれば、圭吾ごときに『気』の主導権を取られることはないだろうしの」

ごとき、と言われて反町が軽くしょげる。芹田は「いい気味だ」と言いたそうな表情だ。

「それほど、体内の『気』を練って御する技術が完成されておる。ここまでできる拳法家は、そう多くはおらんのではないか。だから座敷できみを見たとき、実に驚いたのだが……。これなら何も教えられるようなことは……うん?」

黄がふと首をひねった。

「穂村君。きみ、我々の『気』は見えておらんのか」

「え? あ、はい。それ、見える……んですか? ああ、そういえば圭吾君は、最初にぼくの『気』を見て声かけて来たんでしたっけ」

「そうだよ」

反町が頷いた。

「見えるっていうか、感じるっていうか、まあ正確な表現は難しいとこなんだけど。『気』のコントロールがそれだけできているなら、普通は周りの『気』も感じ取れるもんじゃないのかなぁ」

「そうなの?」

太郎にはその感覚がよくわからない。

 反町に喰らった発勁の感覚を頼りに、呼吸を媒介にして体内の『気』を感じ取ること、それを意識して制御することには成功した。何度も繰り返すうちに、普段から特段の意識をせずとも、『気』を制御下に保つこともできるくらいに慣れた。しかしそれだけだ。自分以外の人の『気』を感じ取ったことはなかった。そう説明すると、黄はううむ、とまた唸った。

「いやこれはなんとも……。驚いたな。そのレベルの『気』の練り方を独力で身につけてしまう、というのも驚きなら、その偏り方も、これは……」

反町もびっくりした表情を隠さない。

「ちょっと待って、太郎とこのまえ会ってから何日? えっと、四日くらいじゃない? それで、これだけの『気』のコントロールができるようになる? うっそだぁ。その前から何年も修行してたんじゃないの? あ、いやそうだとしたら、前のあの無防備さはおかしいよね。……え、じゃあほんとに四日で? すげー、太郎ってば拳法の超天才じゃない?」

話しているうちに、自身の言葉で興奮してきた反町は、まくし立てながら太郎にずいっと迫っていく。実のところ、太郎はここまで達するのに四日どころか二日かかっていなかったのだが、それは黙っておく方がよいだろうと思った。

「下がっとれ」

その反町を手で制し、黄はまじまじと太郎を見つめた。

「確かに、すさまじい。圭吾が興味を持ったのも、よくわかる」

 太郎はまたちょっと申し訳ない気になった。ごめんなさい、ぼくの才能じゃなくて、これはナノマシンのせいなんです、と言えたら気が楽になるのになぁ、と思う。

「ただ、偏りがある。ちょっといびつとも言える。できることがとんでもなく完成しているのに、全体としては欠けているものが多いわけか。……うん、これなら私が少しは役に立てそうだの」

そこで、黄は太郎を床に座らせた。

「正座でも、胡座でも構わんよ。リラックスできそうな座り方をしなさい」

太郎が言われたとおり胡座で座ると、黄が「後ろへ回るよ」といって太郎の背後に立った。

「ちょっと、呼吸を合わせてみようと思う。……なに、圭吾のように、きみの『気』を取り込もうなどと無茶なことはせんよ。それにどうも、きみの『気』の質はそもそも私たちが取り込めるものではなさそうだ。……まずは、『気』を練るイメージで深呼吸していてもらえるか」

「はい」

太郎は目を閉じ、深く息を吐いて『気』を練り始めた。ゆっくりゆっくりと、吐いて吸ってを繰り返していく。そのうちに、黄が太郎の首の下あたり、背骨に沿って手を添えた感触があった。

「手が触れているのはわかるね?」

太郎は頷く。

「では、触れている部分に意識を集中して……私の『気』も一緒に触れているのが、わかるかな?」

『気』を感じ取ることに集中してみる。すると、黄の手のひらに体温とは異なる熱を感じた。

「……わかったようだの。では、これから私がいろいろやって見せよう。私の『気』の御し方を、感じ取ろうとしてみてくれるかね。そして、できるようであれば、合わせてまねてみて欲しい」

太郎に、ふわりと意識が広がっていく感覚があった。

 触れている黄の手を介して、黄の身体のほうへ意識が繋がっていく。ただ、この意識は感じ取れるだけのものだ。反町のときとはたぶん起きていることが違う。『気』自体は、こちらから向こうへ流れてはいないし、黄の方からも何も入っては来ない。しかし黄の呼吸は、その『気』の動きは伝わってきている。

 黄は、自らの『気』を変化させ始めた。

 体内を巡らせる、集める、行き渡らせる。

 なじませる、薄める、強める、偏らせる。

 そうした準備運動のようなことをしばらく繰り返していくうち、太郎は知らず知らずに同じことを自分の『気』で行っていた。その様子を、反町は固唾をのんで見つめている。芹田には何もわからないので、黄と太郎が二人して目を瞑り、静かに深呼吸しているようにしか見えなかった。


 * * * * *


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