第39話
反町にまんまとバスケットボールの試合へ駆り出された三日後、芹田は久しぶりでジムに顔を出した。
誰もこれまでサボった理由を訊かなかった。ただただトレーナーたちから手荒い歓迎を受け、ブランクを埋めるように入れ替わり立ち替わりしごかれて、もう動けないとぶっ倒れたところへ、トレーナーの一人である藤堂がタオルを投げて寄越した。
「どうだ、動いたら少しは血の巡りがよくなったろう?」
息が上がってうまくしゃべれない芹田はぜえぜえ言いながら、のぞき込んできた藤堂へタオルの隙間から視線だけを返す。
「おまえはどう転んでも頭脳派じゃねーんだし、煮詰まったら引き籠もるんじゃなくて、むしろ積極的に動いた方がいいんだよ。そのほうがきっと物事はうまく回る」
「な……なに言ってんのか……わかんないっす」
そう答えるのが精一杯だ。
「わはは、さすが脳筋番長。まあよく来たなってことだよ! 三分休んだらもう一ラウンド行くぞぅ!」
「マジすか……死ぬ……」
「いーや、大丈夫だ、このジムではまだ死人は出たことねえから」
「おれを、一人目にする気ッすか……」
そのあとのトレーニングは何をどうやったのか、気づいたときには時間だけが経っていて、内容はまるごと芹田の記憶から失われていた。ようやくすべての練習を終えて、シャワー室からふらつきながら出てきた芹田に再び藤堂が声をかけた。
「マイケル、明日時間あるか?」
「え、明日もまさかコレっすか?」
しばらくサボった罰であるかのように、今日さんざんに身体をいじめ抜かれた芹田が、警戒心を隠すことなく訊いた。連続でこんな狂ったメニューを課されてはたまらない。
「いやまあ、来てもらってもおれはいいんだけどよ。こっちじゃない」
「……じゃない?」
藤堂が芹田に、にやりと笑いかける。
「圭吾からな、マイケルがちゃんとジムに顔出したら教えてやって、というんでな」
「圭吾が? なにを?」
ここで反町の名前が出てくる意味がわからなかった。
「黄先生の道場の方だよ。場所はわかんだろ?」
「いや知ってますけど……道場? おれが?」
黄は反町の祖父の拳法家だ。道場とは要するに反町の家のことであり、場所ももちろんわかっている。だが門下生でもない自分が道場に行く理由がわからない。
「なんかよ、ホムラ? とかいうべらぼうに喧嘩の強い子が、黄先生を訪ねてくることになってるみたいだぜ。おまえも知った顔らしいと聞いたが」
「なっ? ……えええっ!」
芹田は耳を疑った。てっぺんが? 反町のじーちゃんと? なんでだ? どんなつながりからそういう話になった? まるでわからない。
「なんだってそんなこと……」
「いや、おれもよく知らないよ。直接言えって言ったら、ジムに出てくる気になってなければ教えてやんない、と圭吾がな。よかったな、明日に間に合って」
「あのやろう……」
芹田は反町の、見かけだけは邪気のなさそうな笑顔を思い出して、拳を握りしめる。
「まあ、興味があるなら来て良いって言ってたぜ。伝えたからな。で、なんだ? どんなやつだ、そのホムラってのは」
「え、どんなやつって……。だからいま藤堂さん自分で言ってたじゃないすか。喧嘩の強いやつっすよ」
自分だってまだ会ったのは二回だけ。会話……と言えるほどのものかどうかはともかく、言葉を交わしたのは一度だけだ。どんなやつと言えるほど知っているわけではない。
「強い……おまえよりもか?」
藤堂が面白そうに芹田を見る。
「いや、おれなんかじゃとても。藤堂さんは、三宮さんって知ってます?」
芹田は地域最大の暴走族のチーム名を挙げて、その先代リーダーだと説明した。
「ああ、その名前は聞いたことあんな。なんか喧嘩無敗のカンバン背負ってるとかじゃなかったっけ」
「そう、その三宮さん。穂村って、三宮さんにワンパンで勝ってるんすよ」
「え?」
藤堂が目を瞠る。
「圭吾の話じゃ、確かホムラってのは同学年って言ってたけどな」
「そうっす、東部中の三年す」
「……それが、喧嘩無敗をワンパン……? 信じがたいな」
「まあ、そうなんすけどね。事実っすよ。おれ、目の前で見ちゃったし」
「え、マジか。見たのかおまえが。うーん、なら事実なんだな。無敗にカンバン下ろさせたってわけか。いや確かに、そりゃすげえやつがいたもんだ」
あれをワンパンと表現するのはちょっと微妙かもなと芹田は思ったが、それ自体は大きな問題ではない。一撃で三宮を蹴散らす力がある、そこが重要なのだ。このジムのトレーニングのその先に、あれだけのことができる世界が広がるとは、いまも芹田には考えられない。しかしじっと動かずに考えているよりは、藤堂の言うとおり、身体を動かしていろいろもがいてみる方が、自分には合っているのだろう。いまだに答えが出たわけではないが、家に籠もっていたときよりはよほど気分がすっきりしている。
(圭吾の思うツボって感じで、気に入らねーけどな)
明日か。これも、話を聞けば必ず来るだろう、という圭吾の読みにそのまま乗ることになって癪であるが、てっぺんと黄俊宏の顔合わせ……見逃すわけにはいかない。行くしかない。
「くぅ~。なんかおれもそれ、一緒に行きたくなってきた」
「へ?」
藤堂が思わぬ興味を示すのに驚いて、思いにふけっていた芹田は我に返る。
「でも明日か、明日はダメだなぁ、うーん。……なあマイケル、すぐにとは言わねーが、そのホムラっての、ここに連れてこれねーか?」
「えええっ?」
「なあ、いいだろ。おれも見てみてーよ、その喧嘩の強い中学生。な?」
な? ではない。だいたい連れてくるも何も、相変わらず芹田は太郎の連絡先さえ知らないのだ。そう思ったときに気づく。え? では反町は? この間会ったばかりの太郎の連絡先を知っているのか。いつ知った? どうやって? これまたわからないことが増えてしまった。
「そう言われたって、おれ別にダチってわけじゃ……向こうの連絡先も知らないんすよ?」
「そんなの、明日会うんだから訊きゃいーじゃねーか」
それはそうだが。いやそういう問題なのか、これは。
「……じゃあ、訊くだけ訊いてみるっすけどね。OKもらえるかまでは責任持てないっすから」
「いやあ、おれはマイケルを信じてるぞ」
「ちょ、プレッシャー?」
マイケルはげんなりして逃げるようにジムをあとにした。太郎が果たしてキックボクシングのジムなぞに来たがるか? 美少女アイドルでも待っているというのならまだしも、そこにいるのは汗臭いおっさん……いやお兄さんだ。バリバリ現役の日本ランカーが待ち構えていると知って、なお行くと言ってもらえるか? そんな何されるかわからないところへ、自分の頼みで同行してくれる気などまったくしない。明日は楽しみだが、この余計な宿題は重荷が過ぎる。いやその前に、まずは反町を問い詰める必要があるだろう。芹田は携帯端末を取り出して、幼馴染に電話をかけた。
明けて翌日。
芹田は久しぶりに反町の家を訪ねた。小学生のころは三日にあげず行き来した時期もあったが、中学に入ったあたりから頻度が下がり、三年生になってからでは初めてかもしれない。
敷地に入ると見慣れた玄関から横へ逸れて、道場の入り口へ回る。中国拳法の道場なのに、相変わらず造りも雰囲気も純和風で、空手か剣道の道場のように見える。黄はとにかくこだわりのない性格で、日本に来たのだから日本の道場スタイルでよかろう、と言って建てたものらしい。そもそも台湾にそのままいれば、とっくに大人と呼ばれて世間の尊敬を集める立場を確立できていたろうに、かわいがっていた一人娘と離れて暮らすのが嫌という理由で、あっさり日本に移住を決めてしまった人である。ちなみに奥さんは、割と若いうちに亡くなってしまったらしい。なので、弟子はたくさんいたが、家族としては二人きりであったという。
(黄先生……会うのは半年ぶりくらい、か?)
黄は自分の呼び方にもまったく頓着していない。反町と話すときなら「おまえのじーちゃん」で済むが、黄本人に相対したらどう呼べば良いのかわからなかった芹田は、反町に以前訊いたことがあった。
「中国拳法の師匠っていうと、師父とか老師とか言えばいいのか?」
「さあ? どうなのかな」
普段、一番身近なはずの反町の返答は、あやふやではっきりしない。
「何だその、どうなのかなってのは」
「だってじいちゃん、好きに呼べって言って、なんと呼ばれても返事しちゃうからさ。お弟子さんはみな、自分の呼びたいように呼んでるよ? 先生とか師匠とか、ああ、確かに老師って言ってる人もいたな」
「ええ? いいのかそれで」
「じいちゃんが構わんって言ってんだから、いいんじゃないかなぁ。相手が師としての敬意を払ってくれているかそうでないかは、見りゃわかるんだってさ。ならどう呼ばれても別にいいんだって」
「そんなもんか」
「そんなものでしょ」
そういうわけで、芹田は黄を先生と呼んでいた。芹田自身が指導を受けたわけではないが、何も習っていなくともそう言いたくなる雰囲気が、黄にはあったのだ。
道場の入り口には、呼び鈴もインターフォンもない。芹田は引き戸をガラッと開けて反町を呼んだ。
「圭吾、いるか!」
すぐに廊下をとんとんと歩く音がして、反町が現れる。
「お、来たねマイケル」
「来たね、じゃねーよまったく……っておわ! おまえ、何だその顔?」
姿を見せた反町の顔、左目の周りにきれいな輪っかの形の痣ができていた。内出血のあと、いわゆる青たんというやつであった。
「あ、そうか、まだ消えてなかったな」
へへ、と反町がちょっと恥ずかしそうに笑った。
「おまえ、それ、誰に……」
やられた、と訊こうとして、芹田は首をひねる。この男の顔面に、これだけきれいにパンチを叩き込めるやつがいるというのか? 中学生とはいえ、相手の攻撃を躱す、いなすことにおいては相当な実力者である。それに、油断していると思って不意を突こうとしても、なぜか察知されてしまう相手だ。よほどのラッキーパンチでもなければ、まずまともに当てることは難しいだろう。黄であれば狙って当てられると思うが、小さな頃からの付き合いで、孫の反町をぶん殴るような叱り方をしたのは見たことがない。ということは。
「おまえ、まさかてっぺんに殴られ……やり合ったのか? てっぺんと?」
「てっぺん? ああ、穂村君に? いや違うよ、穂村君じゃない、これは……」
「私がやった」
足音も立てずに、反町のすぐ後ろに黄俊成が来ていた。
「うわ、じいちゃんいつの間に?」
「黄先生!」
声を聞くまで、まったく気配を感じられなかった。反町より黄のほうがやや小柄だが、だからといって隠れて見えなくなるような差ではない。芹田は感嘆の目で黄を見る。が、次には黄の意外な言葉に驚いて思わず訊いた。孫を殴った? この人が?
「え、黄先生が殴った……んすか? 圭吾を?」
「そうだ」
黄は頷く。反町は面目なさそうな顔で芹田を見ていた。
「圭吾の軽率なのはいまに始まったことではないが、今回ばかりは、さすがに許しがたい愚行をしよったんでな。ちっと自分を抑えかねて、つい本気で手を出してしまった。まあ私もまだまだ目指す境地は遠い、未熟ということだ。とはいえ、反省はしておるが、後悔はしとらんぞ?」
ちらりと反町の方に目を向ける。反町はさっと祖父の視線を避けるように顔を背けた。なにをやったんだ、この男は。芹田には、黄が孫を思わず殴ってしまうほどの愚行というのが思い浮かばない。
「よく来たマイケル、久しぶりだな」
目元を緩め、黄が芹田を見る。
「む、また少し大きくなったかの」
大柄な芹田だが、まだ身長は伸び続けている。半年ほども会っていなければ、前に見たときよりは大きくなったと感じられるだろう。
「うーん? そうすかね、二センチは変わってないと思うんすけど」
芹田の反応に、黄がいやいやと笑って首を振る。
「そっちの大きさではないわ。最近、内面で吹っ切れるような経験があった。そうだろう?」
「え……」
芹田は唖然とした。わかるのか、この人には自分の中の変化が。
「あ、それおれ! きっとおれのおかげだからね、じいちゃん!」
すぐさま反町が、自分を指差しながら主張する。いやそれはそうかもしれないが、と芹田は呆れた。
「おまえは……すぐ調子に乗りすぎだと何度言ったら……」
黄が処置無しとばかりに、自分の額に手を当てた。
そのときである。
「あの……」
今度は芹田の後ろから声がかかった。
「黄俊成さんの拳法道場というのは、こちらでしょうか?」
そこに、太郎が立っていた。
* * * * *
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週に1話ずつ更新します。
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