第38話
ことりが、顔を洗ってくると言って入った公園内のお手洗いから戻ってきた。
まだ泣き腫らした目は赤かったが、涙の跡はきれいになっていた。太郎は預かっていたバッグを手渡す。
「ありがとう」
タオルで顔を恥ずかしげに押さえたことりが、バッグを受け取って担ぐ。
「……まいったなぁ」
「何が?」
ことりのつぶやきに太郎が反応した。
「また太郎ちゃんに泣いたとこ見られちゃった……恥ずかしいよ」
「え? またって?」
え? とことりがびっくりしたように太郎を見る。
「だってほら、前に亜佳音ちゃんのうちで……」
「そうだっけ?」
すました顔で太郎は答えた。
「そのときの記憶は完全に消したので、ぼくが世羅さんの泣いてるとこ見ちゃったのは今日が初めてだよ?」
「あっ……!」
そういえば、太郎に忘れて! と叫んだのはことり自身であったのを思い出したのだろう、タオルの下の顔がさらに赤くなった。
「……いじわる」
「ええっ?」
言われたとおりにしているのに意地悪呼ばわりとはこれ如何に? 太郎は目を白黒させる。
二人並んで帰り道を行きながら、ことりはあまりしゃべらなかった。
いろいろな感情がごちゃごちゃになっていて、整理が付かなかったためだ。
負けて悔しい。部活動が終わってしまって寂しい。もっともっとバスケがしたかった。県大会も行ってみたかった。いちばん大きな思いはそこだが、でもいま隣りに太郎がいる。これは単純に嬉しかった。
太郎がなかなかに無理をして「応援に行く」と言ってくれたことはわかっていた。そういうキャラクターではないのに、合わない類いの約束を、思いがけず向こうから言い出してくれた。だからありがたく受け取ったし、実際に来てもらって、ものすごく力をもらえたと思う。その太郎に応える意味でも、やっぱり勝ちたかった。勝って優勝するところを見てもらいたかった。でもそれは叶わなかった。不甲斐なかった。そういう気持ちがぐるぐると堂々巡りをしている。
試合が終わったとき、仲間たちが先に泣き崩れてしまったことで、ことり自身はむしろ冷静になれた。まずは主将としての務めを果たすべきと、動けないチームメートを鼓舞して回った。そのまま閉会式に進み、さらになんだかいろいろ抱え込んで大変そうな運営委員の手伝いを申し出たら、荷物の運び出しやら何やらが思ったよりもかかって、結局チームのみんなと反省会をするはずが、それはまた明日にして先に帰ってもらうことになった。
やれやれ、ぐだぐだでなんとも締まらない終わり方だなぁ、と思ってやっと解放されたところに、太郎がいてくれたのだ。こんなサプライズがあるなら、負けもそう悪くないと一瞬思ってしまったほどだ。しかし、おかげで気持ちが解放されすぎた。主将として抑えたはずの悔しさ、悲しさ、寂しさが全部あふれて涙になり、止まらなくなってしまったのだった。まさか太郎に寄りかかって泣くことになるなんてと、いま思い出しても顔の火照りが治まらない。
泣いている間、太郎は何も言わなかった。それがことりには却ってありがたかった。ただ支えてくれたことが嬉しい。できれば、太郎がその手を自分の肩とか頭に回して、ぎゅっとしてくれてもいいんだけどな、と思ったが、さすがにそれは高望みとわかっていたし、もしほんとうにそんなことをされたら、またどこかが破裂してひっくり返ることになったかもしれない。
歩き始めてすぐに、ことりが太郎に尋ねた。
「太郎ちゃんは、ここまでバス?」
「あ、うん。バスで。……世羅さんは?」
「あ、わたしもバス。じゃあまずはターミナルね」
そのあと二人は無言のまま、中央バスターミナルを目指して歩いて行く。そこから東部中校区方面行きのバスに乗るのである。路線はいくつかあるので、そう長く待つことはないだろう。今日の大会に、ことりは自転車とバス、どちらで来ようかかなり迷ったのだが、試合後に疲れてしまうことを懸念して、結局バスにした。いま、その選択は大正解だったと思っている。バスに乗れば二人きりではないし、バスから降りたら、それぞれの家への分かれ道はすぐだ。バスターミナルまでの道が、このままずっと続けばいいのになぁと思いながら、ことりは歩いた。
(それにしても……まだ「世羅さん」かあ)
ことりにはひとつ、太郎への大きな不満があった。
太郎たちは夏休みだが、この日は世間的には平日であり、通勤客などでバスは相応に混んでいた。一緒のバスに乗ったとは言うものの、太郎とことりは座ることもできず、特段の会話もなく、傍から見ていたらまったく関係のない中学生同士と見られてもおかしくない状況だった。
バスから降りて、ようやく二人はまた並んで歩いたが、やはり会話は弾まない。ことりの口数はごく少ないままで、太郎から積極的に話をすることもなかった。あと一ブロックほども歩けば、次の交差点がお互いの家への分岐点である。
太郎は隣りのことりをそっと見やる。しゃべらないことりというのはきわめて珍しい。その表情は、ちょっと心ここにあらず、といった感じにも受け取れた。
(疲れてるって言ってたもんな。いや疲れてないわけがないよな)
大丈夫かな、と太郎が思ったその瞬間、「きゃっ」と言ってことりがよろめいた。足下が乱れる。道路の小さな段差に気がつかなかったようだ。太郎が素早く支えて、バランスを戻してあげた。その際、ことりの身体に直接触れないようにバッグ越しに支えたのだが、ことりの「ありがとう」と言った顔にはなぜか不服の色が見えた。
(ん? この程度で手を貸したら悪かったかな?)
なにかプライドを傷つけてしまっただろうか? と太郎は心配になる。
「平気?」
そう口にすると、ことりはうーんと唸った。
「そうね、今日はほんとにいろいろあったから、ちょっとしんどかったかも」
ただし、いろいろの中身については、太郎とことりでやや認識が異なりそうではある。
「世羅さん、頑張ったからね」
太郎の言葉に、ことりはふと立ち止まり、太郎の方に顔を向けて訊いた。
「そう思う? わたし、頑張ったかな?」
「もちろん」
太郎は力強く頷いた。
「……じゃあ、頑張ったわたしにご褒美をください。太郎ちゃんから」
にこっと笑ってことりが言い出す。太郎はことりの要求に虚を突かれて、思わず相手を見返した。
「ご、ご褒美?」
「うん」
ことりが頷く。
「……ダメ?」
そんなふうに小首を傾げて訊いたら反則だろう、と太郎は思う。この状況でダメと断われるやつがいるだろうか。身長の関係で太郎がことりから見下ろされているので、配置的には威圧感までプラスされている気になる。
「えっと……はい」
答えながら、今月のお小遣い、あとどれだけ残っていたかな、と太郎はとっさに記憶を探る。女子の欲しがるご褒美になるプレゼントって、いくらくらいあれば買えるのだろう? いや、この場でこの言い方ってことは、何でも良いといった話ではなく、きっともう欲しいものは決まっているのに違いない。
「あの……もしかして、何かリクエストがあったり?」
「うん」
ことりの即答。うわあ、やっぱり。これ追い詰められたよ、と太郎は思う。
「……えっとね。それ、ぼくがあげられるようなもの?」
太郎のお小遣いは、世の中学生の平均よりきっと多くはない。
「大丈夫だと思うけどなぁ」
「それは……何でしょうか?」
答えを聞いてしまったら、叶えないわけにはいかなくなる。そう思ったが、訊かないのも難しかった。しかしことりの欲しいご褒美は、太郎の思いもよらないものだった。
「それじゃ言うね。……あのね、二人のときは、名前で呼んで欲しいの」
「名前……って。……えええっ!」
それはつまり、太郎にことりのことをことりと呼べと、そう言っているのか。太郎は絶句する。
「そういうご褒美、どうかしら?」
「いや、あの、えっと」
それがご褒美? なんでご褒美? と太郎は混乱した。そんなの無理、と答えたかった。せめて苦し紛れに質問してみる。
「あの……お、おおとりさん、とかでは?」
「却下。認めません」
だろうな、とは思った。ほんの冗談なので、笑顔で拳を固めるのは止めて欲しい。だが、名前……それは厳しい。実に厳しい。
「さ。くださいな、ご褒美」
「うぁ……」
ずいっと笑顔のことりが迫る。太郎は後退る。冷や汗がにじんできた。目線が泳いで、まともにことりの顔が見られない。
「ささ。どうぞ、言ってみて?」
「……こ」
「こ?」
「ことり……さん」
蚊の鳴くような、小さな小さな声ではあったが、初めて太郎がことりに向かって名前呼びした瞬間である。しかし、ことりはさらに追撃の手を緩めなかった。
「さん、は抜きで」
うわぁぁっと、太郎は危うく悲鳴を上げそうになる。いや無理、それは絶対に無理だ。そう思ってふるふると首を振った。
「ことりさんで……何とか手を打っていただけません、か?」
「ふむ……」
ことりは太郎の追い込まれた表情を眺めて考える。そしてにっこり笑った。
「いいわ、じゃあ、さん付けは許容範囲と言うことで」
「……恐縮です」
「どういたしまして」
ふうぅぅぅっと、太郎は大きく息を吐いた。反町の発勁を受けたときよりも、いまのほうがよほどピンチであったような気がした。
「太郎ちゃん」
「は、はいっ?」
ことりに呼ばれると、びくっとして背筋が伸びてしまう。
「わたしと二人のときは、いまみたいに名前呼びにしてね? 戻しちゃ嫌だよ?」
「わかったよ……ことりさん」
「よし」
うふふと満足げに笑うことりを見て、まあこのくらいで勘弁してもらえるのなら、と太郎は胸をなで下ろす。何より、試合の無念を少しでも紛らわせてくれたなら、それが一番嬉しい。そう思うことにした。
「じゃあ、ここでお別れね。今日は来てくれて、ほんとに嬉しかった。ありがとう、太郎ちゃん。バイバイ」
「うん、じゃあね、せ……ことりさん」
危ない、もう少しでことりのほっぺたが膨れるところであった。太郎は手を振ってことりと別れ、歩き出す。家まであとわずか。既にお腹はぺこぺこだった。
ことりがあまりに上機嫌で帰宅したので、家族はみな試合で念願の優勝を遂げたのだと勘違いした。うっかり県大会出場のお祝いをされそうになり、慌ててことりは決勝で負けた試合結果を伝えたのだが、それはそれで、家族を大いに困惑させ、また混乱もさせた。
「……あんなにご機嫌だなんて、どういうことかしらね?」
「ものすごい気合い入れて出かけたのに、あの姉ちゃんが負けても落ち込んでないなんて」
「……やりきった、と言う満足感なのかなぁ」
「いやいや、そんな性格じゃないでしょ、姉ちゃんは」
「なんか悔しさのあまり、一周回っておかしくなっちゃったとか?」
「おい、よしてくれ。そんな不吉な」
「そういうの、あとでおれにいちばんとばっちり来るんだけど」
「……耐えて」
「母さん?」
試合の汗を流しに浴室へと消えたことりを見送り、家族は答えの出ない議論を繰り返すのだった。
夕食後、太郎は自室で今日の反町の話を振り返っていた。
(ぼくの『気』か……)
いくつかの武道で、呼吸による『気』の鍛錬は重要な項目である。しかし、それを明確に技術として認識するとなると、やはり筆頭は中国拳法ということになろう。ネットで該当しそうな情報を検索してはみたものの、単に文章や動画を見ただけで理解できるようなものは見つからなかった。身体の中の話である。見えるようにしろという方が難しい。
(ちょっと実際にやってみるか)
いきなり座禅は、形から入るにしてもなんだか飛ばしすぎという気がしたので、ひとまず胡座で床に座り、目を閉じてみる。腹式呼吸はできる。ゆっくりゆっくり息を吐いて、またゆっくりと吸う。それを繰り返し、今日反町から受けた力の波紋のイメージを思い出す。身体の中にあるはずのエネルギーを感じ取ろうと努める。ほどなくして、変化が訪れた。
(……あ。なんかわかったかも)
武術では体内に力を溜める中心として、もっとも普遍的にイメージされる部位である。そこに意識を集めると、集めた意識に吸い寄せられるような感覚で、臍の下あたりに熱を感じ取ることができた。やはり、今日実際に発勁を自身の身体で受けたことが大きい。理解はまだ足りないが、感覚は覚えている。
中心に集めた熱を、今度は身体の中にすみずみまでゆっくりと広げていくイメージを作る。熱が全体に行き渡り、次にはそれをなじませるイメージを思い浮かべた。満ちていく感じ。全身の活力が増してきたことを自覚できた。もともと人間離れした力とスピードのある太郎だが、この呼吸法により、さらに何段階かのパワーアップが可能になり得ると感じられた。
こんなやり方で正しいのかな? と疑問には思ったが、今日受けた発勁の感覚は間違いなく再現できている。いまの熱を行き渡らせなじませる感覚。これが『気』を練ることだとすると、発勁の攻撃は、この熱が体内を爆発的に暴れ回る感じである。いま全身に『気』を巡らせたこの状態であれば、おそらく反町にコントロールされないよう自分の『気』を守ることも、反町から放たれた発勁を弾き返すこともできそうだ。感覚的には掴んだと思った。これが自分にも、発勁として放出が可能なものなのかどうかはわからない。でも、なんとなくできそうな気はしていた。
とりあえず息を吐ききって、『気』のコントロールをいったん終了させる。
いまの一サイクルを終えるまでに、数分かかっていた。邪魔が入らない、集中できる状態で数分だ。これでは反町ではないが、相手のいる格闘では未熟すぎて役に立たない。動きの中であっても『気』を練ることができるようにならなければ、実戦で使えないだろう。
(よし、じゃあもう一度……)
ちょっと楽しくなってしまい、太郎の『気』の鍛錬は、母親が「いい加減にお風呂入っちゃってよ!」と階下から呼ぶまで続いた。
* * * * *
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