第18話
人間の皮膚には、四種類のセンサーがあるとされる。
接触を感じる圧点。
痛みを感じる痛点。
熱さを感じる温点。
冷たさを感じる冷点。
この四つである。これらが皮膚に分布していることにより、身体に対する接触や、付近にあるものの温度などを感じ取ることができるのだ。指先などの敏感な部位には高密度に、背中のような部位には比較的少ない数で点在している。
二本の針を皮膚に当てたとき、それが二本あると認識できる距離を分解能というが、センサーがより集中している身体の部位では、分解能が高い。つまり、短い距離でも二本は二本ときちんと認識することができる。逆に分解能が低い部位では、わずかに離れた二本の針を、一本しかないと間違えてしまうことがある。そのために、手のひらに書かれた文字は目で見ずとも判別しやすいが、背中に書かれた文字は認識しづらく、間違えやすいのである。
温度に関しては、熱の伝わり方でもっとも影響の大きいのは接触伝熱であるため、触っているものの温度を感じ取りやすいのはもちろんだが、気体や液体など流動するもので伝わる対流伝熱、さらに赤外線など熱エネルギーを運ぶ電波で伝わる輻射伝熱も、皮膚には感じ取る機能がある。ひなたぼっこが温かいとわかるのは、伝熱の形態によらず感じ取る機能のためだ。
ただ、普通の人間であれば、熱源のある方向はわかっても、その形や距離などはわからない。まして動いているかいないかなど、瞬時に判別できるものではない。
(なんかアレだな。蛇になった気分)
蛇には通常の目のほかに、第三の目として赤外線を感知できる感覚器がある。付いている部位は種類によって異なるが、たいていは顔にあってピット器官と呼ばれており、これにより獲物の体温を感知できる。温度を測るためのサーモカメラで撮っている映像のような世界を、目以外の感覚器で捉えているとされる。
目が見えていたときには、視覚からの情報量が多すぎて気が付かなかったのだろう。目を閉じた太郎が意識を集中すると、相当な精度で周辺の様子を把握することができた。前後ろ関係なく、である。
(え、ぼくってもしかして、全身にピット器官装備?)
なんだかますます人外度を増してきたと思い、太郎はげんなりした。
目潰しが決まったときには、これで勝ったと思った。
城崎はここぞとばかりに、攻め手の威力重視でラッシュをかけたが、この小さなバケモノは目を瞑ったままで、いままでと同じように回避を続けた。
(見えなくても避けるだと?)
武道の達人に、そうしたことができるものがいると話に聞いたことはあるが、実際に見たことはない。避けるにしてもせいぜいが素人相手の話で、武道経験者との真剣勝負の場でできるなどと信じたことはなかった。いったいどこまで人間離れしたら気が済むのか。
と、太郎がどこかむすっとした表情で目を開けた。
(なんだ? 目潰しにかかったフリをしていやがったか!)
なめやがって、とカッとしかけたが、見えずとも避けられるというよりは納得できる。むしろそれで誘いをかけられたと解釈すべきだろう。ただ、相変わらず向こうは手を出してこないので、太郎の狙いはわからない。こいつはいったい何がしたかったのか。
ひとをなめきったこのガキに、なんとしても一発食らわせてやりたい。城崎はその一心で攻めた。しかし当たらない。触れることさえままならない。あらゆる手を尽くした。それでも届かない。どうすればいい?
「くそっ! 当たれよこの野郎が!」
するとそのとき、やぶれかぶれに放った右の正拳が、奇跡を起こした。右手にチリッと感じた、接触の感覚。太郎のこめかみに、わずかに城崎の拳がかすったのだ。
「あ、当たった?」
間違いなかった。この攻防が始まってから初めて、城崎の手が太郎に触れたのである。太郎の目が驚きに見開かれる。
(よし!)
勢いづいた城崎は右手を引きざまに、踏み込みつつ全力で左の前蹴りを叩き込んだ。肉を打つ鈍い音とともに、今度は相手にかするだけではなく、始めてまともに蹴りが入った。
(なんだ?)
太郎は唐突に身体が重くなったことに仰天した。
目や耳に異常はない。相変わらず、相手の動きはすべて見えている。しかし、身体はいきなり動かなくなってしまった。いまや太郎のスピードは完全に失われ、せいぜいが外見にふさわしい、中学生相応の動きしかできない。パワーも同様だ。コンクリート壁を打ち抜く、あの人間離れした力は、頑丈さは、あっさり太郎の肉体から消え去っていた。つまりは暴力のプロである城崎にまるでおよばない動きとなり、一気に立場が逆転した。結果、避けたつもりのパンチがわずかに頭の横をかすめていく。
努力で身につけたものではない、理由もわからず突然得た力は、得たときと同じように、いきなり消え去ることもある。そう危惧したのは自分自身であったはずだ。にもかかわらず、すっかりその力に安住し、依存して、リスクへの対応を怠った。できるときに、とっとと勝負を決めておくべきだった。
(……慢心だ)
動揺が顔に出てしまったに違いない。城崎は逆に目をギラつかせ、前蹴りでたたみかけてきた。
(このままだと、ぼく殺されるんじゃ……?)
一瞬、太郎は恐怖に支配されかけた。
(死ぬ……?)
身体が硬直し、冷や汗が吹き出てくる。
なぜこんな命のやりとりに等しい格闘をしているのか。自分はそんなことができる人間ではなかっただろう。今更ながらにそんな考えが浮かび、太郎はパニックに陥りそうになった。
相手の蹴りにガードが間に合ったのは、もはや偶然に近い。いまの太郎にとっては戦慄すべき破壊力を秘めた城崎の足裏を、交差した両手で辛うじて包むように受け、同時に自分から後ろへ飛ぶ。しかしこうなると、太郎の身体は軽すぎた。派手に吹っ飛ばされ、着地こそ転ばなかったものの、たたらを踏んでようやく止まる。受けた両手がじんじんと痺れていた。
その痛みに、太郎はふと正気を取り戻す。
(動いてる……ぼくの身体……?)
いまの受けは考えてやったものではなかった。どうやら身につけた技までなくなったわけではないようだ。以前の喧嘩一つしたことのない、鈍くささの塊のようだった太郎とは違う。わずかな機会とはいえ、自分の身に降りかかるなどと考えたこともなかった喧嘩上手たちとの対戦や、勉強するつもりで見てきた格闘技術は、さいわいまだ身体が覚えている。
(それに、相手の動きはちゃんと見えてる。大丈夫、しのげる!)
絶対の勝ちはなくなった。しかし、対抗手段がすべて失われたわけではない。武器は残っているのだ。恐怖で身がすくんでしまえば負けは確定する。太郎は懸命に自分を奮い立たせた。思い出せ、この人たちが亜佳音をさらったことを。目の前の男が、ことりに振るった暴力を。
逃がすか! と叫びながら、鬼気迫る表情の城崎が、吹き飛んだ太郎を追ってくる。裂帛の気合いとともに、再び正拳が太郎の顔めがけて飛んできた。正直、いまは相手が恐ろしかった。当たれば死んでもおかしくない。だが静かな怒りの感情が、恐怖に打ち勝った。
(いっっけぇぇぇっ!)
避けられるスピードはない。受け止められるパワーもない。それならどうするか。太郎は両腕をクロスし、下から城崎の腕をかち上げて逸らした。見えていたからなし得た、ぎりぎりもぎりぎりのタイミングである。一瞬でも遅れたら顔面に拳が埋まり、陥没していただろう。そうして全身を腕の下に潜り込ませると、前へ踏み込んで、城崎の下腹部に向かって前蹴りを放ったのだった。
ズン。
鈍い衝撃が、城崎の股間を襲った。
「ふぐぅぅぅっ?」
城崎は完全に不意を突かれた。激痛が頭のてっぺんまで突き抜ける。
(金的……だとぉっ?)
急に動きが鈍って拳が届くようになった太郎に、嬉々として、ひらすら一撃をぶち込むことだけに集中していた。始まってからずっと受け一辺倒であったため、太郎から攻撃してくる可能性を、すっかり失念していたのだった。しかも、まさかなりふり構わぬ金的狙いで来るなど、考えもしなかった。
「こ……の、ガキィ……」
しかし、その油断の代償は大きすぎた。城崎は完全に動きを止めてしまう。
すると、そこへ太郎がさらに城崎の懐へ入り込み、右腕を捕まれる。
(く? なんだ? こ、この態勢は……まずい!)
相手の意図がわかったときには遅かった。城崎の身体はふわりと宙に浮き、高橋のときと同じような美しい弧を描いて落下した。一本背負いである。
「がっはぁっ!」
高橋のときとは違う、いっさい手抜きのない投げであった。受け身を取れないままコンクリートの床へまともに落とされ、城崎は動けなくなった。あまりの痛みに意識は残したが、もはや立ち上がることはできそうにない。
しかしそのとき城崎は、手の先に何か硬いものが触れたことに気がついた。
太郎は必死だった。
多少技や動きを覚えたとはいえ、いまの自分の状態で、この誘拐犯に勝てるチャンスはほとんどないとわかっていた。既にスピードを失ったのは覚られている。このうえ、相手がさらに太郎の状態を正しく把握する前に、なんとしても勝負を決めなくてはならなかった。だから、やりたくないなとは思いつつも、城崎から学んだ金的狙いの蹴りを、城崎本人に使ったのだ。
そして、カウンターで入ったとしても、自分の蹴りのパワーでは一発で相手をノックアウトするには足りない。軽い自分の打撃ではきっと決めきれない。蹴りはあくまで隙を作る前座であり、本命はそのあとの投げなのだ。蹴りが下腹部に入ってうまく城崎の動きを止めることができたため、ほぼ理想の形で投げを打つことに成功した。ただし、今度は相手のダメージを慮る余裕などまるでなかった。ただただ懸命に投げきるだけで精一杯であった。それでも、スピードは先の大男のときとは比べものにならないほど低下してしまっており、どちらのダメージが大きいのかは太郎にもわからない。
地面に倒れた誘拐犯の空手使いが動かなくなったのを見て取り、太郎はようやく深く安堵の息を吐いた。安心感に、ついふらふらと二、三歩よろけてしまう。疲れもあったが、それより空腹のひどさに倒れそうで、近くの鉄骨柱に寄りかかって、やっと身体を支えた。
(なんとか……勝てた……)
ちょっとでもタイミングがずれていたら。あるいはここで決められずに長引いてしまったら。結果は逆になっていたかもしれない。
思い返せば、三宮との勝負のあとにも、こんな状態があった気がする。ただあのときはもう自宅にもどっていて、あとはごはんを食べるだけであったので、身体が重いのもただの疲れだとばかり思っていたのだ。まさかスピードもパワーも失われた状態であったとは考えもしなかった。
(つまり、いまのぼくはエネルギー切れってことなのか?)
ごはんを食べればまた超人的な力が戻ってくるのだろうか? 太郎にはわからなかったが、そもそも自分の得た力がどんなものなのかの正体知れ知れないのだ。空腹の度を超すと超人から並み以下の人間に成り下がる、ということくらいあっても不思議ではない。
ともあれ、いまはそんなことをじっくりと考えているときではなかった。さて、ではどうやって警察に来てもらうのがいいかな、と太郎が次の行動を考え始めたそのときである。
(? え、なに?)
ものすごい悪寒が背筋を通り過ぎた。
太郎がぱっと見たのは、倒れている偽ケーキ屋であった。その手に、先ほど男が地面に置いた拳銃が握られていた。それに気づいた直後には、既に引き金が引かれていたのだった。
(あ……)
銃弾は見えていた。だから、真っ直ぐ自分の頭に向かって飛んできているのがはっきりとわかった。
(ああ……当たるな、これ)
いまの太郎にはなすすべがない。普通の人間には、発射された弾丸を避けたり、手で掴んだりはできないのだ。たーん、という音とともに、太郎の頭部にピストルの弾が命中した。
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