第17話

 柔道で行ってみよう。

 太郎はそう決めていた。動画で学んだおおよその中身に、たったいま自分の身で受けた技の数々。それは既に太郎の中で昇華され、自身の技として十分に使えるレベルで修得されていた。いま覚えたものを、使ってみたくてたまらなかった。

 すり足気味に踏み込んで距離を詰める。完全に懐へ入り込むと、そこは太郎の間合いだった。大柄なぶん、高橋の腕のほうがかなり長いため、折り畳んだ姿勢では十分な対処が難しい。そして、それ以前に対処の時間など与えはしない。

(さて、どれをやってみようかな?)

太郎は嬉しそうに高橋の襟を掴みにかかった。


 高橋から見たら、瞬きしている間に太郎が目の前に瞬間移動してきた感覚だ。軽量級のオリンピックチャンピオンと稽古をしたこともあったが、ここまでのスピードはなかった。

 太郎の身長が高橋よりずっと低いので、奥襟には手が届かない。しかしあっという間に前襟と腕をつかまれ、力業で体軸をずらされる。逆らおうとしても、技で抵抗できる範疇を超えていた。

(こんなに力の差があるのか!)

これでは軽いほうがどちらなのかわからない。単純に力でこれほど圧倒されたことは初めてだった。崩された、と思った瞬間、襟から手が離れ、今度は右腕を捕まれた。そして時間が停まる。

(うおぁ?)

身体が浮く感覚。視界の上下が反転する。まるでそうなるのが自然であるほどになめらかな回転運動へ、全身が乗っかっていく。すべての音が消えていた。無限にも思えた刹那の時間の末、高橋の身体は地面に叩きつけられた。

 一本! と高らかな声が聞こえた気がした。

 この自分が受け身を取る暇すらもらえなかった。こんなにも鮮やかに投げられたのは、いつ以来であったろうか。柔道を始めたばかりの頃、決して大きいとはいえない体格の道場師範代に、初めて投げられたときの感覚がよみがえる。柔よく剛を制す、という言葉を身体で思い知ったそのとき、投げられたショックよりも、猛烈な感動に身を震わせたものだった。ああ、あのときの自分は、もっと……。

 すさまじい落下の衝撃が全身を襲い、高橋は気を失った。


 「……バカな」

城崎は目の前の光景が信じられなかった。

(高橋が、投げられて負けた……だと?)

空手有段者の自分でも、搦手なしに真っ向勝負で高橋に勝てる自信はなかった。まして柔道となったら勝負にならない。高橋の柔道は本物だ。舎弟にしてから数年、高橋が投げ飛ばされるところなどいちどだって見たことがない。しかも、相手はこんな体格で劣る子どもである。わざと投げられるにしても簡単ではないだろう。

 おかしいのは、このガキがはじめ、まったく柔道の素人に見えたことだ。それまでの体捌きを見るに、何らかの格闘技の経験くらいはありそうだったが、それでも技術というよりスピードと力で勝負している印象が強かった。その動きに柔道の要素はほとんど感じられず、よくこれで高橋の攻めをしのいでいるものだ、と思って見ていた。なぜ自分の使える分野ではなく、あえて柔道の勝負に付き合っているように見えるのか、不思議でならなかったのだ。

 それが、いちど投げられかけたあたりから、急速に動きが柔道らしさを見せ始めた。そして最後、勝負を決めた一本背負いの見事さたるや、まさに一流のキレ……。高段位の柔道家でなければ出せない熟練の技であった。

 と、そこで城崎は恐ろしいことに気づいた。いまの一本背負い、どこかで見たことがあると思ったら。

(高橋の一本背負いじゃねえか!)

大柄な選手としては珍しく、高橋は一本背負いが好きでよく用いていた。さすがに柔道の現役時代には、重量級では使いづらく、さらに実力の拮抗した同士でなかなか決まるような技ではなかったようだが、なんでも初心者の頃に思い入れがあったためだという。怪我のない程度に加減して、元森をぶん投げさせる遊びはしばしばやらせたことがあり、高橋がいちばんよく使ったのはこの一本背負いだった。派手に悲鳴を上げながら投げ飛ばされる姿が滑稽で、時々いうことを聞かない元森への懲らしめに、ちょうどよい余興であったのだ。そのとき見た高橋の癖、形、リズムそのままに、ただスピードだけが恐ろしく速くなっていた。それをこんなガキが目の前で披露したのだ。

 なぜか?

 つまりこのガキが、たったいまそれを覚えたから、ではないのか。柔道の素人が、このわずかな高橋との格闘のなかで、やつの一本背負いを、高位の有段者レベルの技を習得した、ということを意味してはいないか。

(ありえん!)

自分で思いついていながら、城崎はまさかと首を振った。そんなことができるわけがない。しかしいま、自分が見たものは、ただの一本背負いではない、まさに高橋の一本背負いのコピーであった。それどころか、このガキは最後に投げっぱなしではなく、腕を残して一瞬引き上げていた。その瞬間を城崎は間違いなく見た。落下の衝撃を緩和し、高橋が頭をコンクリートで打たないように加減してのけたのだ。

(ただ技を使えるだけじゃねぇ、使いこなしていやがる!)

どうやったら、こんな子どもがここまでのバケモノになるのか。いったいこいつはなんなんだ。城崎は全身から噴き出る嫌な汗を感じながら、身体の震えを止められなかった。


 太郎は高橋が失神しているのを確認すると、掴んでいた手を離した。頭はぶつけていないはずだ。

誘拐犯の一味なのだから、いい人であるわけがないのに、太郎はたったいま投げ飛ばした大男に、悪い印象を持てなかった。痛めつけろと言われていたにもかかわらず、はじめはずいぶん遠慮がちだったし、途中から本気になってくれたとは思うが、まるで試合でもしているかのようで、素人泣かせの反則めいた行為や、柔道以外の技も使ってはこなかった。仮になりふり構わずいろいろされたところで、結果が変わることはなかったと思うが、それでもきわめて正々堂々と、勝負しにきていたのだ。どういう経緯でこんな犯罪行為に関わることになったのかは知らない。けれど、この大男は少なくとも柔道に対して、ほんとうに真摯な男であったのだろうと思った。

(おかげで、ぞんぶんに柔道を味わえた)

満足です、と太郎が高橋に感謝の気持ちを感じていると、「おい」と声をかけられた。顔を上げると、城崎が銃を構えてこちらに向けているところだった。やっぱり落ちていた銃を拾っていったのはこの人だったか、と太郎は城崎に向き直った。

「おまえ……ほんとに人間か?」

城崎の問いに、太郎はちょっとだけ答えに迷った。

「ええっと、人間以外に見えます?」

質問に質問を返すのは、会話として良いマナーではない、と聞いたことがあった気がするが、この先誘拐犯と仲良くするつもりもない。案の定、太郎の返事に、城崎の機嫌は悪い方向へ傾いたようだ。

「そうとしか見えねぇから訊いてる! だが人間が……たかだか数分で柔道の有段者になれてたまるか」

へぇ。この人、さっきまでの自分には柔道の経験がなかったことを見抜いたのか。太郎は少し相手を見直した。

「まあ、あなたに信じてもらう必要はないです」

自分自身だって、ほんとうに人間なのか自信が持てないのだから。太郎が城崎に向かって一歩進む。そろそろ空腹が酷くなってきた。早く決着をつけてしまいたい。牽制するように、城崎が銃を構え直した。

「……撃ってもいいですけど、ぼくには無駄ですよ?」

知っているでしょう、との意味を言外に含め、太郎は言った。ここなら弾丸を掴むようなマネをしなくとも、ただ避けるだけですむ。仮に当たったところで、どうと言うことはないのも体験済みだ。

「けっ!」

このバケモンが、と吐き捨てた城崎は、銃を地面に置くと、ゆっくりと構えを取った。見たところ、どうやらこの人は、空手を使うらしい。

「来いよ、ガキ」

口の悪い人だなぁと思いながら、太郎は空手を味わうために、間合いを詰めた。


 受けに回るのかと思われた城崎は、自分の距離になったとたん、積極的に手を出し始める。

(くそっ、こんな薄気味悪いガキに先手を取らせてたまるか!)

要は恐怖が先行して動かずにいられなかったということだが、いざ始まってしまえば、暴力沙汰に慣れた身体はいつもどおりに動く。ちゃんとした空手の稽古など長いことしていないが、逆に実戦はひっきりなしに行ってきた。空手の組み手とは違う、より合理的に、より冷徹に、より手段を選ばず相手を制圧し、屈服させる暴力行為を繰り返してきたのだ。

 まずは三本指の目突きで牽制し、次いで金的を蹴り上げに行く。躱されて喉に抜き手、これも当たらず普通に後ろ回し蹴りから地面すれすれの水面蹴りにつなげて転ばせようとするが、ことごとく空を切った。そもそもカタギの子どもを相手に、はじめの急所狙いで仕留め終わっていないことが計算外である。これで相手が向かってきてくれるなら、踏み込んだ軸足の膝を砕く蹴りや、さらに距離を詰めて相手の鼻への頭突きなどもよく使ってきたのだが、今回はどうも勝手が違った。相手に戦意のあることは明らかなのに、ひたすら回避しかしないのだ。そのため、交差法でカウンターを取ることはもちろん、髪を掴んで引き回すとか、耳を千切るとか、口に指を突っ込み頬を裂くといった、接触が前提の小技も使えない。

 勝負を捨てて逃げようとする相手ならわかるが、この場に留まる意思を示しながら、なぜ攻撃をしてこないのか、城崎には太郎の意図が理解できなかった。まさか太郎が、この場を楽しんでいるなどと、想像もつかなかったのである。


 (わー! この人の技、きったなーい!)

思わずそう胸の内で叫びながら、いままでの相手とはまったく系統の異なる攻め口に、太郎は興奮を抑えられなかった。

(いきなり目突きから股間蹴るの? うーん、こういうのもありなのか!)

技自体は、突きも蹴りもちゃんとした空手有段者のものなのだろう。しかし狙うところが逐一えげつなかった。さっきから、いわゆる試合であれば反則にならない技のほうが少ないくらいである。いま躱した手刀も、当たれば耳を削ぎに来る軌道だ。踏み込んできた足はただ間合いを詰めるだけではなく、太郎の足を踏みつけにかかってくる。避けるのは造作もなかったが、もし踏まれたらこれで太郎の動きを止めてから殴ろうというのだろう。

(こういうふうに使われると、たしかに怖い技ばっかりだなぁ)

急所狙い専門とか、殺す気でやっているとかいうのともちょっと違う。相手から戦意を奪う攻撃とでもいうのか。中途半端な覚悟の相手なら、決まればどうあれ戦い続けられなくなる、そんな一撃を立て続けに繰り出してくるのだ。

 いつもながらの太郎の空腹もそろそろ限界に来ており、早く勝負を決めてしまうべきだ、ということはわかっていたが、どうしても興味が勝ってしまった。次はどこを狙ってくるのか、まだほかにあるのか、もっと見たい、もっと知りたいという思いが、ついつい受けに徹して、決着を引き延ばしてしまったのである。それがすぐあとに、自分の運命の重要な分岐点になるとも気がつかず。


 城崎が床から集めた砂埃をひとつかみ、投げつけてきた。

(なるほど、目潰しだったのか!)

動きながら、ときどき不自然に地面を触っているところは見えていたので、実は不意打ちになっていなかったが、何をしようとしているのかまではわかっていなかった。太郎にとっては、そういう意味の行動だったのか、と答え合わせをしてもらった感覚であった。飛んでくる砂を避けようと思えば難なくできたのに、つい悪乗りして目を瞑ってしまった。眼鏡と顔の隙間を通って、砂粒が当たるのを感じた。ところが口のほうをうっかり閉じ忘れて、ちょっと入ってきてしまう。

(うえっ!)

ペッとつばを吐いているうちに、城崎が迫ってきた。目に砂埃は入っていないのですぐ開けられる。しかし実際のところ、城崎の手足が身体に触れてから回避を始めても、まだ太郎のほうが早いため、あえて目は閉じたまま待った。

 頼りは耳だけとなる。城崎はどうやら、回し蹴りで側頭部を狙ってきているようだった。これまでの鬱憤をすべて晴らそうとするかのような、渾身の蹴りだ。それでも迫ってくる音が聞こえるということは。

(あたりまえか、蹴り足が音速を超えるわけじゃないものな)

マンガの世界にはマッハを超えるパンチが何種類もあるが、普通の人間の肉体では不可能だ。技が音より速くないのなら、技の風を切る音が先に耳へと届く理屈である。当たってあげるのはいやだったので、頭を下げて蹴りを避けた。

「ちっ!」

城崎の舌打ちが聞こえ、今度は下腹部に向かって後ろ回し蹴りが飛んでくる。これも後方へ下がって回避。追撃は……これは正拳? ずいぶんと真っ当な。スピード重視で来たのかな? そんなことを考えつつ、目を閉じたまま避け続けるうちに、ふと妙なことに気がついた。

(音……だけじゃない?)

音から得られる情報も、やけに立体的で、周辺の情報が三次元的に把握されていた。潜水艦のパッシブソナーといった機能に近いのだろう。だが、それだけではない。全身の皮膚が、なにか身の回りに対するセンサーの役割を果たしている。空気の流れを捉えている? それもあるようだったが、まだ説明がつかない。もっと何かあるのだ。見なくても、触れなくても、はっきりとではないが、何がどのくらいの距離にあるのか、動いているのか止っているのかわかる。近いもののほうが情報量が多く、イメージが明解だ。そして、よくわかるのは偽ケーキ屋、倒れている大男、それから停まっているクルマ。これは……?

(温度だ!)

周辺で、温度の高いものから伝わる情報が際立って多い。つまり、赤外線である。

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