第16話

 世羅家の門前には、ピザの配達っぽい原付と、ケーキ屋っぽい軽ワゴンが置いてあった。なるほど、これで配達と誤認させたわけか、と太郎は感心した。敷地の裏手に回り込むように道を選びながら、自転車を走らせつつ意識を耳に集中させる。

 裏口の周りに、既にクルマは見当たらない。しかし、エンジン音は覚えていた。かすかに聞こえたクルマが走り去る音を頼りに、太郎はまたも逃げた誘拐犯を追い始めた。ロードレーサーは快調に走り、まもなく太郎は逃げていくクルマを見つけ出す。今度のはハッチバックの白いコンパクトカーであった。同じクルマが世間にたくさん出ている人気車種だったが、同じ車種でもすべての音が完全に一致はしない。追うべきクルマは目の前のこの一台であるという確信が、太郎にはあった。

 前回の運転手は世羅家でのびているので、今度は違う相手のはずである。あの大柄な男か、それとも偽のケーキ屋か。あるいはもっと別の仲間がいたりするのか。前の追跡時の、住宅街でここまで踏むかという、気が狂ったかのように飛ばしていた運転とは違い、スピードは出しているが異常な逃走ではない。追いつくのもずっと楽だった。

 だが太郎は、どうやら相手がただ逃げているのではない、ということに気がつく。

(おや? もしかしてぼく、誘い込まれている?)

なんとなくだが、太郎の追跡がわかっていて、付いてくるのを前提に行き先を選んでいる気がする。そもそも前回は相手がなかば暴走した状態であったため、たまたま起こした事故で止まってもらうことができた。今度の運転は、そうした偶然を期待できる感じがない。どこかで止まってくれないと、追跡が終わらない。

 そうして行き着いた先は。

「また……ここ?」

この前、三宮に呼び出された紡績工場跡だった。太郎は嘆息した。


 助手席に座る城崎は、まだ痛む手首をさすりながら、運転席の高橋に行き先を指示していた。

「次は右だ。いや慌てなくていいぞ」

苦手というほどではないが、大型二種免許まで持っていた元森に比べて器用さに欠ける高橋の運転は、決してうまくはない。またも事故で止まってしまうなどという成り行きはごめんだった。

 世羅家から逃げ出したとき、ほんとうなら子どもを連れ出してくるはずだった城崎が、元森もおいて一人で現れたことに、高橋は驚いた顔をしていた。

「失敗した。逃げるぞ、出せ」

「え、いやでも元森さんは……」

「うるさい。やつはもう捕まった」

「ええ! た、助けないと」

「無理だ、あきらめろ!」

あんな、銃で撃たれても平気なバケモノ相手に、気絶した元森を回収してくるなど不可能だ。城崎は外したエプロンを投げつけながら、高橋に向かってすぐにクルマを出すよう怒鳴りつけた。

「いいから行け!」

ためらいつつもアクセルを踏む高橋は、まだ未練げにバックミラーをチラチラと見ていた。と、しばらくしてその視線がミラーに釘付けとなる。

「おい、どうした? ちゃんと前を見ろ」

「……城崎さん、自転車です」

「なに?」

まさかまたママチャリか? と城崎が振り返る。

「あいつか」

太郎が今度はロードレーサーで追いかけてきていた。

「くそっ!」

どこまで邪魔すれば気が済むのか。城崎自身は、前に追われたときに太郎の顔をちゃんと見たわけではない。しかし元森の慌てぶり、「自転車の」という言葉から、太郎が前回の追跡者と同一人物であることは、もはや疑っていなかった。あの馬鹿げた握力といい、あんなのが何人もいてもらっては困る。しかし、まさか市長の家に入り込んでいたとは、まったく予想できなかった。もしや市長がボディガードにでも雇っているのか? あんな子どもを? いやまて、子どもに見えるだけで、実はそうではないのかもしれない。あれはあくまで相手の油断を誘うための仕掛けであるのか?

 ただでさえ、ママチャリでクルマより速く走るやつである。ロードレーサーの太郎を振り切ることはできないだろう。このままアジトへ向かうわけには行かなくなった。どこかでやつをなんとかしなければならない。そうして城崎が決めた目的地が、人気のなさそうな古い工場跡地だったのである。

 開いたままの大型扉から、がらんとして何もなくなった大きな建屋のひとつにクルマを入れ、城崎はここで停めろと高橋に命じた。高橋は言われるままに停車する。


 すぐあとから、太郎の乗る自転車が同じ建屋に入ってきた。クルマが停まったのを見て、太郎も自転車を降りる。それからロードレーサーにはスタンドがないことに気がついて、最寄りの太い鉄骨柱へ自転車を立てかけた。

 城崎は高橋もクルマから降りるよう促すと、助手席のドアを開けた。ぽつんと立ち尽くす太郎を睨みながらゆっくりと外へ出る。相手はどうみても、小柄で弱そうな少年である。強者の雰囲気などかけらも感じられない。だが警戒すべき力の持ち主であり、そのギャップが城崎を戸惑わせる。

「おい……。おまえ、何モンだ?」

尻ポケット側に隠した拳銃の感触を確認しながら、城崎は太郎に話しかけた。

「ぼく? うーん……ただの、中学生?」

「ふざけんな!」

太郎の答えに、城崎はかっとなって言った。

「ただの中学生に、二度もおれの計画を邪魔されてたまるか!」

「計画……小さい子どもを誘拐する犯罪がですか」

「うるさい。ありゃ市長が悪いのさ。あんな下らねぇ条例をあきらめねぇからだ」

「条例……?」

太郎には話が見えない。

「とにかく、おまえが邪魔しなければ、おれは依頼をきっちりこなして、いまごろマカオあたりでお楽しみだったんだよ。どうしてくれんだ、ええ?」

依頼……誘拐を頼んだ人物が、まだ裏にいるということか。太郎は考える。

「……誰に頼まれたんですか?」

「言うと思うか?」

「でしょうね。まあぼくが知る必要はないです。警察でちゃんとお話ししてもらえればそれで」

「けっ! ガキが知ったふうな口を。……いちおう訊いとくが、ここでおれたちを見逃す気はねぇか?」

この人たちは、亜佳音を泣かせた。そして、ことりにまでも暴力を振るった。ここで逃がせば、きっとまた害を為しに来るだろう。見逃せる相手ではないし、それならそもそも追ってきたりもしない。

「ないです。おとなしく捕まってください」

「そうかよ。おい、高橋!」

クルマの外には出たものの、ぼーっと二人の会話を聞いていた高橋がびくっとして城崎を見た。

「あのガキに思い知らせてやれ。大人をなめると酷い目に遭うんだぜってな」

指名された高橋は、困った顔で太郎と城崎へ交互に目をやる。

「城崎さん、だって相手は子どもで……」

「ただの子どもじゃねぇ。ママチャリでクルマより速く走り、元森を一蹴りでノックアウトするやつだ。握力もとんでもねぇ、そいつはバケモンだぞ。外見に騙されんな」

そして、銃で撃たれても平気かもしれねぇやつだ、とこれは胸の内でつぶやく。さすがにそこまで言っては、現場を見ていない高橋には、逆に作り話を疑われる可能性があった。ただ、もしこいつが弱っちそうな容姿を装った隠し球のボディガードだとするなら、シャツの下に防弾着を仕込んでいてもおかしくない。まあ、そんな目立たず高機能の防弾着があるなどと聞いたことはないが、中学生がピストルの弾に耐えたというよりは現実的だろう。いずれにせよ、こいつの胴体に銃を撃ってもおそらく無駄だということは、意識しておく方が良さそうだ。

(撃つなら頭、だな)

そうせずに済むといいがな、とも城崎は考える。

 撃つ以上はどこを狙おうが殺す覚悟で撃つことになるが、こと頭となれば、致命傷になる確率がきわめて高い。即死しない程度に怪我だけさせるといった手加減はまずできない。いくら正体のわからないバケモノだといっても、外見が子どもである相手を殺すつもりで撃つのはさすがに気が引けた。

「いいからやれ! 痛めつけろ!」

城崎はまだためらう高橋に、重ねて命じた。高橋は唇を引き結び、ようやく太郎に向かって歩を進める。

「いっとくが、そいつは柔道でオリンピック強化選手に選ばれたこともある実力者だ。まあ覚悟するんだな」

「へぇ、柔道」

体重差も致命的だ。階級でいうなら高橋は最重量級、太郎のほうは、最軽量級よりまだ軽いだろう。普通なら秒で決着が付く。相手の大きさに怯えるかと思った太郎は……顔に喜色を浮かべていた。城崎はますます混乱した。なんなんだ? このガキは。


 柔道家が相手と聞いて、太郎は興味を強くした。

 三宮との喧嘩のあと、太郎なりに思うところはあって、いろいろと格闘技の勉強をしてみた。とくに防御面で、まったくといっていいほど技術のない自覚があり、避ける、守る、防ぐといった動作に関心があったためだ。といっても実際に習いに行くようなことをしたわけではなく、ネットにある動画を片端から見たり、本屋で解説書を立ち読みした程度である。

 攻める技はまだなんとかなるが、独学の場合、防御を覚えることが難しい。相手がいてこそ練習になり、身に付くものだからだ。それでも太郎の身体は、直接に相対すればもちろんのこと、理屈が理解でき、動きを目にした技術についてなら、見ただけでほとんどを習得できるとわかった。ボクシングやキック、相撲など、裸で戦う競技は、とくに筋肉の動きを直接見ることができるため、非常に勉強になった。逆にわかりにくいのが着衣の格闘技で、なかでも打撃のない柔道は、見ただけではピンとこない動きが多かったのである。それをいまこの場で体験できるかもしれない。太郎は期待に胸を膨らませる。

 体格差がありすぎるためだろう、表情にいまだ困惑の色の濃い高橋が、太郎に掴みかかる。太郎から見れば、すべて容易に躱して逃げることが可能なスピードだったが、今回はあえてそのまま捕まってみた。相手が触れてくれなければ、柔道にならないためだ。高橋は右手で太郎のシャツの奥襟をがっしりと掴んだ。体格で劣る以上、相手に好きなところを掴ませたら終わりも同然である。本来なら、この時点でもう勝負は決したといってよかった。


 太郎に受け身が取れるとは思えず、しかも床はコンクリート。せめて頭は打たないように投げよう、と高橋は相手の重心を崩しにかかった。と、そこで動きが止まる。

(む、なんだ?)

太郎はほぼ何もせず、ただ両足を踏ん張って突っ立ったままである。しかしその身体はびくともせず、まったく動かせなかった。高橋は一瞬だけ迷いを見せたが、すぐに思い直して、再び投げを打つ。が、やはり太郎は動かない。足の位置がはじめから一歩も変わっていない。感触は、大地に根を張る大木であった。外見に騙されるな。そう言った城崎の言葉が、高橋の中で意味を持つ。なるほど、たしかに見た目どおりのひ弱な少年ではないようだ。しかし。

 ならばと高橋は攻め方を変え、自分の重心を落とすと、太郎の腕を掴み身体を上に向かって軽々と引っこ抜いた。

「うひゃ!」

思わず太郎が声を上げる。悲鳴のようにも、喜んでいるようにも聞こえた。力負けはしていなくとも、体重の差は如何ともしがたい。持ち上げられてしまえば、足の踏ん張りようがなかった。太郎の身体は宙を舞い、きれいな弧を描いて地面へと落下する。

「よっと」

そこで太郎は体をくるりと反転させ、足から着地した。


 (この受け身は見たんだよね)

いささか外連味の強い種類の動画であったが、ちょっと見栄えのするアクション受け身として公開されたものがあったのだ。身体が高く上がることによって、むしろ動きは自由になる。持ち上げすぎず、そのまま体を乗せて素早く落とされた方が受け身は取りづらかっただろう。相手に一発で致命傷を与える気概が高橋にあれば、また展開は違ったのかもしれないが、太郎にしてみれば、どれほど素早く攻められたところで、技が始まってから対処しても結局間に合ってしまうのだ。まして殺気に欠けた投げでは、単なる受け身の練習にしかならなかった。

(なるほどなー。攻め方っていろいろあるんだな。面白いや)

外山とも三宮とも、強さの質はぜんぜん違う。しかしどっちが強いのかといったら、あの二人よりも、この人はきっとうんと強いのだろう。太郎はわくわくしながら、次の攻め手を待った。


 (……驚いた。これはバケモノ)

まさか自分の投げに余裕で耐えるとは。驚きはしたが、それで動きが止まってしまうほど高橋の格闘歴は浅くない。これまでにも、高橋が戦った相手には、見かけに反した実力者が大勢いたし、自分以上の強者を相手取ったことも数え切れない。その中で培った攻め手を次々と繰り出した。

 ところが、続けざまに投げを打ってみても、どうしても体を崩せない。相手に踏ん張られてしまうと押しても引いても動かせないし、足をかけに行けば鉄骨を蹴っているようで、自分の足のほうがどうにかなってしまいそうだ。上から体重で潰しにいっても、この華奢な身体でどうしてと思える頑丈さにまったく歯が立たない。一度はうまく行った持ち上げる攻めも、既に動きに合わせて重心を落とされ、対応されるようになってしまった。それならと関節を極めようとすると、驚いたことに可動域を伸ばしきる前に、単純な力技で動きを抑えられてしまう。では締め落とすか? 決まれば数秒で意識を失わせることができるが、その数秒を許してくれる相手と思えなかった。さすがに攻めあぐねて、高橋はいったん距離を取る。

「……もう終わり?」

目の前のバケモノが、いっそ無邪気な顔で尋ねてきた。高橋の背筋にゾクッと電流が走る。

「じゃあ、こっちから行きますね」

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