第15話

 「太郎ちゃん?」

亜佳音が怪訝な顔で、本を離した太郎を振り仰ぐ。

「……亜佳音ちゃん、ちょっとごめんね。お兄ちゃん、ことりお姉ちゃんのお手伝いに行ってくる」

「亜佳音も行く!」

「だめだよ!」

思わず強い声が出てしまい、亜佳音がびくっとするのがわかった。しまった、とは思ったが、一緒に来られるのは困る。

「あ、ごめんね、大きな声出して。お荷物重いと思うから、亜佳音ちゃんはここで待ってて。ね?」

不満顔の亜佳音を膝から下ろし、すぐさま太郎は玄関へ向かった。急いだつもりだったが、亜佳音に話しかけた時間のロスは致命的であった。

「世羅さん、開けちゃだめだ!」

「え?」

ガラリ。

 振り返ったことりは、すでに玄関の鍵を外し、引き戸を開けてしまっていた。


 ピザケースを抱えたピザ屋らしきユニフォームの男と、ケーキらしき四角い大きな箱を持った帽子にエプロン姿の男が、さっと玄関の中に入り、後ろ手に引き戸を閉めた。ことりはまだ太郎を見ている。配達員の二人は玄関を開けたのが家人ではないことりであったことに一瞬だけ戸惑ったが、すぐに正体を現して、ケーキ屋が後ろからことりの腕をつかみ、口を手で塞ぐ。放り出されたケーキの箱は、落ちた音からするにただの空箱であったようだ。ピザ屋の方はピザケースからピザではなく、サイレンサー付きの黒い拳銃を取り出し、すっとことりの前に突き付けた。ことりの目が見開かれる。ケーキ屋は城崎、ピザ屋は元森の変装であった。

「騒ぐな」

ことりの耳元で城崎が低く告げる。

「へへ、本物だぜ、これは」

元森も銃口を揺らしながら言った。

 それを目にした太郎は、迷わず玄関へ迫る。

 元森が太郎の姿に気づいた。その途端、なぜか元森の方がひっと小さく悲鳴を上げた。

「て、てめぇは……まさか自転車のぉ?」

そして太郎に銃口が向けられる。城崎に口を塞がれたことりが、くぐもった声で何か叫んだ。

「ば、馬鹿野郎、何してる?」

城崎が驚いた声を出したときには、プシュッという音とともに、太郎に向けた銃の引き金が引かれていた。


 (あ。このひと、あの目が充血していた運転手だ)

 自分に向かって銃弾が放たれたというのに、太郎は至って冷静だった。

 避けられるとわかっていたからだ。

(ピストルの弾が避けられちゃうんだから、ひとの拳なんて余裕なわけだな)

などと考えてさえいた。

 それが一気に焦りに変わったのは、うしろで亜佳音が廊下に顔を出していると気づいたためだ。待っていてと言ったのに、じっとしていられなくて、ついてきてしまったらしい。

(亜佳音ちゃん? やば!)

もし自分が避けたら、弾は亜佳音の方へ行ってしまう。当たる軌道かどうかまではわからない。でもそれは絶対にまずい。太郎は覚悟を決めた。

(……掴む!)

飛んできた銃弾に手を伸ばし……手のひらの中に弾丸を握り込んだのである。

 痛い! というか熱い!

 と思ったのも、ほんの一瞬だけであった。太郎の右手には、銃弾がしっかりと掴み取られていた。まさか弾丸より手のほうが丈夫なのか? と思ったが、必ずしも強度で弾丸に勝ったわけではなさそうだ。手のひらに赤い血と皮膚の焼け焦げが確かに見えたのに、それがあっという間に元通り治癒したからである。

(治んの早ぁ?)

ともあれ、太郎は掴んだ銃弾をポケットに入れると、ふたたび誘拐犯たちに向き直り、一瞬のうちに二人の前に迫る。しかし太郎の大きな失敗は、捕まえられたことりのほうを先に助けようとしたことだった。それよりまずは、拳銃を持っている相手を無力化すべきであったのだ。


 城崎には、何が起きているのかよくわからなかった。

 自分や高橋と違って、ろくに格闘技の経験もなく、素手ではたいした働きが期待できない元森に、たった一丁しかない虎の子の拳銃を預けた。それは、武器を持たせる意味に加えて、曲がりなりにもこいつなら冷静に使いこなせると期待してのことだった。ところが、飛び出てきた子どもの姿を見るなり逆上して、脅すのではなくいきなりほんとうに撃ちやがった。銃なんざ威嚇で十分なのだ、なんてばかなマネをしやがる、と思ったのに、その子どもは何事もなかったように向かってきた。どこにも当たらなかったのか? それとも銃の方がそもそも不発であったのか。ともあれ、何か問題が発生していた。計画に狂いを生じるような重大な何かだ。だが、城崎にはそれが何なのかわかっていない。その迷いが、次の行動に移るまでの大きな隙を生んだ。


 太郎は、靴も履かずに三和土の城崎とことりの正面に立つと、ことりの腕と口を押さえる城崎の両手首を、がっちりと掴んだ。そして、ごくごく軽く力を込めた。

「うぉあぁっ!」

痛みに耐えかね、城崎が両腕をことりから離してのけぞった。万力で締め上げる、というのはまさにこんな感覚なのだろう。手首が砕けたかと思った。こんな子どものどこにそれほどの力があるのか。

(よし!)

いきなりの暴漢襲来に、ことりの目には涙が浮いていた。太郎は怒りの感情にまかせ、遠慮せず手首を握りつぶせばよかったと一瞬だけ考え、それでもことりを解放して一安心、と思ったのだが、そうではなかった。太郎の真横には、拳銃を持った元森がいたからだ。

 目の端に、また太郎へ銃口を向ける元森が見えた。この距離でも、おそらく避けられなくはない。静止状態から銃弾より速く動くのは無理でも、弾が銃口からの直線上に出てくるものであり、引き金を引くのが人間であるのなら。しかも銃弾そのものを目で捉えることができるのだ、必要なタイミングで射線から身を躱すことは、いまの太郎にとって難しいことではなかった。しかし避けたら、今度は目の前にことりがいる。

(うわ、失敗! 順番間違えた!)

もう元森は引き金を引き始めている。

 太郎はとっさに、涙目のことりを正面から抱えるようにすばやく抱き寄せ、元森に背を向けた。なにしろことりのほうが身長は高いので、太郎の身体で覆い隠すのは簡単ではなかった。

 ふたたびプシュッという発射音。こんどは一発ではなく、三発連続で撃たれた。至近距離の銃弾は、すべて太郎の背中に命中し……ぽとりと下に落ちた。

「いてて」

豆鉄砲、という言葉があるが、節分の煎り豆を全力で投げつけられたくらいの衝撃はあった気がする。鬼は外、と追いやられる鬼の気分はこんな感じなのかもしれない、と太郎は思った。

「ひぃぃぃ!」

撃った元森のほうが悲痛な声を上げていた。

「なんだぁ、てめぇはぁ! なんで撃たれて平気なんだよぉぉっ!」

「ぼくも知りたい」

太郎は答えながら、外山や三宮との喧嘩で学んだ後ろ回し蹴りを放った。手が塞がっていても、相手が後ろにいても、攻撃することができるなんて! と感動した技だ。ただし、当ててしまったらおそらく相手が即死するので、触れる寸前に足を止めた。寸止めである。

 ところが、太郎の蹴りは寸止めしても、そこに衝撃波を生んだのだ。元森は後ろに弾き飛ばされ、玄関の壁に頭をぶつけて昏倒した。

(あ、大丈夫かな。やり過ぎた?)

太郎は心配になったが、いまはそれよりことりの安全が最優先だった。

「世羅さん、ちょっと失礼」

抱き寄せたことりの足を掬うようにして、さっと横抱きにかかえ直すと、一足飛びに廊下をリビングの手前まで移動する。廊下にまで出てきていた亜佳音が、玄関から一瞬で目の前に現れた二人に目を丸くした。

「え? なに? え?」

ことりが涙目のまま口をあわあわさせている。却って怖がらせてしまったか、なぜか目がさっきより潤み、心なしか頬まで染まっているふうだが、まだ構っている暇がなかった。さすがにこれだけ物音を立てれば、異常に気づいた武雄や多佳子が、様子を見に出てくる気配がある。

 太郎はしゃがんでそっとことりを下ろすと、亜佳音に言った。

「亜佳音ちゃん、ことりお姉ちゃんと一緒にいてね」

「うん!」

太郎は玄関を見た。すると、偽ケーキ屋のほうが玄関を開けて逃げ出すところだった。偽ピザ屋は倒れたままだ。ケーキ屋は警備の警察官がなんとかしてくれるかな? と思ってまずはピザ屋の確保をすることにした。

 玄関に戻って今度はちゃんと靴を履くと、ピザ屋の持っていた拳銃が見あたらない。ケーキ屋が持ち去ったようだ。たまたま目に付いただけか、それとも意外と機転の利く相手なのか。とくに深く考えたわけではなかったが、なんとはなしに亜佳音の目に入るところにあるのが嫌で、三和土に落ちた薬莢四つに、三個の銃弾も拾ってポケットに入れておく。しゃがんで偽のピザ屋……元森の息があることを確かめているところへ、武雄が玄関までやって来た。

「どうしたんだね? 騒がしいようだが、何があった? この男はいったい……」

太郎は戸惑っている武雄を振り仰ぎ、「不審者みたいです」と答えた。

「不審者? 警官は何してたんだ? で、なんでそこに倒れて?」

「うーん、よくわかりませんが、ピザ屋さんを装って入り込んだようですね。怪しかったんで、ぼくが蹴っ飛ばしました」

「けっと……。つ、強いんだな、きみ」

武雄はごくっとつばを飲み込む。こんな細くて小さい子どもが、大の大人を蹴って気絶させたというのもにわかに信じがたいが、目の前の状況を見て嘘だと否定するのもはばかられた。それよりも、不審者に対して太郎がまったく動じず冷静に対応していることが不思議で仕方がない。いまどきの中学生はこんなものなのだろうか?

 太郎は、元森の様子を見つつ、耳を澄ませて外の様子もうかがう。逃げたケーキ屋と警官のやりとりは聞こえない。なぜだろう? と不審に思ったとき、入ってきた門とは反対側へ向かう急ぎ足の音と、その先にエンジンのかかったクルマの音があることに気du

いた。太郎は武雄に尋ねる。

「この家……裏門がありますか? そっちに警察官は?」

「裏門? ああ、あるとも。そちらには警備してもらっていないよ。警察官に正面にいてもらえば、それが十分な示威行動になるからね」

なるほど、その思い込みを逆に突いて、裏口を逃走経路に考えていたのだとしたら、誘拐犯はそれなりに知恵が回るのかもしれない。クルマの準備もできているとなると……。

「すみません、ちょっと自転車お借りします」

「え?」

ぽかんとする武雄。太郎はかまわず外へ出ると、玄関脇のロードレーサーをちょっと見て、すぐに武雄用のほうだと間違いなくペダルに足が届かないことを理解した。いささか不満な決断ながら現実を見て、多佳子用のほうを選ぶ。少なくとも、このタイプの自転車なら、走るクルマに追いついてもおかしくないだろう。ロードレーサーに乗るのは初めてだが、見たところギヤチェンジのためのシフトレバーは、人気の自転車レースマンガで見たとおりの作りである。これならなんとかなりそうだった。急いで玄関から門まで自転車を引いていき、警備を続ける警察官に声をかける。

「あの、おまわりさん」

「おう、さっきの。なんだい?」

「いま通ったケーキ屋さんとピザ屋さん、偽物の不審者でした」

「え?」

一瞬、二人の警察官は「この子は何を言っているのか」という顔でお互いを見る。

「一人を玄関で市長さんが抑えてますので、すぐ行って加勢をお願いします」

気絶したままで抑えるも何もないのだが、そう伝えたほうが緊迫感が出るだろう。

「……なんだって?」

「ぼくはもう一人を追いかけるので、それじゃ!」

さっと自転車にまたがると、太郎はペダルを踏み込んだ。とたんにバランスを崩して大きくよろめく。

「お、おいきみ!」

転ぶかと思われた太郎は、しかしすんでのところで姿勢を立て直すと、ママチャリとはやっぱり違うんだな、とぼやきのような言葉を残し、敷地の裏手へ回っていったので、すぐに姿が見えなくなった。

「……なんだ、いまの?」

「さあ? と、とにかく中をいちど確認しよう」

「そうだな、じゃあおれが行ってくるよ」

「ああ、頼む」

様子を見に行ったほうの警察官が、もう一人を大声で呼ぶのはほんの十数秒後であった。そしてさらに、落ちていたケーキ箱は実は空ではなく、中からケーキならぬ市長に対する脅迫状が出てきたため、所轄から応援まで呼ぶ大騒ぎに発展するのだった。


 ことりは太郎に下ろされた姿勢のまま、ぼうっとしていた。

 玄関で武雄と多佳子に警官が話を始めており、また亜佳音が不思議そうな顔でのぞき込んでいるが、気にする様子もない。

「ことりちゃん? お熱あるの?」

「えっ?」

声をかけられて、やっとそばに亜佳音がいることに気がつく始末である。

「お顔、赤いよ? お熱ある?」

「あっ? えっ? うん、大丈夫、大丈夫よ。何でもないから」

ことりが自分の頬に手を当てる。確かに熱を持っている。

(されちゃった……お姫様抱っこ……)

太郎に抱き上げられたときは、正直パニック状態であった。というか、その前に抱き寄せられたときから、外見を裏切る力強さに圧倒されていた。自分のほうが背は高いのに、まったく苦にする様子もなく軽々と持ち上げられたばかりか、さらにそこから一瞬の離脱ジャンプである。暴漢から助けられ、ヒーローにお姫様抱っこで運ばれる……これこそまさに、王道ヒロインの立ち位置ではないか。

 理想をいうなら、そのあと二人で見つめ合う展開が欲しいところだが……。ことりはぶんぶんと首を振った。

(無理無理、そんなの、むりぃ~!)

到底、心の準備が間に合わない。きっと自分の一部、いや場合によっては全部が耐えられずに破裂する。よかった、太郎の行動が徹底していなくて、とことりは心底思ったのだった。

「ことりちゃん、いっしょだね!」

そう言うと、亜佳音が嬉しそうにくっついてくる。

「いっしょ? なにが?」

「ことりちゃんも、太郎ちゃんに抱っこだね!」

「あぅぅ……っ」

ぷしゅう……。思わぬ従姉妹の追撃に、やはりどこかが破裂したようだ、とことりは思って、亜佳音を抱えたままひっくり返った。

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