第14話
「もしかして……亜佳音を連れてきてくれた……?」
「そうなの!」
ここぞとばかり、ことりが力強く言った。
「うちのクラスにいたのよ! ……えっと、たまたま?」
最後はちょっと自信なさげに小声になったが。
「世羅さんと同じクラスの、穂村といいます……どわっ?」
やっと機会の回ってきた自己紹介が終わらないうちに、太郎は多佳子に抱きしめられた。そのまま力強くぎゅーっと締め付けられる。
しばらく、多佳子は言葉を発しなかった。びっくりはしたが、太郎も抵抗せずされるがままになっていた。
「……よかった、また会えて」
やっと出てきた声が震える。多佳子は泣いていた。
「ちゃんとお礼を言いたかったの。あなたが亜佳音を連れてきてくれて、どれだけ嬉しかったか。名前も聞けずにいなくなっちゃうんですもの、すごく宙ぶらりんで」
そこまで言って、また多佳子はすすり上げる。
「ありがとう。ほんとにありがとう。あなたがいなかったら、亜佳音はいまここにいなかったかもしれない」
それは大げさな、と思ったが、しかし確かにその可能性はあった。結果は無事に取り戻せた。しかし、もしもあのとき取り戻せなかったら、亜佳音がいつ返ってくるかは誘拐犯にしか決められない。それこそ、永遠に返ってこないことすらあり得たのである。
「伯母さん……」
ことりがいまにももらい泣きしそうだ。ややあって、多佳子がぱっと太郎から離れると、涙に濡れた顔でにっこり笑う。
「それがまさか、ことりちゃんのボーイフレンドだったなんて、こんな素敵なことってあるかしら!」
「……ふぇ?」
「い?」
いや、そこの誤解は揺るがないのか。
「え、ちょっと。お、伯母さん?」
「あ、ごめんね、ことりちゃん。あなたのボーイフレンドを取っちゃおうなんて気はないからね、安心して。でももう一回だけぎゅっとさせてね」
「伯母さーん?」
ふたたびわたわたし始めたことりを置き去りにして、多佳子は宣言どおり太郎をまたぎゅうっと抱きしめると、ようやく満足したというように手を放す。一回目はともかく二回目には、なんとなくだが何か吸い取られた気がするのはどういうことだろう。
ともあれ、母親と親戚以外の女性からハグされるなんて、たぶん幼児の頃以来だなぁ、と太郎は顔を赤らめた。あ、いや。つい先日、亜佳音にもぎゅうっとされたばかりだっけ。うーん、四歳はレディにカウントしていいのかな。などと考えていると、ことりがちょっとジト目でこちらを見ているのに気がついた。はて、何だろう? と思うまもなく、多佳子があらためて二人を手招きする。
「こっちよ、どうぞ」
広い玄関の脇に、三輪車と補助輪付きの小さな自転車が置いてあった。三輪車は傷だらけだが、自転車のほうはまだ真新しい。そしてその横には、チャイルドシートのついた二人乗りの自転車と、さらにサドルの高さの異なる本格的なロードレーサーが二台並んでいた。二台とも、太郎でも名前を知っているような、イタリアの有名メーカーのものだ。
「あら、自転車がお好き?」
太郎の目線にめざとく気づいた多佳子が訊く。
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、二台あったので。ご夫婦で乗られるんですか?」
「亜佳音が生まれる前まではね。よく二人でツーリングもしたわね。でもいまは」
多佳子は二人乗りの方を指さす。
「こっち専門かな」
確かに、よく見ればサドルの低い方のロードレーサーは、うっすら埃をかぶっているようだった。しかしタイヤは潰れていない。エアがきっちり入っていた。
「そのうちまた乗ろうって、主人が整備だけは自分のと一緒にやってくれるのよ。でもいつになるかしらねぇ」
そう言う多佳子の表情は、言っている中身のわりにはあまり残念そうではない。太郎やことりには理解の及ばないことだが、自転車に乗る楽しみと引き換えにしているものが、亜佳音という宝物との生活であると、多佳子がわかっているからだ。結婚後、なかなか子どもに恵まれず、半ば諦めかけた頃にやっと生まれた大事な娘であった。多佳子は既に高齢出産と言われる年齢で、初産でもあり、医療が進んだ現代においても、決して100パーセントの安心はない。亜佳音は大きなリスクを乗り越えて、この世に生まれてきたのだ。
自転車以外にもできなくなったことは山ほどあったが、代わりに得たものがどれほど大きく、かけがえのないものなのか、多佳子にはよく理解できていた。それだけに、太郎に対する感謝の念は、太郎が想像もつかないほど深かったのである。
家に上がって、リビングへ通されると、まずはことりを見つけた亜佳音が声を上げて走り寄ってきた。しゃがんで迎えることりへと、真っしぐらに抱きつく。
「来たよー、亜佳音ちゃん」
「ことりちゃん!」
そう呼ばれているのか。さすがにここでおおとりはないな、とほっぺたを擦り合わせて笑う二人を、太郎は微笑ましく眺めた。と、すぐに亜佳音が後ろにいた太郎に気づく。笑っていた表情をぱっと硬くしながら、ことりの陰に隠れるようにこちらを伺い始めた。
「こんにちは、亜佳音ちゃん」
やっぱりか、と太郎が苦笑いしつつ挨拶すると、ことりが意味ありげに笑ってフォローに回る。
「亜佳音ちゃん、こっちのお兄ちゃんと、前に会ってるんだけど、覚えてる?」
「え? わかんない」
瞬殺である。が、ことりは諦めなかった。
「よく見て、ついこの間なのよ」
尻込みする亜佳音を抱えるようにして、ことりが亜佳音をずいっと太郎の前に差し出す。え、これ泣き出す流れじゃないのかな? と不安になりながら、太郎もしゃがんで亜佳音と目線の高さを合わせた。亜佳音は知らない人を見る目で、眉間にしわを寄せながらおそるおそる太郎を観察していたが、ふとしわがぱっと開くなり、ふらふらと太郎に近寄った。そのまま、太郎の首に手を回してぎゅっとかじりつく。
「あ、亜佳音ちゃん?」
予期せぬ亜佳音の行動に、太郎は動けない。亜佳音はしばらくそうしていたが、やがて小さく言った。
「……抱っこのお兄ちゃん?」
「そうよ!」
なぜかことりが嬉しそうに答えた。
「亜佳音ちゃんを、ママのところへ連れてきてくれたお兄ちゃんよ」
匂いなのか、感触なのか、あるいは雰囲気なのか。助けた直後の大泣きのあとはすぐに寝てしまって、抱っこしていたときのことなどろくに覚えていないだろうと思っていたが、太郎自身の顔かたちよりも、首にしがみつき、太郎が抱っこして歩いたときの感覚のほうを、亜佳音は記憶していたようだった。
「……わかったの?」
太郎が訊くと、亜佳音はこっくりと頷いた。
「うん」
そしてにかっと笑う。
「ママのところまで抱っこしてくれて、ありがとう」
おおぅ。はにかみながら亜佳音が言うと、太郎はじわっと身震いするような感覚に包まれる。ことりからも、多佳子からも、真っ直ぐな感謝を伝えられて照れくさかったが、これはまた格別の嬉しさだなぁ、と太郎は感慨を味わった。
「うほん!」
そこへ、わざとらしい咳払いが降ってきた。
「ああ、ことりちゃん、私にもその……彼を紹介してくれるかな?」
太郎たちが部屋に入ったときから、そこにいることはわかっていた。この家の主である世羅武雄が、声をかけるタイミングを逸したまま、じりじりしながら様子見をしていたのだった。ただ答える前に、その「彼」は、男性に対する一般名詞なのか、ことりの彼という意味での彼なのか、そこをはっきり訊いておいた方がいいのじゃないか? と太郎は思ったが、口を挟むより先にことりが言った。
「こんにちは、武雄伯父さん。こちら、わたしと同じクラスの穂刈太郎君。あの日、亜佳音ちゃんを連れ戻してくれた恩人なのよ」
「……えっ?」
武雄の顔色が変わった。
「こんにちは。穂村といいます。今日はお招きに預かり……うぇっ?」
武雄は抱きつきこそしなかったが、代わりに太郎の両手をがっちりと握られ、次いでぶんぶん振られた。わなわなと唇が震え、太郎に迫ってくる目が潤んでいる。
「きみが……きみがそうなのか! 亜佳音を連れてきてくれたんだな!」
「は、はい……」
「ありがとう! 感謝する!」
世羅の家系というのはみなこうなのか? と戸惑うほどに、あふれる喜びの感情を隠しもせず、武雄はひたすら熱く太郎の手を握りしめた。
「いや、いくら感謝してもし足りないよ! ほんとうに、なんとお礼を言ったらいいのか……政治家として言葉を失うなどあってはならない事態だが、いまは気持ちを伝える適切な言葉が見つからない!」
地元に一族の選挙基盤があるとはいえ、四十代で市長になるだけのことはあり、ポスター映えのするすっきりと爽やかなナイスミドルの武雄ではあるが、太郎にしても父親世代のおじさんに熱く迫られて喜ぶ趣味はない。いやこれどうしたものかな、と困っていると、太郎の後ろから救いの手が差し伸べられた。
「あなた、もうそのくらいにしてはいかが?」
冷たい飲み物らしきグラスの載ったお盆を携え、多佳子が武雄をたしなめる。
「お、そうだな、これはすまん」
我に返った武雄がようやく手を放し、あらためて太郎に深々と頭を下げた。
「ありがとう。こころから感謝している。今日はよく来てくれたね」
「あ、いえ、どういたしまして」
ことりは横でにんまりとしているが、太郎は成り行きでここにいるようなものであり、どう反応していいのかわからなかった。ただ当初心配したような、場違いな参加になることはなさそうで、その点はちょっとだけほっとしていた。
「ことりちゃん、ごめんね。まだ頼んだケーキとピザが届く時間までしばらくあるのよ。もうちょっと待っててくれる?」
多佳子が飲み物を勧めながらいうと、亜佳音はぱっと表情を輝かせた。
「じゃあ、まだ遊んでていい?」
「あー、ママはまだ支度があるの。ことりちゃん、相手してもらっていいかしら?」
「もちろん」
「やったぁ。ことりちゃん、遊ぼう!」
「いいよ、何して遊ぶ?」
「トランプがいい!」
最近、亜佳音はトランプ遊びを覚えたばかりなのだという。覚えたてのゲームをやりたくて仕方がないのだそうだ。武雄が書斎へ行くと言って席を外したので、リビングには太郎とことり、亜佳音の三人だけになった。
亜佳音のリクエストどおり、はじめはババ抜きを何回か行ったが、やはりまだ亜佳音一人ではカードの手さばきがおぼつかない。見えてしまっているジョーカーをわざと引くような幼児への手加減は、太郎にとってこれまでほとんど経験がなく、おっかなびっくりであった。
次いで神経衰弱を、太郎対ことりと亜佳音の連合チームで行ったが、これは太郎の得意中の得意ゲームであったため、何度やってもことりたちはまったく相手にならず、最後は亜佳音が泣き出して終わった。
「ちょっと穂村君、大人げないんじゃないかしら!」
「いや、そう言われても」
わかっているカードをめくらずにわざと間違えることはできても、相手がちゃんとそれを引き当ててくれないことには、勝ちの譲りようがない。ことりはまだしも、亜佳音に好きなようにめくらせていると、ゲームが進まないのだから仕方なかったのだ。
「じゃあ、亜佳音ちゃん。おわびに抱っこのお兄ちゃんが、抱っこしながらご本読んでくれるって」
「いぃっ?」
思わず変な声が出てしまったが、亜佳音はそれでたちまち機嫌を直し、読んでもらう本を選び始めてしまった。太郎は恨めしげにことりを見るが、ぷいと知らん顔をされる。
「じゃあ、これ!」
一冊の絵本を持って戻ってきた亜佳音は、ためらいなくすとんと太郎の膝に収まった。はい、と絵本を差し出され、太郎は渋々ながらも受け取ると、ふとそれが見覚えのあるものだと気がつく。
「あ、これは……」
「なーに?」
絵本はロングセラーのタイトルで、太郎も小さい頃によく読んだシリーズものの一冊であった。
「お兄ちゃんのお家にもあるんだよ、この本」
納戸の奥にではあるが、まだ捨てたりはしていなかったはずだ。
「抱っこのお兄ちゃんのお家にも、あるの?」
「そうだね」
「抱っこのお兄ちゃんも、このご本、好き?」
「……うん、好きだった」
太郎の胸に、懐かしさがこみ上げる。
と、ことりがやおら不満を言い立てた。
「長い! 長すぎる!」
「え? 何が?」
太郎も亜佳音も、きょとんとしてことりを見る。
「その、『抱っこのお兄ちゃん』よ。呼び名としては長すぎると思わない?」
だってはじめにそう紹介したのはことり自身だっただろう、と太郎は思ったが、太郎にしてもことりの扱いをかなり学んできたところだったので、とりあえずその点を指摘するのは控えておく。
「……で、どうしろと?」
「どうしよう。なんて呼ぶのがいいかしら」
ことりは亜佳音に訊いた。
「亜佳音ちゃん、どうする?」
「んー? わかんない」
それはそうだろう。
「亜佳音ちゃん、このお兄ちゃんのお名前はね、穂村太郎っていうの。穂村が名字、亜佳音ちゃんの世羅と一緒ね。で、太郎が名前なのね」
「……じゃあ、太郎ちゃん!」
一瞬、ことりと太郎が顔を見合わせた。ええ? という表情の太郎に、ことりがぷっと吹き出す。
「うん、それいい! 亜佳音ちゃん、ナイス」
「太郎ちゃん?」
「そうね、このお兄ちゃんは太郎ちゃん!」
マジか、と太郎は思ったが、もう亜佳音は太郎ちゃんを連呼している。いまから訂正は難しそうだった。
(まあ、てっぺんよりはいくらかマシだ)
太郎はため息を吐いた。
諦めの表情で太郎が絵本を開き、懐かしい絵を見ながら読み始めたところで、チャイムが鳴った。多佳子がインターフォンに応対すると、警備の警察官から、デリバリーのピザとケーキが両方届いたという。はーい、という多佳子の返事のあとで、え、約束よりずいぶん早いのね。あら困ったわ、いまちょっと手が離せないのよね、少し待っていただけるかしら、との声が聞こえる。そこで、亜佳音と一緒に絵本をのぞき込んでいたことりが立ち上がると
「伯母さん、わたし受け取ります」
と声をかけた。
「あら、ほんと? 助かるわ。お願いできるかしら」
「はーい、大丈夫ですよ」
「もう支払いは済んでいるから、受け取ってもらえばいいからね」
キッチンから聞こえる多佳子の声に、ことりが玄関へと向かった。
太郎は、絵本を見るときのことりの顔がかなり近くてどぎまぎしていたので、少しばかりほっとしながら亜佳音への読み聞かせを続ける。と、玄関の外に来ているらしい配達員たちの会話が、太郎の耳に届いた。
「……へへ、すんなり入り込めましたね」
「気を抜くな、これからが肝心なとこだ」
「わかってますって」
「……手はずどおり、応対に出てきた家族をまず人質に取る」
太郎が思わず絵本を取り落とした。
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