第9話

 太郎の住む地方都市には、公立中学が五つあった。地名も何もまるで関係せず味も素っ気もない、校区をエリアで分けられただけのもので、東部中、南部中、西部中、北部中、そして中部中である。その東部中の外山が、一対一の喧嘩タイマンに負けて病院送りになった。そのニュースは、驚きを持って市内の各中学の喧嘩自慢たちへもたらされていた。校区をまたいだ不良同士の小競り合いはよくあって、他校にも外山と実際にやりあったものは少なくなかったので、そのくらいには、外山の強さは広く知られていたのだ。

「聞いたか」

「聞いた。負けたってな、外山」

「負けはまだしも、あれが一方的に病院送りとか、ちょっと信じらんねー」

「まあな。しかも、なんだっけ相手の名前。ぜんぜん聞いたことのないやつだった」

「病院送りってのは、大げさなんじゃねーの? 入院して寝てるわけじゃないんだろ」

「いや、マジマジ。校区境の後輩が見てんだよ、右手ギプスで固めた外山をさ」

「ひゃー。すげーのがいたもんだな。あの外山をねぇ」

「東にそんな強いやついたか?」

「いや、聞かないな。あそこはずっと外山の一強だったはず」

「市外からの転校生とか?」

「それならそれで、そう伝わりそうなもんだろ」

「じゃあなにか? ほんとはつえーのに、ずっと弱いフリしてたのがいたとでも?」

「知らねーよ。急に強くなったのかもしれねーしな」

「そんな方法あんのかよ? おれも知りてー」

ぎゃはははと馬鹿笑いになった一団のなかで、ひとり笑わないものがいた。

「お? どした、悩ましい顔してんな」

「気になるんだよ」

「え、なに、いきなり強くなれる修行法か? おれも外山を病院送りにしてーってか」

「ばーか、そうじゃねえよ。その外山を病院送りにしたやつのことが気になるんだよ」

「いや、誰も知らねーんだから、気にしても」

「違うって!」

「いらつくなよ、何だよおまえ」

「だからさ! 外山をやっちまうほどのやつだぞ? そのあと何すると思うんだ?」

「そのあと?」

「何って……なぁ?」

「そんなのわかるわけ」

「……おとなしくしてると思うのか?」

「え?」

何が言いたいのかわからない。周りはみなそんな顔をしていた。

「転校生でないってなら、三年まで待って、外山ぶっ倒して喧嘩デビューしてきたってことだろう?」

「ん? そうなる……のか?」

「わざわざ三年でそんな目立つ花火を上げてきたんだ、そこで止まると思うのか?」

一人の思いついた心配が、やっと全員にじわじわと伝わり始める。

「あ……」

「いやぁ。まさか、な?」

「うん……なぁ?」

「こっちへ出て来るかもしれない、てのか……」

「いやいや! なんでよ?」

「考えすぎだ」

「んなわけが」

「……来ないって、どうして言えるよ?」

全員が、ごくりとつばを飲み込んだ。いまこの集団の中で、外山とタイマン張って勝つ自信のあるものは、一人もいなかった。なのに、その外山を病院送りにしたバケモノが、やってくる? 冗談ではない。

(なんとかしないと!)

発案はどこの中学からだったか。

 ひとつだったかもしれないし、ふたつ以上の学校でほぼ同時に同じことを思いついたのかもしれない。いずれにせよ、最後は東部中以外の四校の不良連中が連絡を取り合い、ひとつにまとまることになった。その中には、外山と因縁の深いものもいたし、外山相手であれば、互角以上にやれると考えているものもいた。それでも、外山を一蹴するような相手を敵に回してもよい、とまで考えたものは、誰一人いなかったのだった。

 さて、まとまったはいいが、どう行動するか? 団結して撃退する、という方法もあるが、そもそも敵対関係にならずに済むならそのほうがいいはずだ。

 あまり知恵の回るメンバーのいない集団ではあったものの、ともかくも東部中の外山か、できればその外山に勝った男とこちらから接触する必要がある、ということは認識していた。しかし、それぞれの中学ではまがりなりにもアタマを張っていると自覚している連中であった。ほかの中学はあくまで同格であり、他校の誰かをトップに頂く気はないのだ。そうなると、誰から東部中に接触するべきか、という問題が発生した。

 誰を選んでも揉めるのであれば、その四校のメンバー以外で選ぶしかない。白羽の矢が立ったのは、かつて伝説の喧嘩屋と呼ばれた、東部中卒業生の三宮さんのみや修平しゅうへいだった。


 外山は、先輩の三宮に呼び出され、とあるファーストフードの店にいた。

「おう、待たせたな」

「いえ」

やってきた三宮に、外山は立ち上がって頭を下げる。体格は、外山のほうがやや大きかったが、その身を縮めるように相対していた。学年で言えば、三宮は外山や太郎の四年先輩となる。

「お、なんだ、何も頼んでないのか? なに飲む?」

「あ、いや自分は……」

「遠慮すんなよ、言え」

笑顔でありながら、じろりと見られるとその眼光の鋭さは、喧嘩無敗を誇り、伝説の喧嘩屋と呼ばれて地域最大の暴走族のリーダーであった頃とまったく変わらなかった。

「……じゃあ、コーラを」

「よし」

まもなく三宮が買ってきたコーラのひとつを前に置かれ、外山は居心地悪そうに礼を言った。

「久しぶりだな」

「ウス」

「その右手……ほんとなんだな、負けたってのは」

外山の右手はまだギプスのままだった。外山は無言で目線を逸らす。

「つえーのか、その相手」

「強いか……すか?」

外山は返答に悩んだ。確かに勝てなかったという意味では、太郎のほうが強いのだろう。しかし、自分は一発も殴られたわけではない。自爆でそれ以上喧嘩を続けられなくなっただけだ。とはいうものの、では勝てるかといえば、勝ちのイメージはまったく湧いてこなかった。学校では、意地もあり太郎にリベンジマッチを予告はしたが、実際にそれを挑む気持ちは、いまのところ持つことができない。

「……底が見えない、てんですかね」

「ほぉ?」

三宮の目がぎらりと光る。

「おまえにそこまで言わせるやつか。おれとだったらどっちが強いと思う?」

それはもちろん三宮さんで……と言おうとしたが、言葉が止まった。ふと、指先の黒ずんだ三宮の手が目に入る。たしか暴走族を引退した後、バイク店で働いていると言っていたはずだ。いまは油汚れが取り切れないその手に、外山は二度、喧嘩で敗れていた。

 一度目は、単なる無謀で先輩なにするものぞと突っかかり、あっさりぶっ飛ばされて終わった。二度目はリベンジを期して万全で挑んだが、これも難なく返り討ちにあった。外山が完膚なきまでに二度叩きのめされた相手は、これまで三宮一人しかいない。同じ東部中の先輩後輩ということもあり、以降目をかけてもらったりして、外山が頭の上がらない、数少ない相手だった。

「わかんないっすね」

外山は正直に言った。三宮に対しても、いまの自分なら勝てる、とは思えない。しかし、三宮と太郎の強さでは、次元が異なると感じていた。それを聞いて、三宮の眉がピクリと跳ねた。

「……おもしれーな」

三宮がくっくと声に出して笑う。

「そいつ、連れてこい。会わせろ」

「え?」

外山は驚いて顔を上げる。

暴走族ゾクは引退したんすよね?」

「ばーか、そういうんじゃねーよ」

「じゃあ何なんすか。相手は普通の中学生っすよ?」

「おまえに勝つやつが普通のわけがあるか。……いや頼まれてんだよ」

誰に? 何を? 外山には三宮の言っていることがわからない。

「チームんときの後輩つながりでな。直接言ってきたのは、南部中の谷口たにぐちだな。あと中部中の芹田せりたか」

どちらも知った相手だった。谷口とはやりあったこともある。勝ったが、なかなかいい勝負をした空手使いだった。芹田は片親がアメリカ人だかどこかの血の入った大柄な男で、キックボクシングをやっているとかいう話だ。いちど勝負してみたいとは思っていた。しかし、その二人がつるんでいるなどと聞いたことはなかった。

「何を頼まれたんすか?」

「おまえに勝った相手の暴走を止めてくれ、だとよ。その二人だけじゃない、北部中と西部中も同じ考えだそうだ」

暴走? 誰を止めるって? 四中の総意? 外山の目がぐるぐるしている。三宮が怪訝な顔になった。

「なんだ? 聞いてないのか」

「……何の話かわかんないっす」

「ああ?」

とぼけていると思われたのか、三宮の口調が苛立ちを帯びた。

「いや、ほんとに知らないんすよ。暴走って何なんすか?」

「え? そのおまえが負けたやつよ。なんか市内全中の覇権を狙ってんだろう。そう聞いたぞ」

ハケン? ハケンってなんだ。自分の語彙にない言葉にますます外山は混乱を重ねたが、だいたいのニュアンスは肌で感じ取った。太郎が市内の全中に対して、喧嘩を売るという話なのだろう。いつそんなことになった? 誰がそんな話を広めたのだ。

「えええ? いやぁ……それなんかの間違いだと思うんすけど」

「おまえにも知らされてなかったのか。なかなかの策略家なんだな、そいつ」

サクリャクカ? いやわからない。でもそれもきっと誤解に違いないと思う。しかし、三宮はかなり思い込みの激しい性格だ。いま自分が誤解を解ける自信はなかった。うるせぇとぶっ飛ばされて終わりだ。

「まあいいや、とにかくそいつに会わせろや。な? あとでおれに連絡しろ」

それで三宮は席を立ってしまう。

「あ、ちょ、待ってください!」

「頼んだぞ」

行ってしまった。あとには、手を付けてないコーラがふたつと、途方に暮れた外山が残される。左手だけでは持って帰れそうになかった。


 太郎は、三度体育館の裏にいた。

 今度もまた、呼び出したのは外山だった。

「怪我は治してからの方がいいんじゃないかなぁ」

外山の右手を見ながら太郎がそう気遣うと、外山は慌てて首を横に振る。

「そっちの用じゃねぇよ。ぜんぜん違う話だ」

「ふぅん?」

外山でも拳以外で語ることがあるのか、と太郎はいささか失礼なことを考えた。そうとも知らず、ただ外山は非常に話しにくそうな顔で、切り出し方を迷っているようだ。

「どんな話?」

「おまえ、東部中卒業生で、三宮さんって先輩、知ってるか?」

「知らない」

即答であった。

「知らねーのか。伝説の喧嘩屋って言われた人なんだけどな」

おお、そんな大仰な二つ名の付く人が、ほんとうにいるのか。太郎はちょっと感心した。世の中は広いな。

「四コ上の先輩だ。喧嘩無敗と言われてて、今年リーダーやってた暴走族を引退してカタギになった」

へぇ。すごいとは思うが、太郎にとってはますます、遠い世界の住人としか思えなかった。

「その人、外山君より強いの?」

「……やなこと訊きやがる。二回負けてるよ。勝ったことはない」

外山が勝てないのか、それは相当に強そうだ。太郎は自分のことを棚に上げて考えた。

「で、その人がどうしたの?」

「……会いたいそうだ」

「誰に?」

「誰にって……穂村、おまえだよ」

「……へ! ぼく? な、なんで?」

太郎は本気で驚いた。テレビを見ていたら、中の芸能人からいきなり指名を受けたような気分だった。

「え、まさか外山君、その強い先輩に頼んでぼくに仕返しをしようとしてる?」

「ちげぇよ! おれが人頼みでリベンジするように見えるのか」

「……見えない」

「そうだろう。おれがやるなら絶対におれの手で、だ。いや、そんな話をしてるんじゃねぇ」

「その人が勝手に、外山君の仇をとってやるって言ってるわけでもない、よね?」

「言わねーし、言わせねーよ、そればっかりは」

なるほど、喧嘩好きには喧嘩好きなりの矜恃というものはあるのだな、と太郎は思った。

「じゃあ、なんでぼくに会おうとしているの?」

「いやぁ、それがおれにもよく……なぁ、おまえ、まさかほかの校区の中学まで、喧嘩仕掛けに行ったりしてないよな?」

「ぼくが? するわけないじゃない」

何をばかなことを言っているのか。そう思ったが、外山が太郎に向ける表情は真剣だった。

「三宮さんは、おまえが市内のぜんぶの中学相手に喧嘩しようとしている、と考えている」

「……はぃ?」

「そしてそれを止めるように頼まれた、と言っていた」

誰だよ、そんな荒唐無稽なことを考えたやつは! 太郎は呆れて言葉が出てこない。

「それで、おまえに会いたい。そういうことみたいだな」

「な、ならそれぜんぶデタラメなんだから、そう言ってくれればいいじゃない! ぼくがほかの中学に喧嘩売りに行くわけないでしょ? それで話は終わるはずなのに」

「そりゃ無理だ」

「はぁぁぁ?」

「それが事実かどうかは関係ないんだ。三宮さんがそう信じてるってことが問題だ」

「えぇぇぇ?」

「というわけだ。穂村、すまんが一緒に三宮さんと会ってくれ」

「やだよ! 外山君から、違うって伝えてよ」

「だめなんだ、それじゃ。そういう人なんだよ。もし断れば、あっちから会いに来るぞ、きっと」

「えええ!」

「だって東部中校区に家があるんだ、すぐだろうよ」

そうか、先輩だっけ。いやそういうことじゃない。

「あきらめろ」

どうしてこうなった……。呆然とする太郎に、さすがの外山も同情的な視線を向けた。

「いや、おれもただの勘違いだと思うんだけどよ」

消沈したまま無言で教室へ戻ろうとする太郎の肩を、ふと外山が無事な左手で引き留める。

「おい」

太郎が顔を上げると、外山は太郎のほうを向いていなかった。見ている先は、学校の塀である。

「あそこ、あんな穴あったか?」

ギクッとしたのをおそらく感づかれたと思ったが、太郎はとぼけることにした。

「……外山君の右手が当たったとこじゃないの?」

「……」

「先生には内緒にしとくよ」

外山の頬が引き攣っていくのがわかった。

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