第10話

 次の日曜日。

 太郎と外山は、連れだって校区外の工場跡地に来ていた。それはもう気が進まないのを隠そうともしない表情の太郎であるが、学校に押しかけられるよりはまし、と外山に言われるとおりにやって来たのだった。そこは十年ほど前に撤退した紡績工場のあった場所だが、その後の再利用先が決まらず、徐々に廃墟と化したエリアである。近年、暴走族のたまり場などとして使われ始めたりしたため、治安の悪さに、一般市民は近寄ろうとしない場所だった。

 時間通りに着いたつもりだったが、すでに相手は待っていた。その場にいたのは、いかにも不良然とした少年たちが20人ほど。改造バイクも何台か停めてあり、空ぶかししているものもいた。ほとんど未成年者に見えるのに、あちこちからタバコの煙がもくもくと上がっている。以前の太郎であれば、見た途端に回れ右して避ける光景だった。

「おう、来たな外山」

なかでもとくに眼光鋭い、上下ツナギを着た男が、二人を見て軽く右手を挙げた。

「ウス」

外山がすっと頭を下げる。え、外山が他人に頭を? そのやりとりを太郎は驚きの目で見ていた。なるほど、この人が伝説の喧嘩屋かと、まじまじとツナギの男を眺める。たしかに、並み居る不良少年たちのなかでも、ひときわ雰囲気のある相手であった。半数以上は、いかにも暴走族といった風情だったが、何人かは太郎と同じ中学生も混じっているようだ。そのうちの一人が、外山のギプスを見て嘲るように言った。

「なんだその右手。いいザマだなぁ、外山ぁ?」

外山はふんと鼻を鳴らす。

「いまなら勝てそうってか? 谷口ぃ。右手のハンデがほしけりゃ、これで相手してやんぜ」

「んだと? てめぇ……!」

まさに一触即発となったとき、ツナギの男が谷口と呼ばれた少年を一睨みする。

「黙ってろ谷口。おれが話する前に勝手にしゃべんな」

怒鳴ったわけでもない静かな声だったが、言われた谷口はビクッとして口を閉じた。

「す、すんません……三宮さん」

やはり、ツナギの男が三宮。太郎は、今日呼び出しをかけてきた張本人に、あらためてじっと見入る。

「おい、もうエンジン止めろや」

三宮は振り返って改造バイクの騒音を停めさせると、二人に向き直った。ギロリ、と音の出そうな目付きであった。なんだかあまり機嫌が良くなさそうである。

「で、外山。おまえ、おれの頼みを聞いちゃくれなかったわけか? おまえに勝った相手はどこだ。来ねえのか。そのちっさい眼鏡君はいったい何だ?」

一瞬、太郎も外山も、ぽかんとなった。それからようやく、三宮が勘違いをしていることを理解した。

「いや、三宮さん、連れてきましたよ、このとおり」

「何言ってんだてめぇ。どこにいるんだって訊いてんだよ。いねぇじゃねぇか」

「いやだから、こいつですよ。この穂村が、おれにタイマンで勝ったやつです」

ギプスのない左手で、外山が太郎を指さす。

「……は?」

しばらく、誰も言葉を発しなかった。

 数秒後、集まった周りの不良たちは、そろって大爆笑し始めた。

「ぎゃはははは!」

「だーっはっはつは!」

「ひぃ~、なんじゃそれ!」

「は、腹がいてぇ、勘弁してくれ!」

「これに負けた? なんのジョークだそれ!」

なんて失礼な奴らだと太郎は思ったが、気持ちは十分にわかるので、黙っていた。だが一人、三宮は笑っていない。代わりに、外山をひどく哀れな生き物を見る目付きで見ていた。周りの笑いがひとしきりおさまると、三宮が口を開いた。

「外山ぁ。おれはずいぶんおまえには期待したんだけどよ。……なーんか、弱っちくなっちまったんだなぁ」

外山がむっとしていることは感じたものの、本人が黙っているので、太郎も何も言わない。ただ、黙ったまま外山より一歩前に出た。それで、三宮が太郎のほうへ視線を移す。

「あなたが三宮先輩ですか?」

「……そうだ」

「ぼくが、あなたに呼ばれた穂村です。ご用件をどうぞ」

胸を反らし、まっすぐに相手の顔を見つめて告げると、三宮はちょっと驚いた表情になった。

「へぇ、穂村ってのか。……おまえ、ほんとうに外山に勝ったんだな?」

毎度のことで、自信もって勝ちを名乗るには、正直あの喧嘩では内容がどうなんだろうと思いはしたが、ここはあまり謙遜しないほうが良さそうだと、太郎は迷いなく頷いた。

「そうです」

「そうか」

三宮はふっと笑いを漏らす。

「……どんなまぐれで自信持ったんだか知らねーが」

「はい?」

「おまえじゃ無理だよ」

太郎は首をひねる。会話になっていない。

「無理、というと?」

「とぼけんな。おまえの企みは聞いた」

「企み?」

「そうだよ。市内全中の覇権を狙ってるんだってな?」

あ。その話か! 太郎はようやく相手の言っていることが理解できた。

「いや、それは誤解で……」

「まあ聞けって」

三宮は太郎の言葉を遮って続ける。

「どんなすげーのが来るかと思えば、まさかこんなにちっさいやつだったとはなぁ。しかも雰囲気も何もあったもんじゃねぇ。おまえが外山に勝ったって言うなら、それは勝ったんだろう。だが、それはきっと、まっとうなタイマンじゃなかったんだろ?」

うーん、と太郎は唸る。まっとうの定義次第ではあるが、言われてみれば確かにまっとうではなかったかな、と思う。

「よっぽど外山が油断してたか、それとも卑怯な手段を使ったんだか……いずれにせよ、その勝ちは忘れろ」

「へ? なんでです?」

「そんなたまたまみたいな勝ちで自信もったって、おまえみたいなちびっこいやつじゃあ、ほかの四中相手に勝ち抜けやしねーよ。喧嘩は体力、体力はガタイだ。おまえのちっちゃい体格ならすぐに潰されるのがオチだろう。毎回、奇策は通用しねーぜ? 悪いこた言わねぇ、ひでー目に遭う前に、覇権はあきらめとけ」

三宮にしては、相当ジェントルに諭したつもりだった。しかし、これだけ小さい小さいと繰り返されると、太郎も面白くない。つい返答する感情にトゲが混ざる。

「あのですね。そもそもぼくは、この市内の覇権だとか何だとか、そんなものに興味はないんです。ぼくの意思も確認しない人たちが、勝手にぼくの野望を決めないでください」


 三宮はあっけにとられた。

 これだけ自分が心を砕いて説得に当たったのだ。ここは、「わかりました、すみませんでした」という答えが来るものだと信じて疑わなかったのに、この野郎は真っ向から、「市内の覇権(ごとき)に興味はない」「自分の野望を勝手に(小さく)決めるな」と言い放ったのである。こちらにも、かわいい後輩たちに頼られ、仲裁を任された立場というものがある。メンツを潰されて、黙っていることなどできなかった。

「んだと? てめぇ、まさか市外まで手を伸ばそうってか。このちびっこが、身の丈超えた夢みんのも大概にしとけよ?」

かっとなると、怒りのコントロールが効かなくなるのは昔からだった。暴走族にいたときには、むしろそれが伝説を作るのに役立ったが、引退しても性分は大きく変わらない。

「上には上がいるんだよ。それをおまえに教えてやる」

言うが早いか、三宮は太郎に向かって一歩踏み込んだ。


 (言い方間違えた!)

太郎が、自分の返事に対する相手の誤解に気づいた時には、もう遅かった。三宮は明らかに殴る気で、間合いに踏み込んできていた。

(この人、国語力低すぎ!)

そう叫びたかった。文意を主題に関係なく、受け取りたいように曲解している。それでは読解問題で高得点は望めない。しかしそれを指摘して訂正する時間はもう残っていない。その前に拳が届いてしまう。

(もぉぉぉっ! 結局こうなるのかぁっ!)

まずは目前に迫るパンチを避けねばならない。さすがに伝説の喧嘩屋というだけのことはある、外山と比べてもさらにスピードの乗った拳であったが、それでも避けるのに困るようなものではなかった。とりあえず大きく飛び退いて、距離をとる。

「いきなりはひどくないですか」

当てるつもりで行ったパンチを躱され、三宮は驚きを隠せなかったが、それでも不敵に笑っていた。

「ほお、避けやがった。思ったよりはやりそうだな」

(うわぁ、やる気満々だよこの人)

太郎はそばにいる外山に、ちらりと助けを求める視線を送ったが、外山は黙って首を振った。太郎ががっくりと首を落とす。

「……ぼく、喧嘩しに来たんじゃないんですけど」

「喧嘩じゃねーよ。これは先輩からの指導だ」

(ものは言い様だなぁ)

再び三宮が距離を詰めてきた。


 三宮の喧嘩のベースには少林寺拳法がある。小さい頃から道場できちんとした指導を受けており、武の才能も手伝って、中学へ上がる前には既に相当の実力者となっていた。ただ、たまたまそれを喧嘩に応用する才能のほうが、はるかに勝っていたのである。

 拳法と言いつつ、「打」のみでなく「投」、「極」の技があり、攻撃も防御もできる少林寺は、喧嘩で使い勝手がよかった。持ち前のスピードを生かしてまずは打撃で攻め、体格で勝る相手には、受け身の取れない投げで地面に叩きつける。相手にスピードがあれば受けて関節を極め、そこから打撃でとどめを刺す。さらに独自の喧嘩技のアレンジを組み入れ、向かうところ敵無しを実現してきた。おかげでかつて通った道場からはみごと破門されてしまったが、磨かれた技はさらに練リ上げられて、喧嘩であれば道場にいたどの有段者にも負けない自信を得ていた。

 太郎のような小柄でスピード重視と見える相手とも何度も戦っており、今回もとくに問題なく叩きのめすつもりだった。しかし、すぐにいつもと同じ展開にならないことに気がついた。

(なんだこいつ。どんなスピードしてやがんだ)

とにかく打撃が当たらない。つかもうとしても触れない。拳打も蹴りも、放ったすべてが避けられ、躱された。ここまで捉えられない相手は初めてだった。さらに困ったことに、太郎はまったく攻撃してこないのだ。はじめは単純にカウンター狙いなのかと思ったが違っていた。試しにちょっと誘うつもりの隙を作ってみたが、まるで乗ってくる様子がない。というか、そもそも隙自体に気がついていないようだ。

 やりにくかった。


 二人の攻防を眺め、外山は戦慄していた。

 三宮の強さは相変わらずだった。繰り出す攻撃のひとつひとつにキレがあり、ただ力任せのスピードよりも当たりやすく威力も高い。技のつなぎ、流れの作り方も見事だった。一発で捉えられないのなら、二発、三発と続けていき、相手を見ながら次々と対応を修正していく。自分であればどこまで耐えられるかわからないような鋭い攻めが絶え間なく繰り返される。引退をまるで感じさせない、現役そのままの実力を維持していた。

 しかし、やはり恐るべきは太郎なのだ。

 こちらもまた変わらず素人丸出しであった。先日自分とやったときよりはずいぶんましな動きになったとはいえ、いまも目を覆わんばかりのみっともない動作で回避を続けている。これで本気というのが信じられないほどで、わざと相手をからかっているのではないかとしか思えないような、鈍くさい動きに見える。それでもとにかく当たらないのだ。あらためて外側から見ると、動きと結果がマッチしていなくてものすごく落ち着かない。これが当事者になると、今度は戦いながらとてつもなく混乱することになる。はてなマークに囲まれて喧嘩を続けるなど、やりにくいこと夥しく、通常の喧嘩よりずっとスタミナの消費が激しい。

 太郎のディフェンスが上達しないのは、実は当たり前の話で、まだ一度もまともに守りの技術を見たことがないためである。外山のときも、今回も、攻めているのは相手だけ。太郎からは一度も攻撃を仕掛けていない。したがって、相手がどれほどすごいものを持っていたとしても、防御の技や技術、動きを使う機会がないのだった。そのために、太郎は自分の中で徐々に動きの無駄を省いて行っているのみであって、いわば完全な我流なのである。それで動きがよくなること自体、普通なら考えられない急速な進歩であるが、人類が何百年もかけて磨き上げてきた、格闘技術の洗練にはるか及ばないのは当然であった。

 にもかかわらず、避ける、避ける、避ける。

 三宮の攻撃は、いまだに太郎を一回も捉えていない。はじめ太郎の動きを嘲笑し、ヤジを飛ばしていたギャラリーも、だんだんと様子のおかしさに黙り始めた。ほとんどのメンバーは、過去に三宮の喧嘩を見たことがあり、何人かは実際にやり合ってもいた。そのため、起きていることの不自然さに混乱し始めていた。三宮の調子は決して悪くない。おかしいのは、当たらない太郎のほうなのだ。


 太郎は、またも攻防を楽しんでいた。

 同じ喧嘩でも、同じパンチやキックでも、人が違えばこんなに違うものなのか。太郎にはそれが少林寺拳法であることはわからなかったが、素人目にも、三宮の喧嘩には何らかの体系的な格闘技が、屋台骨として組み込まれているのを理解できた。ひとつひとつのパンチやキックはもちろんのこと、技と技とのつながりが、外山とは比較にならないなめらかさだった。外山も回転は速かったし、スピードもすごかったのだけれど、それは個々の攻撃のスピードの話であって、技の連携においては素人とそう変わらなかったのだな、ということが、三宮を見て初めて認識できたのだった。

(勉強になる! これはたしかに、外山君じゃ勝てない相手だろうな)

外山のほうが身体は大きく体重もあるので、技はなくとも一発の威力は遜色ないと考えられ、先にまともな攻撃が当たれば勝負の行方はわからない。しかしこの三宮が外山にまともな一撃を許すとは思えず、それはつまり外山ではきっと勝てない相手のはずと、そう太郎は考えていた。当たったときの威力はもちろん重要だ。しかし、当てられずに当てる、という技術が伴ってはじめて、勝負にきっちり勝てるようになるのだな、と理解させられる。武の存在意義はそのためか、とも思った。

 目の前で繰り広げられた三宮の拳打、蹴り、そして連続技の数々は、太郎の記憶と身体に刻み込まれ、外山との喧嘩で学んだあれこれに上書き、もしくは統合され吸収されていく。場所がだだっ広い工場跡地なので、学校のときのように隅へ追い込まれる心配もなかった。まだ、もっと知りたい。いまのところ使い道のない攻めの技術ばかりだが、それでも太郎は続く上達をかみしめ、堪能していた。

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