第7話

 ごきん!

 ものすごい音がした。何かが壊れる音だった。

 仕留めた、と思った外山は、しかし次の瞬間、右手の激痛に息が止まる。

「ぐうっ! はぁっ?」

目の前に、太郎の姿はなかった。外山の右手は、全力で背後のコンクリート塀を殴りつけたのだった。

「うっがぁぁぁぁっ!」

折れた。指の骨は間違いない。手首もダメかもしれない。骨折自体は何度も経験があるが、これはひどい。右手を抱え、思わずうずくまってしまう。気絶してしまいそうな痛みである。むしろ気絶できた方がいっそ楽かと思えるほどだ。見る間に右手が大きく腫れてきているのがわかる。皮膚が破れて血も出ているが、そちらはまだましなようだった。そこで外山ははっとなって顔を上げた。

(ちび助が消えた? どこ行きやがった)

いない。外山はぽかんと口を開け、しかしすぐさま痛みにまた歯を食いしばる。

「大丈夫?」

背後から声がした。

 外山はバネ仕掛けのように振り返る。そこに太郎がいた。なぜ後ろにいる? 外山の理解が追いつかない。太郎がしたことは簡単だった。上に逃げたのだ。

 このパンチは当たりそう。そう考えた太郎は、真上に飛んだ。十分な高さになったら、今度は背後の塀を蹴って、外山を飛び越えて後ろに下りた。それだけだった。ただ問題があるとするなら、普通の人はどれほど身体能力に優れようと、溜めも作らずに、ひと一人を飛び越えるようなジャンプはできない、ということである。しかも、目の前の外山が見失うほどのスピードで。

「右手、どうなの?」

心配そうにのぞき込む太郎に、ふたたび外山の頭に血が上る。

「ふざけやがって……この……!」

しかし、もう続けられない。右手は使い物にならないし、喧嘩どころかあまりの痛みに意識を保っているだけで精一杯なのだ。

「どうする?」

太郎は尋ねた。

「まだやるの? それともぼくの勝ち……外山君を止めたってことでいいのかな」

止めたも何も、太郎はただ避けて逃げただけなので、ちょっとニュアンスが違う気もしたし、喧嘩に勝った実感はまるでなかった。なので、太郎は素直に外山の意見を訊いたつもりだった。しかし、それは外山のプライドをいたく傷つけたようだ。

「てめぇは……ぶっころす……おぼえとけ」

食いしばった歯の奥からそれだけ絞り出すと、外山は右手を抱えてよろよろと歩き出す。

「……保健室行く? それとも、救急車呼ぼうか?」

思わずそう太郎が声をかけると、外山は振り返って怒鳴る。

「うるせぇ! 要るかそんなもん!」

おお、意外と元気なのか? 太郎はそう考えて、言われたとおり放っておくことにした。男のやせ我慢を理解する機微は、まだ太郎には育っていない。外山はそのまま距離の近い裏門をこじ開けて出て行ってしまった。見送る太郎は、外山が教室に鞄を置きっぱなしじゃないのかな、と心配していた。

 外山の姿が見えなくなってから、太郎はあらためて彼が殴りつけた塀を見た。なんと、古びた薄いコンクリート塀とはいえ、わずかにヒビが入っていた。

「ひゃー。すごいパワーだ。これ当たってたら、どうなったかな」

実は、それはそれで太郎の興味の対象であった。当たった場合にどうなるか想像がつかず、とにかく今日は避けるのに徹してみたが、自分の身体の防御力は、いったいどれほどあるのだろう? おそらく普通の人間よりはかなり丈夫そうであるのだが、どこまでの衝撃に耐えられるのか。殴られてみたい、という欲求は変態じみて自分でも認めたくないが、殴られたらやっぱりダメージを負うのかどうかは、ぜひ知りたかった。

 ふと思い立ち、太郎は外山のパンチ跡の隣りに立った。右手を引いてかまえ、今日覚えたばかりの外山の右パンチをまねてみる。どかん、という音とともに、太郎の拳は、コンクリート塀に吸い込まれるようにめり込み、拳よりやや大きな穴を開けたのだった。

 太郎は、自分の所業に目を丸くした。まじまじと右手を見つめる。骨折どころか、わずかな傷もついていなかった。うすく付着したコンクリートの粉が、たしかに塀をぶち抜いた証拠である。

(うそぉ? え、やっば! 穴開いちゃったよ)

太郎は左右を見回し、誰もいないことを確かめると、そそくさとその場から逃げ出した。


 午後の授業が始まる前。太郎が無事に教室へ戻ってきたことで、三年二組はざわついた。

 体育館裏への呼び出しは、太郎にしか聞こえないように外山が声を落としたはすだが、給食のあとで普段なら読書にふける太郎が姿を消せば、外山から何を言われたのかくらい、同級生はみな察していた。太郎がどんな怪我をして帰ってくるのか、いやむしろ帰ってこられる状態であるのか、面白半分や興味本位のものも、本気で心配しているものもいたが、太郎が痛めつけられる結果の想定は共通であった。

 ことりも、自分が撒いてしまったタネではあるが、ほんとうに太郎が外山に勝てるのかということについては半信半疑であり、太郎が五体満足のまま教室へ入ってきたときには心底ほっとした。顔に殴られた跡はないし、足取りもしっかりしている。まさか、外山と喧嘩にならずに帰ってきたのか? あるいは太郎が教室を出た目的が、クラスメートの単なる勘違いで、外山の呼び出しではなかったのだろうか。

 昼休み、教室から出て行く太郎を見て、ことりはクラスメートたちから詰め寄られた。なぜ太郎なのか? そして、太郎のあの自信にあふれた冷静な態度はなんなのか? 外山にすごまれているのに、少しも怯えた様子は感じられなかった。いやたしかに喜怒哀楽表現の薄い相手だとは思っていたが、太郎はそんな肝の据わったキャラクターではなかったはずだ。ことりは何を知っている? 佳子や真理に詰問されたが、ことり自身にも言葉にするのが難しい。

「うーん。なんとなく?」

と答えて、呆れられた。そんな曖昧な理由で、太郎に全治何週間かの怪我を負わせていいのかきみは! となじられると、返す言葉がなかった。さりとて、いや本人も言ってたでしょ? きっと大丈夫だと思うよ? とも言いにくい。ところが、太郎は実際に怪我ひとつなく戻っている。佳子たちから「ここはあんたが訊くべきでしょうが!」と目配せをうけ、ことりは仕方なくおずおずと太郎に話しかけた。

「穂村君。あの……外山君、は?」


 ん? と太郎が首を傾げる。なんと答えるべきか?

「……帰っちゃったよ」

太郎は事実だけを端的に伝えることにした。それでまた、教室が大きくざわつく。

 外山に呼び出しを受けたのは、みなの予想通りであったわけだ。しかし、太郎が涼しい顔で帰ってきたことは、予想を大きく覆している。しかも、外山のほうが早退したという。そこで何があったのか、正しく想像できたものは一人もいなかった。詳しく聞こうと席を立ちかけた猛者もいたが、ちょうど五時間目の授業のために五十嵐が教室に入ってきてしまい、出鼻をくじかれた格好になった。

 太郎も、ことりには訊いてみたいことがあった。なぜあの場で、自分の名前を出したのか。かなりの確信を持って、太郎が外山を止められると考えていたのは間違いない。だとしたら、自分の何を知っているのか?

 まさか、昨日のママチャリ追走や、場合によってはクルマ飛び越えジャンプ、はては亜佳音の救出のどれかを、ことりに見られてしまったのだろうか。今朝方、登校してきたことりから、ふと視線を感じたときにも、なんだか違和感があったけれど、おそらく彼女は何か知っているはずだった。でなければ、あの場で太郎の名前を出すこと自体がありえない。その何か、の内容をきちんと確かめておく必要があった。

 五十嵐の数学の授業が長引き、休み時間はほとんど取れなかった。六時間目の授業もすぐに始まり、太郎もことりも、相手を気にしつつお互いに話ができないでいた。どちらから話すにしても、いままでほとんどしゃべったことのない相手同士であったため、きっかけに困ったのも事実である。下手に話しかけに行けばタイミングとして教室中に聞き耳を立てられることになるし、だからといってどこかへ呼び出せば、すわカップル誕生か、告白タイムかといった囃し方をされるのも目に見えていた。クラスメートが飽きるまで、根も葉もないカップルネタで遊ばれるのも面白くはない。お互いの携帯端末の連絡先は交換していないし、共通の知り合いを通して訊けば、それだけで噂のタネをばらまくようなものだった。

(めんどくさいな……)

太郎はため息を吐いた。そして、腹が減っていた。

 給食は一人前しかないので、まるで足りなかった。そしてそのあとの運動。もうお腹は空っぽである。ようやく授業が終わり、生徒たちはばらばらに行動を始めたが、やはりお互いに牽制し合ってしまう。太郎は帰宅部だが空腹に耐えかねて早く帰りたかったし、ことりも女子バスケットボール部の主将を務める身であり、部活動の開始時間に遅れるわけにはいかなかった。結局きっかけらしいきっかけは掴めないまま、それぞれ教室から出て行くことになった。


 翌朝になっても、状況は変わらない。

 登校してきた太郎とことりは、お互いに相手が気になってはいるのだが、話しかける手がかりがない。世間話がしたいわけではないが、それすら意識してしまって逆にできなくなった。その微妙な空気を敏感に察して、クラスメートもあえて二人にその話題を振らない。というか、まず太郎には話しかけに行く友達が普段からいない。生暖かい目で見守るもの、単に面白がっているもの、そもそも関心がないもの、反応はそれぞれであったが、とにかく二人で話してもらうのが先、とじれったさを感じつつみな待っていた。

 そこへ火種が投下された。

 二時間目の始まる頃になって、外山が現れたのだ。しかも、右手を石膏でがっちりと固め、三角巾につった姿で。むっつりと不機嫌な顔で黙りこくった外山は、何も言わずに教室内を一瞥すると、静かに自席に座った。ときおり太郎の席を睨み付けはするのだが、太郎が背中に感じる視線は、なぜか敵意は感じるものの殺気はなく、戸惑いが大きかった。見るからに虫の居所が良くない外山に話しかけられるものは誰もおらず、一瞬だけざわざわした教室も、すぐに静かになった。

 しかし、太郎が無事で外山が右手に大怪我をした状況、これは一体何なのか? 太郎が、ほんとうに喧嘩で外山に勝った? まさか、そんなことがあっていいものか。クラス中が悶々とした疑問を抱えており、フラストレーションが渦を巻いていく。どこかでガス抜きが必要なのは明白だった。

 この日の午前中にも真中の英語の授業があった。しかし外山は何もせず、おとなしく授業を受けた。終始、あからさまに外山を警戒していた真中のほうが、最後は拍子抜けした顔で教室を出て行ったのだった。授業が終わると、太郎は立ち上がり、外山の席の前まで行った。教室中が一斉に二人を見た。何が起きるのか、固唾をのんで見守っている。

「約束、守ってくれてありがとう」

太郎は言った。外山が真中をとくに嫌っているのはわかっている。しかし、今日彼は確かに授業妨害をせずに、おとなしくしていた。

「フン」

外山が鼻を鳴らして尊大に答える。

「勝負は勝負だ。だがな、次はおれが勝つ。それまでの間だけだ」

「うん、わかった」

太郎はにっと笑う。このときのやりとりはそれで終わった。

 外山、太郎に敗北! このスクープは、ただちに学校中を駆け回った。学校への携帯端末の持ち込みは禁止されているにもかかわらず、この日の昼前までには、少なくとも三年生のなかで、このニュースを知らないもののほうが少ない程度には、なぜかあっという間に拡散していた。もちろん、二組以外の生徒では、ガセだと疑うもののほうが多かった。外山のことは知っていても、太郎を知らない生徒が多かったこともある。成績上位者で毎回トップに掲示されるため、名前だけは売れていたが、顔を知っているものはそう多くなかったのである。いったいどんな剛の者が、あの外山に勝ち、さらに病院送りにしたというのだろう? そして、太郎を知っているものは、なおニュースの真偽を疑った。というか、何かの間違いか、ジョークなのではとしか思えなかった。

「知ってるか、外山の話?」

「うん、二組の知り合いから流れてきた。負けたってほんとみたいだ」

「穂村だっけ、どんなやつなんだ?」

「さあなぁ、見たことないんだよな」

「あれだろ、テストの上位者によく名前載ってるやつ」

「いやあれも穂村だけどさ、ほんとに同一人物か? そんなおべんきょできるやつが、外山に勝つって?」

「うーん、いやおれ、去年同じクラスだったけど……喧嘩強いどころか、女にも負けそうなやつだったぞ」

「じゃあやっぱり別人か」

「あるかそんなこと? 二組なんだろ。同じ名前が二人いたらめんどくさい」

「テストのできる穂村は二組なのか?」

「ああ、それは間違いないよ。あと、外山も二組だな、同じにならなくてよかったってほっとしたの覚えてる」

「じゃあ、どういうこと?」

「わからん!」

とくに大半の男子のあいだでは、しばらく寄ると触るとこの話題で持ちきりであった。そして、ことりはとうとう腹を決めた。

 昼休み、意を決してことりは太郎に話しかけた。

「穂村君、話があるの」

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