第6話
できるかできないか、あるいは受けるか受けないか、という問題を別にして、クラス委員の
なのに、よりによって太郎である。本人はそういうタイプと違うと嫌がるかもしれないが、クラスの中ではまずはガリ勉枠であり、喧嘩の仲裁といった荒事からは、最も遠い位置にいた。太郎を名指しするくらいなら、むしろことり自身を含めた一部の活発な女子のほうが、よほど指名されるにふさわしいかもしれなかった。
なにしろ、外山は根っからの喧嘩好きであった。入学した当初から身体が大きく、また服装や態度も際立って悪かったため、教師のみならず上級生からもすぐに目を付けられた。「生意気な下級生をシメる」との名目で呼び出されリンチを受けたが、一対多の喧嘩で相手の半数を返り討ちにしたという。結局取り囲まれて最後は袋叩きに遭うのだが、身体が戻ってから次々にリベンジマッチを仕掛けては勝ち続け、二年生になる頃には、三年生を差し置いて、太郎の通う市立東部中学最強と呼ばれるようになっていた。
最上級生の今年、外山の名は東部中ばかりでなく、市内の中学の喧嘩自慢たちにも広く知れ渡っており、喧嘩して勝つことだけが趣味という、粗暴で理不尽を絵に描いたような外山と、同じクラスになって落胆したクラスメートは少なくない。おそらく今後、クラス単位のイベントのたびに、外山が何かと面倒を起こすトラブルメーカーになることは間違いないと思われていた。誰か外山を御せるやつはいないのか? 教師、生徒のほとんどの、切なる願いではあったのだが。
ことりに、太郎が外山を何とかできるほどに強いと確信できる根拠はまったくなかった。あるのは「きっと大丈夫なはず」という、いわば単なるカンのみである。もしこれで太郎が否定したり慌てふためくようなら、潔く謝って自分が外山と対峙しよう。ことりはそこまで覚悟を決めた。つばを飲み込み、まっすぐに太郎を見つめ返してきっぱりと問う。
「……止められるんでしょ? 穂村君!」
直球を放り込んだ。
クラス全員が、再びことりを見て「はぁ?」と目を見開き、ついで太郎に向き直る。
「ん? たぶん」
頬杖のまま答える太郎に、再度、教室の時が止まった。
あ。しまった、と太郎はほぞをかんだ。いままで挨拶くらいで、ことりとはほとんど話したことがない。すらっと背が高くてスタイルも良く、しかも明るくて運動神経も抜群だ。女子としては魅力のある相手であったが、それでも自分よりずっと背が高いこともあり、認めたくはないがまごうことなきおちびさんの自分は、こちらからも、またことりのほうにとっても、あまり関心の持てる対象ではなかろうと、何とはなしに考えていた。つまり、お互いに無関心な相手のはずだったのだ。あまりにも意外な相手からあまりにも想定しない問いかけが来たので、うっかり取り繕ろうことも忘れ、素直に思ったままを答えてしまった。
(やっちゃった……)
わっと教室にざわめきが戻る。
「穂村、たぶんて……」
「外山を止めるってことだよ、な?」
「できるの?」
「うそぉ?」
「無理だろ!」
「死んだぞ、あいつ」
外山が動き出していた。
真中のことはすっかり眼中になくなった様子で、外山はまっしぐらに太郎の机の横にやってきた。そうして太郎を見下ろし、睨み付ける。
「てめえ、いまなんつった?」
太郎がどう答えたものかと悩んで黙っていると、獰猛な笑いを貼り付けた顔を、上からぐっと寄せてきた。
「おれを、止められるといったのか?」
気の小さいものなら失禁してしまいそうな迫力で、剥き出した歯の奥から言葉が降りかかる。
「ちびのガリ勉くんが、オンナに担がれて舞い上がってんじゃねぇぞコラぁ!」
と、そこでなぜか外山の動きが止まった。
その目に驚きが宿る。
「てめぇ、いまなにしやが……」
そこへ、教室のドアから騒ぎを聞きつけた男性教師が三人、飛び込んできた。
「外山ぁ! 何してる!」
一人は生活指導の
「ち!」
柴田に気がついた外山は舌打ちして顔を上げた。そうして太郎にだけ聞こえる声で告げる。
「おい、穂村。昼休みに体育館裏に来い。いいな?」
ふたたび顔を寄せると、さらに低くドスの効いた声で続けた。
「……逃げんなよ?」
それだけ言うと、外山は太郎の返事も聞かずに、柴田たちが入ってきたのと別の扉から、さっと教室を出て行く。
「こらまて外山!」
三人の教員はすぐに外山を追っていなくなった。
あとには、呆然とした真中と、ざわついたままの三年二組の生徒たち、立ち上がり太郎を見ることり、そして座ったままむすっとした表情の太郎が取り残されたのだった。
昼休み、給食を食べ終えた太郎は、言われたとおり体育館裏へ向かった。
実のところ、ちょっと興奮を抑えかねていた。
(へぇ、呼び出しってほんとうに体育館裏なんだな)
これまで外山と太郎はまったく接点がなかった。同じクラスになったのは、この三年生になって初めてであったが、それ以前にも会話すら一度もしたことがない。外山の好む暴力的な世界と、太郎のいる勉強中心の世界とは、同じ中学に通っていながら、まったく重ならなかったのだ。したがって、外山の武勇伝も、部分的に漏れ聞いたことくらいはあったが大半知らなかったし、関心もなかった。
だから、不良どもが気にくわない相手を体育館裏に呼び出してヤキを入れる、というのはドラマや小説の世界と同じであって、自分の身に降りかかると考えたことがない。その知らない世界をいま垣間見ようとしていると、太郎は正直わくわくしているのを隠せなかった。教室で仏頂面と見えたのは、太郎本人にとっては、興奮した表情を表に出さないための、精一杯のポーカーフェイスの結果であった。
足取りが踊っている、といわれても否定しようのないウキウキそわそわといった様子で、太郎は体育館の裏側をのぞき込んだ。来るのは初めてではないが、あらためて見渡すと、なるほど、狙ったように校内側から見えない建物構造となっている。これなら隠れて悪さし放題であろう、と思えた。
外山は既に待っていた。
「へぇ、逃げずにちゃんと来たか」
外山はにたっと笑い、ついですぐに太郎を睨み付ける。
「……てめぇ、さっきおれの足に何しやがった?」
教室でのことを言っていると太郎にはわかった。
外山が太郎の席まで来てすごんだとき、最後のたんかとともに、外山は太郎を机ごと蹴り上げるつもりだった。ところが、右足を振り出す直前、つま先をぐっと抑えられたのである。気づくと、座ったままの太郎の足先が自分の右足の上に乗り、動きを抑制していたのだった。蹴りの機先を制されて、外山は動けなくなっていた。自分よりずっと軽いはずの太郎の足を、どうやってもはねのけることができないのだ。そこへ柴田たちが駆け込んできて、太郎が踏んでいた足を外したために、外山は教室から脱出できたのである。
「だって外山君、机を蹴ろうとしてたでしょ。それは困るから、止めてもらおうと思って」
「……なんで蹴りってわかった?」
外山の疑問は続く。
「え? いやだって見えたから。これは蹴られそうだな、と」
これには外山もぎょっとなった。
確かに自分の喧嘩はほぼ我流である。きちんとした格闘技を学んだことはなく、せいぜいが気に入った技の見よう見まねといったところだけだ。したがって、フェイントなどはほとんど考えたことがないし、パンチもボクシングでいうテレフォンパンチ、「いまから打つぞ」と叫びながら放っている状態だという自覚はあった。それでも通用してきたのは、力とスピードではめったに後れをとることがなく、来るとわかっていても相手が避けられなければ自分の勝ち、という力押しでやって来られたからだ。
だから正当に武の技術を識る相手とやったら、モーション自体はバレバレなのだろう、とは思っていた。しかし、それをこの太郎に読まれたのが解せない。しかも、読まれただけではなく防がれている。この勉強だけのちび助に、なぜそんなまねができたというのか。
(見えるだと? 確かめてやらぁ)
外山は舌なめずりした。
「で、おれを止められるってのは、本気なのか?」
「うん」
太郎はあっさりと首肯した。
(はったり……にしては、おれを前にして、まるでびびってねぇのは間違いない)
「……できなかったらどうするよ?」
「できなかったら? うーん、考えてなかったけど、そうだな、何が良い?」
「けっ。本気でできると思ってやがんのか。じゃあ、これからてめぇは卒業までおれのパシリだ。いいな?」
「いいよ。じゃあできたらどうする?」
「はっはっは! 笑わせるぜ。なにが欲しいよ?」
「そうだね、授業妨害はもうやめてくれると助かるかな」
「おもしれぇな。じゃあ止めてみろ」
「あ、やっぱりそうなるか」
「やっぱりじゃねぇ、なめんなちび助!」
外山は太郎に駆け寄り、塀の向こう側まで吹き飛ばすつもりで、いきなり前蹴りを放った。
太郎の心拍数が上がった。
ものごころ付いてから、もしかしたらこれは初めてのまっとうな殴り合いの喧嘩である。ただし、負ける気はまったくしなかった。キャンプ前の太郎であれば、外山にすごまれたらきっと、暴力の恐怖に身体がすくんで動けなくなっていたに違いない。しかしいま、太郎に怯えはかけらもなかった。どうあっても負けっこない。それが既にわかっていたからだった。
例えるなら、これまでの太郎がいくら弱いといっても、亜佳音相手に喧嘩をしたら負けるわけがない、ということだ。だから、仮に亜佳音が目の前で精一杯すごんだとしても、それは少しも太郎に恐怖や怯えを生むことはない。そしていまの太郎と外山の実力の開きは、中学生と幼児の差よりもはるかに大きなものであった。
とりあえず、外山がつぎつぎに繰り出してくるパンチやキック、あるいは胸ぐらをつかもうと伸びてくる腕をことごとく避けてみた。いずれも回避はまったく造作もないことだった。スピードに差がありすぎるのだ。外山自身が自覚しているように、彼の動きはわかりやすい。相手を引っかけようとする意思がなく、ただやみくもに当てようとするばかり。たしかに力もスピードもあり、喧嘩の豊富な経験から、動き自体には無駄が少なく最適化されてきているが、それでも喧嘩素人の太郎にとってさえ、何をしようとしているのかが見るだけでわかってしまう。いまの太郎には、外山の攻撃を避けることなど、退屈であくびが出るほどに簡単な作業といえた。
が、太郎は少なくとも退屈はしていなかった。
(おお、蹴りってこう出すんだ)
(右のパンチはこうやるのか、で、左はこうなのか)
(ええ、後ろ向きからでも攻撃できるんだ、すごいなー)
(なんと、こんな蹴りもあるのか)
喧嘩初体験の太郎には、パンチやキックのやり方の知識がない。テレビなどでなんとなく見たことはあっても、自分でやったことがないから、どうすればいいのか知らなかった。ただ人を殴る、というだけでも、そこには明確に必要な技術がある。何も知らない幼児が喧嘩するとき、腕はただぶんぶんと振り回されるだけである。最短距離を最速で当てに行くジャブやストレートといったパンチは、習わぬ限り容易に出てくるものではないのだ。
我流で洗練されていないとはいえ、太郎は外山の繰り出す前蹴り、ハイキック、ローキック、後ろ回しとソバットの間のような蹴り、ジャブにストレート、フックにアッパー、バックブローなどを、技の名前も知らないまま、ひたすら興味をもって堪能し続けた。どれもこれもが、初めて間近で見るものばかりだった。
外山は困惑していた。
正直、はじめの蹴り一発で決着すると考えていたのだ。頭に血が上って全力で蹴りにいったため、むしろ一瞬だけ、これで大怪我されるとちょっとまずいかと、らしくもなく太郎の身を案じたほどだった。しかし結果は、どれほど攻撃しても、どのように攻撃しても、そのすべてがことごとく避けられていた。しかも、その避ける動きがひどい。およそ喧嘩慣れとはほど遠い、角張った動きのみっともない避け方しかできていない。コントかギャグとしか思えないような、コミカルで素人臭く、無駄の多い回避ばかりであった。それ自体は驚くに値しない。太郎が喧嘩などしたことのないタイプなのは、はじめから予想できていた。なのに当たらない。ただの一発も当たらないし、それどころか触らせてももらえない。
「くそっ!」
なんなのだ、これは。
ふざけやがって、と外山は毒づき、攻撃の回転をいっそう上げた。それでも結果は変わらない。目にしている光景が信じられなかった。そして、続けているうちに、太郎の動きが良くなってきていることに気づいた。
あいかわらず素人全開で、きれいでも効率的でもないのだが、それでも太郎の動きはわずかな時間で確実に変わっていた。だんだんと無駄が減り、最低限の動きだけでの回避へと、徐々に近づいてきている。
(このやろう、おれを相手に喧嘩のお勉強かよ!)
自分は練習台か! と怒りに燃えるが、やはりどれだけスピードを上げても一向に当たらない。見れば太郎は目を輝かせて、自分のパンチを、キックを避け続けている。口元がわずかに緩んでいる。外山の背筋がぞっとした。
(……喜んでやがるのか?)
外山は薄気味が悪くなってきた。いま自分が相手をしているのは、ほんとうに普通の人間なのか。もしかしたら何か人外のバケモノが、うっかり人間の姿で現れたのではないか。
空振りは消耗が激しい。だんだんと息も上がってきた。始めてからそう長い時間がたったわけではないが、もとより外山の喧嘩は、勝つにせよ負けるにせよ常に短期決戦である。極端な場合、一発殴って終わりというケースも少なくない。これほどまでに長丁場で続けたことはかつてなかった。全力を出せる時間はもうあまり残っていない。
外山は、生まれてはじめて、意識して喧嘩に頭を使い始めた。
太郎の興奮は続いた。
楽しい! 本気でそう思っていた。ただ見ているだけ、避けているだけではあるが、喧嘩が始まってからどれほど多くの情報を手に入れたか。学びを得たか。しかも、見たものはすべて血肉となってすぐ動きに反映されていく。自分の動きがどんどん向上していくのがわかる。つまりは、上達を実感できている。いままで、自分がどれだけ身体の使い方を知らずに生きてきたか。こんな動きがある、こんな使い方もできる。それらひとつひとつが身に付いていく。これが楽しくなくてなんなのか。
ふと、避けるだけではなく、攻めてもみたいな、と思ってしまい、太郎は慌てて自分を戒めた。いま見た動きを、パンチを、キックを、自分でもやってみたい。その誘惑は大きかった。しかし、もしまともに当てたら、それだけでこの喧嘩が終わってしまうことは明らかだったし、なにより太郎には大きな迷いがあった。
(ぼくの力は、ぼくが望んで、努力して手に入れたものじゃない)
体格は仕方がない。外山の強さに、恵まれた体躯が大きな影響を持つのも、別に本人の努力ではないが、これは天与の配分としてカウントせざるをえないだろう。自分だって、たとえばクラスメートとまったく同じ勉強量でも、たいていの相手よりテストでよい結果を出す自信がある。これをずるいと言われたら立つ瀬がない。だが、恵まれた頭脳があっても、勉強せずによい成績は得られないのだ。
だからこうした喧嘩の強さであっても、外山が何度も殴り合いを繰り返し、磨き上げてここまでにしてきたものであることは間違いなかった。強くなりたいと願い、負けて悔しい思いをしたこともきっとあったはずだ。努力の対象、方向としてどうなのかと思うことはあるが、それでも外山が自分でまさに勝ち取ってきた財産である。
それに引き換え、太郎のいまの強さは、キャンプの朝に突然手に入れたものだ。欲しいと願ったわけではないし、何かの修行をしたり対価を払ったものでもない。理由もわからず、起きたら突然強くなっていた。もしかしたら、次には得たときと同じように、突然なくなってしまう強さかもしれない。亜佳音を助けたのはやむを得なかったと思う。あのとき、できるのにやらないという選択肢はなかった。ただ、誰かのために使うことはあっても、いま自分の欲望のために行使することが正しいのか。努力もせずに得た力で、他人を屈服させて悦に入るのは、褒められた振る舞いではないと思った。だから太郎は外山に手を出さない。ひたすらに避けて避けて、この喧嘩が終わるのを待つのだった。
それでもやはり、太郎が喧嘩の素人であることに変わりはない。ひとつひとつの回避行為は練度を増していくが、太郎の動きには流れというものがなかった。一発ずつの攻撃を都度避け続けているだけで、先読みもなければ戦略もない。まして自分から勝負をコントロールすることなどおぼつかなかった。
やがて、太郎は自分の背後が学校の塀に触れるところまで来ていることに気がついた。それだけではない。次に来る蹴りを避けたら、背後どころか、塀の角の部分に追い込まれてしまう。そして、外山が前に立ち塞がった場合、もはや逃げるところがなくなるのだった。太郎はこの喧嘩が始まって初めて、楽しいに留まらない、ぞくりとするほどの歓喜を覚えた。
(いつの間に? これが攻防の組み立てか! 先を読むってことか! すごいな!)
たとえば詰め将棋あたりはわかりやすいし、ゲームの世界でなら太郎にも経験がある。しかし、それらは考えることだけに時間を割けるものだ。こうして身体を動かしつつ、同時に勝負の行方をコントロールするために頭を使う世界は知らなかった。太郎にスポーツ経験が少ないせいもある。対戦のあるスポーツ競技なら、勝つためにゲーム戦略の重要性は当たり前のことだが、学校の体育以外にほとんど何もしたことのない太郎には、そうした体験もなかった。
外山は耐えていた。
ここまで長かった。懸命に考え、太郎の避ける方向を読み、一方向だけに攻撃を集中して、動きをコントロールしてきた。さいわい、自分の狙いについて太郎に気がついている様子はまるでなく、ただただひょいひょいと逃げ続けるだけだった。それでもようやく、塀の角に太郎を追いつめることができた。さすがに体力の限界が来ていたが、もう太郎に逃げるスペースは残っていない。こちらのフラストレーションも満タンだ。狙うのは、太郎の腹だった。
「これで終わりだ!」
満を持して、外山は渾身の右パンチを振るった。
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