第5話
ともかくも、従姉妹が無事でほんとうによかった。相当に怖い思いをしたに違いない。次に亜佳音と会うときには、最大限に甘やかしてあげよう、とことりは自らに誓った。自室に戻ったあとも、自分だけが知る情報と、いま父親から聞かされた話をどう結びつけるのか考えていた。
(あれはたしかに穂村君だった。それは間違いない)
愛用のバスケットボールを抱いてベッドに寝そべりながら、ことりは亜佳音を抱っこしていた同級生の顔を思い浮かべた。おそらく、亜佳音を連れてきたという謎の少年が、彼だったのだろう。しかしその前に、亜佳音はクルマにさらわれたのだという。そこから亜佳音がどうやって、一人でクルマから下り、わんわん泣きながら同級生の少年に抱っこされたのか。その経緯がまったく想像できない。
クルマでさらわれた……クルマ……クルマ……ん?
ことりはむくりと起き上がる。無意識に、ボールを指の上でくるくると回しながらさらに考えた。今日、ことりと父の目の前で事故を起こしたセダン。もしや、あれが亜佳音をさらったクルマではなかったのか。根拠はない。しかし、事故のあとの怪しさ満点の逃げっぷり。そしてなにより、クルマの事故の直後に亜佳音を見たという事実。これは偶然といって良いのか。ことりのカンが、何かを告げていた。きっと偶然などではない、と。
あのセダンが誘拐犯のクルマだったとして、どうやったのかはわからないが、事故を起こしたのをチャンスに、彼が亜佳音を中から救い出したのではないか? だがこの想定には、少なくともふたつの大きな難問がある。まずひとつめには、太郎はあのクルマに亜佳音が乗っていると知っていなければならない。なおかつ、亜佳音は無理矢理さらわれていることも同時に承知していなければならない。ふたつめとして、事故で停止していたとはいえ、誘拐犯が同乗しているクルマから、大人を相手取って亜佳音だけを助け出さなければならない。
(うーん。穂村君にそんなことできるかしら?)
いや、太郎に限らず、誰であれ中学生には、まずできるはずのないことだった。
では、誘拐犯が事故で観念して、もしくは改心して亜佳音をクルマから下ろした? そこへちょうど通りがかった太郎が亜佳音を受け取り、親元まで連れて行った? いやそれもおかしい。誘拐犯です、子どもを返すので保護をよろしくお願いします、と通りすがりの中学生男子に頼むわけがない。もちろん太郎も、見知らぬ相手から素直に三歳児を受け取ったりしないだろう。
まてよ? もし太郎が、あのセダンに何らかの手段で一緒に乗っていたとしたら? すでに誘拐犯と承知の上で、クルマの中に潜り込んで運転を妨害したとか、あるいは車内でなくても、たとえば外側にしがみついていたとしたら? それがもとでセダンは事故を起こし、止まったすきに太郎が亜佳音を助け出すことができたのでは?
(いやー。無理よね……)
そんなアクション映画ばりの荒事など、太郎に実行できるわけがなかった。
しかし事実として、亜佳音は太郎によって、両親の元へ届けられているのだ。ことりは太郎が警察に「亜佳音が一人でいたところを保護した」と答えているのを知らない。それでも、なぜか当然のように太郎が何かをして亜佳音を助けたと考えていた。そこには偶然や幸運だけがあったのか、それとも何らかの必然があって、太郎が亜佳音を助け出したのか。太郎には、ことりの知らない隠された力があったりするのだろうか?
(だったらすごいんだけどなぁ)
アメリカにいるという超人間とか蜘蛛男みたいな? と考え、だがヒーローの秘密を知る女性はたいていの場合、それぞれのパートナーだけであることに思い至って、ちょっと頬が熱くなる。
(いや穂村君だよ? ないない、それは)
自身の好みとはかなりかけ離れた、細くて小さい太郎の姿を思い浮かべ、ことりはぶんぶんと頭を振った。肉体派の活躍をするヒーローの対極にあるような太郎から、なぜ大好きなアメコミの武闘派キャラクターを連想したのだろう?
恥ずかしいので誰にも明かしたことはないが、なにせことりの理想の相手は、「お姫様抱っこしてくれる人」なのである。別にボディビルダーのような筋肉隆々のマッチョでなくても良いのだ、自分が軽々と抱き上げられるところを想像できるような相手であれば。ただ申し訳ないが、自分より小柄で細い太郎相手に、そのイメージはまったく似つかわしくなかった。にもかかわらず、こんなにも引っかかっているのはなぜなのだろう? ことりはさらに考えに沈む。
ひとつだけ、思い当たることがあった。
(亜佳音ちゃんの片手抱っこだ)
太郎は、片手で亜佳音を抱きかかえ、片手で自転車を引いていた。それが、あまりにも何でもないように行われていて、かすかに違和感があったことに気がつく。三歳児とはいえ、すでに乳児ではない亜佳音を、ずっと片手だけで抱っこし続けるのは、考えるほど楽なことではないはずだ。
いつからその態勢であったかなど知るすべもないが、太郎はまったく片手抱っこを苦にした様子がなかった。それはあの外見の太郎に似合わない行為で、強くことりの印象に残っていたのだとわかった。……ついでに、アレなら実は自分のお姫様抱っこもできそうなのでは? とちょっと考えてしまって、ことりは慌ててイメージを打ち消した。三歳児を軽々と抱っこできたからといって、中学生の自分まで同じように持ち上がるわけがない。いったい、なぜこんなふうに考えてしまうのか。
(え、まさかわたし、実は穂村君に抱っこしてもらいたいとか? うそぉ、無理あるよそれ)
ことりはぎゃーと叫んで枕に顔を突っ込んだ。先刻よりさらに頬が熱を持っていた。
同級生が、自分の顔を思い浮かべて恥ずかしさに身もだえしているなどとはつゆ知らず。太郎は時間を早めてもらった夕食に、またも母親を驚かせる食事量を腹に収め、それでも実は満腹できなかったものの、ひとまず落ち着いて自分の部屋へ戻っていた。
ベッドで横になり、今日一日の出来事を振り返る。昨日の夜までは、何も変わらぬ普通の日々であったのに、今朝から自分自身にびっくりさせられっぱなしであった。
(いや、ちょっとすごかったな。こんないっぺんにいろいろ起きてしまうと、驚くというよりあきれちゃうよな)
新調した度の入っていない眼鏡を外し、じっと手のひらを眺めてみた。握ってみても開いてみても、見た目は何も変わったように見えない。自分の身体といえど、普段からそんなに事細かに観察して記憶しているわけではないのだ。だからといって違和感などもない。しかし、いまやこの手は、とんでもない力を出せるのだと、太郎は知っている。
試しに財布から硬貨を取り出す。はじめ百円玉が出てきたのだが、ちょっと考えて十円玉に取り替えた。そのまま、人差し指と親指だけでつまみ、ぐっと力を込めると、十円玉は飴細工のように軽々と、くの字に折れ曲がり、最後は平たく潰れてしまった。
(うひゃー。マンガみたい)
これでもまったく全力にはほど遠い。次に潰した十円玉を開いてみた。それも難なくできたが、一度折れたあとは残り、危惧したとおり、お金としては使い物にならなくなってしまった。
力だけではなかった。聴力もずいぶん上がった。いまも、階下で京子が食器を洗いながら歌っている鼻歌が、いくつものドア越しにも関わらず、はっきりと聞き取れる。目に関しては、変化が単に視力の向上にとどまらなかった。
(ハエがいるな)
部屋の中に、一匹のハエが入り込んでいた。飛んだり止まったり、聞こえる羽音がうっとうしいことこのうえない。そのハエが飛ぶ軌跡を、太郎はすべて目で追うことができた。ふつうなら、飛んでいるところを一瞬目にしても、すぐに姿を見失ってしまうのに、どこをどう飛んでいるのか、どこで止まったのか、視覚で完全にとらえることができたのだった。
そのために、ハエがちょうど顔の前に飛んできたとき、ひょいと指先で捕まえることさえできてしまった。手のひらで握って捕まえたのではない。指先で、ハエの羽だけをつまんだのである。いきなり捕獲され、ハエは必死に脚をばたつかせていた。昔の剣豪が、箸でハエを捕まえる逸話は知っていたが、実話なのか怪しいものだと疑っていたし、まさか自分に似たようなマネができるようになるとは思いもよらなかった。太郎は苦笑しながら立ち上がり、窓を開けてハエを外へ放り投げた。
「ふぅ。連休終わっちゃったなぁ」
明日からまた学校が始まるのだ。
「おっはよう!」
翌朝、登校したことりは三年二組の教室に入ると、クラスメートに手を振った。
すでに席でおしゃべりしていたのは、仲の良い
「おおとり、おはよ」
「やほー、おおとり」
友達は誰も、ことりのことをことりとは呼ばない。
「連休終わったねー」
「すぐだよ、早すぎ」
「夏休みまでどう耐えればいいのさー」
そばに行くと、ことりは二人を見下ろしながら、通学鞄を机に下ろした。そう、ことりは背が高いのだ。
小学校の低学年までは平均レベルだったのだが、高学年になって急に伸び出し、あれよという間にクラスでいちばん背の高い女子になってしまった。中学に入っても成長は止まらず、いつの間にか友達を見下ろす高さになっていた。
「ことりってさ、名前負けだよね」
「なにそれ、なんか失礼な」
「いやだって、どう考えたって小鳥じゃなくて大きい鳥でしょ」
「それ、負けじゃなくて勝ちなのでは?」
「え、そうなの?」
「勝ちとか負けとかやめてよね」
「まあとにかく、小鳥じゃないよねってこと」
「よし、じゃあおおとりだ!」
「え、やだちょっと、そんなのやめて!」
「はい、けってー!」
「よっ、おおとり!」
というような友達とのやりとりがあり、はじめはいちいち反発していたことりも、たしかに自身がことりという名前から想像できる小さくて可憐な女子のイメージではないな、と思うところもあって、結局あきらめ、定着してしまった。読書家の佳子が「えー、いいじゃない、おおとり。ほら、一文字で鳳って書くと、あれだよ、フェニックスのことだよ」などと言うものだから、つい「うん、それはちょっと良いかも?」とことりが考えてしまったせいもある。そのあとで真理が「大きな鶏でおおとり……闘鶏?」とつぶやき、ひと悶着起きたことは早く忘れたい。
ことりがふと視線をあげると、窓側の並びの席には太郎が座っていた。こちらも佳子に劣らぬ、というかおそらくクラス一の読書家であり、いまも何かの文庫本を一人で読んでいた。とくに見つめたつもりはなかったが、すぐに太郎は見ていた本から目線を外し、ことりのほうを向いた。どきっとしてことりが目を逸らす。
(うそ、見てたの気づいた?)
できれば昨日の誘拐事件について、顛末を太郎に直接訊いてみたい。しかし、そもそもこれまでほとんど話したことがない相手である。どう切り出して良いのかわからなかった。いや、それ以前に、あの話を太郎にしていいものなのかどうか? とぼけられたら嫌だし、もしも自分の勘違いだったらもっと恥ずかしい。真顔で「何の話?」とか切り返されたら言葉がない。ことりがちょっとしたもやもやを抱えているうちに、すぐに担任の
事件が起きたのは、午前中最後となる四時間目の途中であった。
英語教師である
この二人は相性がよくなかった。新学年早々の四月にも、授業態度の悪い外山を真中が注意し、外山がその言い方に反発して、あやうくつかみ合いになりかかった。このときは、クラスの男子や、騒ぎを聞きつけて隣の教室から駆けつけたほかの教師の取りなしで、何とか大事にならなかったものの、以来真中の授業は外山がわざとらしくふいっと教室から出て行ったり、当てられても無視して答えなかったりと、まともに受けようとしなくなった。
授業を真面目に受けない外山の態度がまず発端であり、もちろん褒められた話ではなかったが、真中も頑なな対応を曲げず、真っ向から押さえつけようとするばかりで、二人の溝は深まる一方だった。体格では、中学生であっても外山のほうが真中を上回って大柄なため、ことりの目にも、喧嘩になれば真中に勝ち目はなさそうに見えた。それはおそらく外山も、また真中も承知していることであり、それゆえに外山は真中をなめてかかり、真中は外山になめられまいと必要以上に強硬な姿勢で臨んでいるように感じられた。
「その足を下ろしてちゃんと座れといってるんだ、このクズめ!」
興奮のあまり、真中がつい口を滑らせた。外山が得たりとばかり、にやっと笑って立ち上がる。
「クズ? 生徒に向かって、そんなクチきいていいのか、え? センセ?」
一瞬、真中が怯むのがわかった。しかし、真中としても引くに引けなくなっていた。
「ふん、教師に対する言葉遣いも知らないクズを、クズといって何が悪い?」
「じゃあそのクズよりえらいってとこを、ちゃんと見せてくんねぇかなぁ、センセよぉ!」
言うなり、机を蹴り倒して外山が真中に向かう。右の拳はすでに振りかぶられている。
女子生徒の悲鳴が重なった。
「きゃあああ!」
「誰かやめさせてぇ!」
「外山君を止めて! 穂村君!」
立ち上がったことりの叫びが、ひときわ大きく教室内に響き渡った。とたんに、教室がしん、と静まった。
(穂村?)
(いま穂村って言ったか?)
(え、太郎のことだよな?)
(太郎? なんで太郎?)
みな一斉に、まず声の主であることりを注視した。外山でさえも、真中に殴りかからんとするまさにその姿勢のままで動きを止め、ことりを見ていた。
「あ……」
ことりは、いま自分がとっさに何を叫んだのか初めて気がついたように、口元を押さえて立ちすくんだ。そしてことりを含めたクラスの全員が、今度は太郎に目を向けた。太郎は机に頬杖をついたまま、眼鏡の奥から、きょとんとしてことりを見返していた。
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