第4話
もうそろそろ、女の子がさらわれた現場に近いというあたりまで来て、太郎ははじめに声をかけた女性の姿を目で探していた。たぶんこの子の母親だろうと思っていたためだ。あのときの様子を見る限り、こちらの頼んだとおりに警察を呼んでくれたかどうかは怪しいものだったが、少なくとも動かずに待っていてくれたら、この子を返すことができる。
ところが、件の女性は見当たらず、まったく別の女性が血相を変えて太郎めがけて駆け寄ってきた。
「亜佳音!」
びっくりはしたが、どうやら女の子のことを知っているらしい。はじめの女性よりはいくらか年配で、もしかしたら太郎の母親と同じくらいに見えた。
(へぇ、あかねちゃんというのか、どんな字を書くのかな?)
茜かな? 朱音かな? それとも紅音? いっそひらがなやカタカナとかかな? 立ち止まった太郎がそんなことを考えていると、当の亜佳音は女性の声に反応して目を覚ました。
「! ママ!」
満面の笑みで駆け寄る女性を見る。
(え? ママ? てことは、この人がお母さん?)
じゃあさっきの人は何だったんだ? まさか関係ない人だったのか? 疑問符の嵐に包まれた太郎であるが、見れば女性は亜佳音の落とした靴の片方を握りしめている。それに亜佳音本人の反応が何より、この人こそが母親であると示していた。だが、駆け寄ってきたのは亜佳音の母親だけではなかった。その後ろから「世羅さん、お待ちください!」と呼びかけながら、制服の警官が二人、追いかけてきていたのだった。
(あれ、じゃああの人、警察はちゃんと呼んでくれたのかな?)
いろいろわからないことだらけであるにせよ、まずは亜佳音を母親に返すことが先だ。亜佳音自身も飛びつくようにして、太郎から女性の腕に移っていったのだった。
「亜佳音! 亜佳音! 良かった無事で!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、女性は亜佳音を抱きしめた。亜佳音のほうも「ママ」と嬉しそうに女性にぎゅっとしがみつく。太郎はほっとして目元をほころばせたが、その太郎の前にぬうっと立ち塞がったのは、追いついた警官のうちの一人だった。大きい。太郎より頭ひとつぶんは背が高かった。うらやましい。
「お子さんで間違いないですね?」
少し小柄なもう一人の警官は、亜佳音の母親のほうに話しかけている。とはいえ、母親が受け答えできるようになるまでには、もう少しかかりそうだ。
「きみは? あの女の子とどこで?」
ふと視線を戻すと、目の前の警官にかなりきつい調子で尋ねられ、太郎は困惑した。
(え、なんかぼく疑われてる?)
「教えてもらえないか。あの子とはどこで一緒になった? なぜきみはあの子を連れていたんだ?」
さて困った。なんと答えたものか。
いやぁ、クルマで連れ去られるとこをちょうど目撃したので、この自転車でおっかけて、取り戻してきたんですよ、ハハハッ! ……だめだ、それは一番してはいけない答え方だ。
「うーん、ぼくもよくわかんないんですが。小さな子が泣いてたんで、迷子なのかなと」
わかりません! これで通すしかない! そう決めた。
「迷子? 一人でいたのかい? あの女の子が」
「ええ、そうです。ぼくこそ訊きたいんですけど、あの人がお母さんでいいんです、よね?」
太郎は亜佳音を抱いて、未だに泣きじゃくる女性を見る。
「ん? ああそうだ、それは大丈夫。で、どこであの子を見つけたの? ほかに大人はいなかったのかい」
どこと言われても、正確な場所や住所なんて太郎にもわからない。亜佳音を確保したおおよその場所を伝え、その場には誰もいなかったことにした。
「誰も、か。ふうむ。で、きみはなぜここに?」
「え?」
なぜとはどういうことか。
「いや、あの子を見つけたという場所からはけっこう距離がある。どうしてこっちに来たのかな」
そりゃ、さらわれた現場だからですよ、当たり前じゃないですか! ハハハッ! ……これもだめだな。ええっと。
「……ぼくのうちがこっちなので」
これは嘘ではなかった。
「周りに保護者らしい人がいなかったので、ぼくも困ったんです。で、とりあえずぼくのうちのほうへ帰ることにして、途中に交番とかあったら連れて行こうかな、と」
苦しい。苦しいが、これくらいしか思いつかない。
「110番しようとは思わなかったの?」
なるほど、通報という手もあったか。
「……ああ、そうすれば良かったのか」
素直に、気がつかなかったと白状した。これも嘘ではない。
そのタイミングで、亜佳音の母親についていた警官のほうが、大柄な警官に「ちょっと」と声をかけてきた。それで二人の話し合いが始まってしまい、太郎は放置されることになった。小声で話す二人だったが、太郎の耳には会話の中身がほぼ完全に聞き取れていた。
「世羅夫人はちょっといま無理ですね。話を聞くには少し時間たたないと」
「仕方ないな、子どもが無事にもどったんだ、慌てる必要はないだろう」
「連れ去りの一味と関係あると思います? あの少年」
「どうだろうな。いまのところではなんとも。ただ、あの女の話だと、クルマだと言ってたろう?」
あの女? 太郎がはじめに声をかけた女性のことだろうか。しかし言い方が引っかかる。これではあの人も誘拐犯の一味のような?
「あっちもちょっと錯乱状態だしな。詳しいことは聞かされずに片棒かつがされたんだろうさ」
「なんか気の毒ですね」
「ふん、おおかたバイト感覚でやったことだ。儲け話につられた自業自得だよ。たださらったのは大柄な男だとか言っていたからな。知らない相手というのにはまだ確認が必要だが、少なくともこの小さい彼じゃあなさそうだ」
うるせいわ。小さくてラッキーとか言わないからな? むっとした太郎は帰ることにした。
「ぼく、もういいですよね、帰っても」
「うん? あ、そうだな」
「じゃあ、これで!」
警官がなかば反射的に返事したのにかこつけて、太郎はさっと自転車にまたがると、早々にその場から逃げ出した。母親に抱っこされた亜佳音だけはちょうど目があったため、にっこり笑ってバイバイすると、かわいい手を振り返してくれる。
「ちょ、ダメです。身元確認まだですよ、あの子」
「あ、そうだった! きみ、ちょっと待って! 名前と連絡先を……っておい、きみ!」
太郎は慌てる警官二人を聞こえなかった振りで置き去りにして、今度はあくまで常識の範疇で、ママチャリのペダルをせっせと踏んだのだった。すぐ近くに警察車両二台が停めてあり、そのうちの一台の後席に、はじめに声をかけた女性がうなだれて乗っているのを、太郎はすれ違いざまにちらりと見て「あ」と声を上げた。
(片棒かつがされた、とか言ってたな……?)
彼女が、はじめに思った亜佳音の母親でなかったことには驚いた。悪い人には見えなかったけれど、誘拐犯一味側ではあるものの、だまされて巻き込まれた、という感じなのだろうか。確かに進んで手伝ったという態度ではなかった気がするが、まあどちらにしてもそれは警察の仕事で、自分にはもう関係のないことだ。太郎はそれよりもっと大きな問題である空腹をなんとかするべく、家路を急ぐのだった。
ことりはびっくりして椅子から転げ落ちそうになった。
「ゆうかい!? 亜佳音ちゃん、人さらいに遭ったの? うそ、何それどういうこと?」
帰宅してしばらくたった頃、亜佳音の父親である実兄と連絡を取った父の幸夫が、リビングにいたことりに青い顔で告げてきたのだった。
「ああ、いまは大丈夫、無事に戻ってきたんだそうだ。だが、一度さらわれたのは間違いないんだと」
ことりは別の意味で青くなった。
(え、まさか……誘拐って、穂村君のこと?)
もしや自分は、まさに同級生が誘拐犯となった瞬間を目撃したのではないのか?
「うーん、聞いたこちらも、まあよく判らない話なんだけどな」
幸夫の話は、又聞きとはいえ非常に要領を得なかった。誘拐犯は捕まっておらず、まだ捜査段階とのこともあり、具体的なことについては詳しく話してもらえなかったとも言っていたが、それにしても曖昧な点が多く、つながりもはっきりしない。
それでも想像を交えて事件全体を組み立ててみると、おおよそわかっていることはこんなふうだという。
まず、ことりの伯父の世羅武雄は、妻と一人娘(つまりことりの従姉妹、亜佳音のことだ)の三人家族であった。まだ三歳の亜佳音はひとりで留守番できないため、両親の仕事の都合でシッターを手配してもらうことが、これまで何度かあったようだ。ことりの家で預かったこともあったが、こちらも武雄の頼みたい日に必ず預かれるとは限らず、都合が合えば受け入れてきたものの、今日は頼まれていなかった。
今日、業者を介して手配されたシッターの女性が、いつもの慣れた相手でないことに、武雄たち夫婦はちょっと違和感を覚えたそうだが、きちんとした業者からの紹介であったため、とくに異論を挟むでもなく家に招き入れたという。初めての相手と亜佳音との相性が少し心配、その程度の気持ちであった。
ところがそのシッターが、突然亜佳音を家の外へ連れ出したらしかった。本来、子どもを家から出さないように、庭先程度であればともかく、少なくとも家の敷地内には留まるように、という依頼をしていたにもかかわらず、シッターは家から出た。亜佳音はシッターが困るようなわがままをいうタイプではなく、さらにインドア派で、どちらかといえば屋内で過ごす方を好んだ。だから、泣いて外へ遊びに行くとむずかる亜佳音を持て余し、シッターがやむなく外出を選んだということは考えにくい。むしろ、亜佳音を誘導、もしくは無理矢理に、外へ連れ出したとみるべきだろう。
その日、亜佳音の母親である
「え、それで警察? シッターと子どもが家にいないくらいで、警察来てくれるの?」
「そこはほら、なんか事情とか背景とか権力とかあるんじゃないか? よくわからんけどさ」
武雄は、二年前から、ことりの住む市の市長を務めている。
そもそも世羅家が、代々政治家血統なのだった。市会議員から自治体の首長、国会議員にいたるまで、一族からは何人もの政治家を輩出している。特定の政党に帰属しない無所属主義のため、国政において大臣などの要職に就いたものはいまだなかったが、地方としてはかなり名門の「センセイ」の家系なのである。自身が政治家にならなくとも、議員秘書や政策秘書などをしている者もいたので、幸夫のように、まったく政治に関わったことのない普通の会社員のほうが、一族の中ではむしろ異端といっていいほどだ。
「ふーん。市長サマのおうちからの要請では、警察も無視できませんってこと?」
「さあなぁ。どうなのかなぁ」
あるいは、無視できないような事情がすでに発生していて、警戒中であったのかも? とことりはふと考えたが、ではそれが何なのか? ということについては想像の外だった。
駆けつけた警官とともにまず家の周りから亜佳音を探し始めたところ、それほど離れていない路上で、茫然自失したまましゃがみ込んでいるシッターを発見した。しかし娘の亜佳音はおらず、混乱した状態のシッターから何とか聞き出せたのは、どうやら亜佳音がクルマで連れ去られたらしいことだった。シッターも、まさかそんなことになるとは思っていなかったと泣きながら繰り返すので、さらに問い詰めると、どうやらはじめから、亜佳音を外へ連れ出す目的で、シッターとして市長の家に入り込んだらしい。言われていたのは外出させるところまでで、誘拐することが目的であるとは知らされてなかったと主張するシッターに、にわかに犯罪計画めいた状況となって、多佳子はおろおろと取り乱し、警察は緊張感を強くした。
と、そこへひょっこり亜佳音が戻ってきたのだという。それも、見知らぬ少年に連れられて。
怪我もなく、無事に身柄を確保された亜佳音は、念のためにいちど病院で異常がないかひととおりの診察を受け、先ほど両親とともに帰宅したところだと幸夫は言った。無事で何より、ではあるのだが、この帰ってきた状況もはっきりしないことが多く、警察のうっかりで、亜佳音と一緒にいた少年が誰なのかは確認できていないとのことだった。漏れ聞く話では、一人で泣いていた亜佳音を、迷子と思って少年が保護してくれたらしいのだが、クルマで連れ去られたはずの亜佳音が、一人で解放されていたというのは話が変だ。シッターの仕込みまで行っているのだから、誘拐する相手を間違えた、ということはないだろうし、予定外のトラブルや何かの手違いでもあったのか、あるいははじめからちょっと脅かすだけのつもりだったのか。それでも、家から遠く離れたところに三歳児を一人置き去りにすれば、何が起きるかわからない。誘拐犯に関係がなくとも、本当に事故に遭ってしまったりしたら、それは脅しにならないだろう。逆に、危害を加えるために放置したのだとしたら、今度は確実さが足りない。どちらにしても中途半端なのだ。
誘拐に使われたクルマの情報が集まらないことも、高い計画性があったのではないか、という疑いの根拠になった。コンビニエンスストアや街の防犯カメラに、一切それらしいクルマが映っていなかったのだ。周到にカメラのないコースを前もって選び、逃走した可能性があった。なのに、なぜ亜佳音は無事に帰ってくることができたのか? 手がかりの不足ももちろんだが、犯人像の曖昧さに、警察も頭を悩ませているという。
「ことり、そういえばおまえ昼間、亜佳音ちゃんを抱っこしている中学生を見たとか言ってなかったか?」
どきっとする。
「あ、うん、見た……と思うけど、見間違いかもしれないし、よくわかんない」
「そうなのか? いやその男の子ってのが、亜佳音ちゃんを保護してくれた子なのかもしれないと思ったんだが、おまえが顔でも覚えているなら、兄貴に連絡しても……」
「無理無理、むーりー! 見たって言っても横顔ちらっとだよ? ぜんぜん覚えてなんかいないよ。やめてよ? そんなことで伯父さんに連絡なんて」
娘の剣幕に、幸夫はわかったわかったと手を振った。
「まあそのシッター? は捕まってるんだからさ。そのうちに、もうちょっとなんかわかるんじゃないかな」
「うん……とりあえず亜佳音ちゃん無事ならわたしはそれでいいけどね」
「まあな。それが一番大事だな」
そこへ、二人とは別に出かけていたことりの母親の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます