第3話

 女の子よりも、太郎のほうがびくっとした。女の子は、目を開けたはじめの姿勢で、じっと太郎の顔を見つめている。

「……どこか、痛いところはない?」

見つめ合いに間が持たなくなり、太郎が訊いた。太郎の声に、はじめて女の子がぶるっと身震いした。

「痛いところ、あるかな?」

ゆっくりと、もう一度訊いてみた。どうやら通じたようで、女の子はふるふると首を横に振った。

「気持ち悪いとか……うーん、おえってしちゃいそうとかは?」

これもまた、無言で首を横に振る。

「じゃあ、ちょっと立ってみようか」

靴が片方なかったので、履いていない足の下に自分の手のひらを置き、女の子を下ろして立ってもらった。とくに支障なく立てるようだ。

「痛いところ……なさそうだね。わからないけど……大丈夫っぽいかな。よかった。じゃあお母さんのところへ戻ろうか」

お母さん、という言葉を聞いた瞬間、女の子の表情がぐっとゆがむ。あ、と太郎が思ったのもつかの間、女の子は激しく泣き出した。おもわず抱きしめると、女の子は太郎の首にぎゅうっと力いっぱいしがみついてきた。その姿勢でわんわんと泣き続ける。

「そうだよね、怖かったよね。よかった、取り戻せて」

泣いてくれたことにむしろ太郎はほっとして、女の子を抱きかかえ立ち上がった。セダンの大男はまだ気絶したままだ。充血した目の運転手もいたはずだし、ほかにも乗っている人がいるかもしれないが、とくに動きはない。警察に突き出したいが、どうやってこうなったのか経緯を説明させられたりしたら、相当に面倒な話になるだろう。ここは放置することにした。

 太郎は女の子を片手で抱っこし、もう片方の手で京子のママチャリを引いて、来た道を戻り始めた。


 誘拐犯は必死に逃げ、太郎も懸命に追いかけたために、実は相当な距離を移動していたようだ。歩いて戻るには、思ったよりずっと時間がかかってしまった。しかも抱っこしている女の子は途中ですやすや眠ってしまう。せっかく無事に済んだ自転車だったが、この状態では使えなかった。途中で落ちていた女の子の携帯端末を拾い、液晶画面が割れていない幸運にほっとしながらストラップで首にかけてあげた。元のところへ帰ったら、靴の片方も残っているといいんだけれど。そんなことを考えつつ太郎は歩いた。

 そして、太郎はまたもお腹がすき始めていた。昼に帰宅したときのような、時間を追ってどんどんひどくなってくるようなことはないものの、それでも相当に強い空腹感が、太郎を悩ませた。一体自分はどうしてしまったのか。今朝から、本当にどうかしている。まるで違う人間になってしまったかのようだ。

 太郎はまじめに、自分が前の自分と同じではない可能性について考えてしまった。自分が昨夜の自分と同じ人物である、と思い込んでいるだけで、理由はわからないが、実は全くの別人なのではないか? そう考え始めたのだ。まず、記憶や知識には問題はなさそうだ。幼少の頃のことも、昨日のことも、学校や家族、友達のことも、なにひとつ思い出せないことはなかった。

 では脳ミソではなく、身体のほうはどうなのか。容姿も変わってはいないはずだ。自分で自分の顔の細部は確かめられないが、目に見える手足は、記憶にあるほくろなども含めてとくに変わった気はしない。家に帰ったときも、母親に眼鏡以外で不審がられるようなことはなかった。急に背が縮んだり……いやいまより縮んだら本当に困るのだが、逆にぐっと伸びたり、という変化も起きてはいないようだし、太ったり痩せたりもしていない。洗面所の鏡で見た顔は、いままでどおりであったと思う。

 だが中身はまるで別物である。視力はものすごく良くなっている。おそらく眼鏡で矯正したレベルよりもっとよく見える。そして怪力だ。キャンプのザック程度の重さならボールペンを持ち歩くノリで軽々運べたし、いままた、ママチャリでクルマに追いつく脚力を見せた。無意識の行動だったけれど、これはとんでもないことなのではないか? いや、最後は自分のアシで逃げるクルマに追いついたのだ。陸上百メートルの世界チャンピオンでも、そんなに早く走れるとは思えない。さらには自転車を持ったまま、クルマを跳び越えたのもあった。素手で楽にクルマのドアガラスも割った。ここまでくると、どう考えても人間業ではない。

 そしてこの空腹感。いままでの自分にはなかったものだった。これはもしや、超人的な活動の代償なのか? クルマに追いつくような走り方をしたから、莫大なエネルギーを使ったとか?

 ふと、まさかまだ自分はテントの中で寝ていて、これはすべて夢なのではないか? と考えた。夢ならば、どんなに人間離れした行為ができても不思議ではないだろう。が、さすがにいま夢を見ているのではない、ということくらいはわかった。夢を見ながら、これは夢だと自覚できたことはあるが、夢を現実と間違えるほどのリアルな体験はしたことがない。

 そのほかにも考えられそうなのは、たとえば並行世界というやつだろうか。魔法が使えて物理法則の異なる異世界はファンタジーだが、マルチバースの多重宇宙や並行世界は、いまやSFからまっとうなサイエンスとして考えられつつある。何がきっかけかはわからないものの、自分の意識が次元の壁を乗り越えて、超人太郎の世界へ飛び込んでしまった? しかし周りのみんなが同じように超人であるならまだわかるが、自分ひとりが超人化するような、都合のよい並行世界があるものなのか。可能性としてはもちろんあるのだろう。無限に存在するという並行世界なのだから、その中にひとつくらいは、ぼくだけ超人な世界もないとは言い切れない。

(いやぼくが次元を飛び越えたのではなく、むしろよその世界の身体がぼくの世界の身体と入れ替わった、もしくは乗っ取ったのか?)

自分で考えたことながら、ちょっとぞくっとした。知らないうちに乗っ取られる、というイメージが恐ろしかった。

(しかし意識がそのままだとすれば、乗っ取ったのはむしろぼくのほうなのか。うーん。わからないが、ぼくの意識が次元を超えても、別世界の身体が次元を超えても、自分にとっての結果は同じで、自分自身には区別のしようがないな)

しかし、身体の入れ替わりというのは、かなり正解に近いような気がした。

 ただ、脳ミソも変わってしまった、あるいは少なくとも身体の変化の影響を受けた、と考えられる根拠はあった。それは太郎が無意識に、いま自分ができることを、かなり正確に把握できているらしいということだった。

 自転車で誘拐犯のクルマを追う、という普通なら無理と思える行為も、それが可能だとわかっていたから、すぐに行動に移すことができた。大人の誘拐犯がクルマの中にいる、と知っていても、自分ならその大人に負けることがない、ということがわかっていたから、追いかけるのにためらいがなかった。素手で叩いても自分の拳ではなくドアガラスのほうが壊れる、とわかっていたから、ガラスを割ることを迷わなかった。

 いまならわかる。自分にそれができるとわかっていることを行うとき、やるべきことだと思えたならば、自分は行動に迷いがなくなる。つまり太郎は、どうなってしまったかもわかっていないくせに、自分の身体のことを、自分で考えているよりも正確に理解していることになる。これはいったい、何なんだろう? 結局肝心なところは想像がつかなかったものの、ひとまず、前の自分だったら考えもしないような行動に、迷いなく出ることができた変化については、なんとなく認識が落ち着いた。これなら、衝動に任せて動いたとしても、あまり大きな失敗はしなくてすむかもしれない。

(……いやまて、ちょっと待って)

その結果が、逃げる自動車にママチャリで追いつくとか、自転車背負った状態で、ジャンプしてクルマを跳び越えるとかになったわけで、それはたしかに失敗ではないかもしれないが、実は非常にまずかったのではないか。太郎は急に脂汗が出てくるのを感じた。

 できるか、できないかでは済まないことがある。注意していなかったが、キャンプの無人の河原ならばいざしらず、一連の行動を誰にも見られていなかった保証はないのだ。ここまで人間離れしてしまったら、人目をはばかる必要のほうが大きいのではないか。それでも、やらなきゃ良かったとは思っていない。いま腕の中にある温かみが、決して後悔などさせない。やるべきだったし、やってしまったことはいまさらどうしようもないが、しかしもう少し目撃者についても気を配っておけば良かったと思う。

 実は、目撃者は二組いた。


 田舎町とはいえ、白昼堂々の住宅道路であったことを考えれば、多くなかったのは事実だろう。そもそも短時間であったにせよ、対向車さえ見なかった。ただこれを、幸運にもたった二組しかいなかったと見るべきか、いや不運なことに二組もいたというべきなのか。

 片方は小学生低学年男子の二人組だった。

 目の前をものすごい勢いで走って行く黒いセダンに驚き、あれってスピード違反だぜ、おうスピード違反だな、と最近覚えた単語を二人で言い合ってすぐに、こんどは自転車が同じくらいのスピードで通過していった。乗っていたのは、自分たちより大きいが、大人ではない、つまり「お兄さん」であった。

「なにあれ、すげー。はえぇぇ!」

「自転車にもスピード違反ってあるんだっけ?」

二人いたことで、幻や見間違いではない、という自信になった。しかし、目撃したときの驚きそのままに、興奮して話す二人に対し、周りの大人は何をばかなことを、と取り合わなかったし、同級生たちには、ママチャリがクルマ並みのスピードで走るなどあり得ないとして、嘘つき呼ばわりされる始末だった。中には城崎ばりの自転車に関する記録知識を披露し、二人の話を否定する猛者もいた。そうこうするうちに、やがて二人も、もしかしたら現実というよりは、何かの超常現象を目撃したのでは、という気がしてくる。そうしてたどり着いた先は。

 都市伝説や怪談のたぐいに、クルマに追いついてくる人やバケモノ、というパターンがいくつかある。有名どころでは、ターボばあちゃん、ターボばばあなどといわれる、トンネル内で走るクルマの窓ガラスを叩く老婆の話であろう。やがて二人の見た自転車は、こうした怪談の恐ろしくローカルな派生パターンとして定着を見るのだった。爆走自転車、クルマよりも速い「ママチャリ兄貴」の爆誕である。

 扱いとしては、怖いというよりむしろ半ば笑い話であって、後年、太郎もこの話を耳にする機会を得るが、いろいろ話の尾ひれや細部の装飾もされたあとであり、もちろん出所が自分であるとは、最後まで気がつかなかった。


 太郎にとって問題だったのは、もう一組の目撃者のほうである。

 世羅せらことりは、誘拐犯のセダンがスピンに至る直前に遭遇した、ミニバンの中にいた。運転していたのは、ことりの父の幸夫ゆきおだった。後席にいたことりは、セダンが目の前を通り過ぎるところを見ていなかった。激しいスキール音と、それに続く金属質の衝突音。うわ、という父のびっくりしたような声。そこではじめて、事故が起きたらしいことを知ったのだった。セダンが動かなくなったのを見た幸夫は、しばらく様子をうかがったあとで携帯端末を取り出すと、警察へ電話し始めた。後席からでは事故を起こしたクルマの様子がよく見えない。ことりは前をのぞき込もうとしては父に押し戻され、そのうちに幸夫は警察との通話に気をとられ出したのだが、そのときフロントガラス越しにクルマの前を横切る二人の姿に、ことりは自分の目を疑った。どちらも知り合いだったからだ。

 一人は、ことりの通う中学校で同じクラスの穂村太郎。太郎に抱っこされているのが、従姉妹の世羅亜佳音せらあかねだった。亜佳音は大泣きしていたが、太郎の首にしがみついており、太郎が泣かせたわけではなさそうだ。それにしても、なぜこの組み合わせが? 二人がことりの知らないところで面識のある可能性も、もちろんないわけではないだろう。妹のいないことりに、亜佳音はよく懐いたかわいい年下の従姉妹であった。また太郎のほうはといえば、ろくに会話したこともなかったが、テストのたびに成績優秀者のトップに名前が載る賢い同級生だ。クラスの中でこそ地味で目立たないものの、学年でその名前を知らないものはいない。にわかに納得しがたい感情が湧き上がる。平たく言えば二人に対して

(わたしの知らないところで勝手に知り合いにならないで!)

という、いささか手前勝手な気持ちであった。

「お父さん!」

 ことりは大声で父を呼んだ。幸夫はいまいる場所を警察に説明するのに苦労しているようで、ことりの声に取り合わない。

「お父さん! 亜佳音ちゃんがいるよ! お父さんてば!」

なんとなくだが、二人を見たのに、太郎のほうは名前を出しそびれてしまう。

「ちょ、ことりうるさい! いま電話してるところなんだ、ちょっと黙っててくれないか」

「だってお父さん、亜佳音ちゃん……」

「あと! あとで聞くから! ……はい、そうです、はい。役場通りからですね……」

もう、と腹を立てたことりが前へ向き直ったときには、ことりの位置からはすでに太郎も亜佳音も姿が見えなかった。二人を見たのはごくわずかな時間だったので、いなくなってしまうと人違いだったかもしれない、と少し自信がなくなる。

(ううん、やっぱり穂村君と亜佳音ちゃんだった。間違いない)

と、今度は幸夫が大きな声を出した。

「あ! ちょっと、クルマ動き出した?」

事故を起こしたセダンが再度エンジンを始動させ、向きを変えて走り出そうとしていた。どうやら自走できなくなるほどのぶつかり方ではなかったらしい。

「あー! どうしましょう? 行っちゃう、走って行っちゃいましたよ。え、ナンバー? いや、見えないです、もうわからない。え、どうしたらいいですか?」

幸夫が焦って警察に説明しているが、当のセダンはすっかり見えないところまで走って行ってしまった。

「え、待ってろ? ここで待機するんですか? 私が!? そりゃ困りますよ、こっちだって都合ってものが」

どうやら警察は、幸夫に対して事故の現場に留まるよう要求しているらしい。

「えー、まいったなぁ。関係ないのになぁ。しかたない、すぐ来てくださいよ?」

人の良い幸夫が押し切られたようだ。警察がやってくるまで、クルマを停めてここで待つのだという。

「うっそぉ!? なにそれ。なんでわたしたちが? いつまで待つの?」

ことりは思わず遠慮のない文句をいうが、むっとした幸夫に睨まれて黙った。まもなく電話が切られ、幸夫はふうっと大きくため息をついてシートに沈み込んだ。それからことりのほうへ振り返る。

「まいったなぁ。やぶ蛇だ。……で、ことり。なんか言いかけてたな。なんだって?」

「え、だから亜佳音ちゃんだよ! さっき目の前通ったでしょ!」

ことりはようやく幸夫が話を聞いてくれるようになり、早口でまくし立てた。だが、電話に集中していた父は、姪の姿に気がつかなかったらしい。

「亜佳音ちゃんが? なんでだ。まさか一人でか。兄貴……武雄たけお伯父はどうした。一緒だったのか?」

世羅武雄は幸夫の実兄である。つまり、ことりにとっては伯父さんにあたる。まだ三歳の姪がこのあたりを一人で歩くとは考えにくく、保護者はいたのかと訊くのは言われてみれば当然の疑問だった。

「ううん、伯父さんも伯母さんも一緒じゃなかったよ。自転車をひいた……中学生くらいの男の子に抱っこされてた」

なぜそこで、太郎の名前が言えなかったのか、ことりにもよくわからない。同じクラスの男の子……もし名前を出したら、父に根掘り葉掘り訊かれそうで嫌だったのかもしれない。これが母親相手であれば、また違ったのかもしれないが、とりあえず知った顔だとは言いそびれてしまった。

「中学生? ふうん、まあいいか、あとで兄貴に訊いてみよう」

まずは、まもなく来るだろう警察に、見たものを説明しなくてはならない。

 10分ほどでパトカーが到着し、それから幸夫はクルマを降りると、目の前で起きた事故について警察官に説明を始めた。結局幸夫が解放されたのは30分以上もたったあとで、その間ことりはクルマの中で一人待たされたままだった。外から聞こえる話では、幸夫も事故についてそれほどよく判っておらず、クルマは見たが、人の出入りなどは知らない、といっていた。つまり、そもそもセダンの事故さえ見ていなかったことりにしてみれば、事故と太郎や亜佳音がつながっているということ自体、まだ考えもしていなかったのだ。

(それにしても、穂村君と亜佳音ちゃん。いったいどこでどうやって? 大泣きしている亜佳音ちゃんを穂村君が抱っこするって、どういう状況だったの?)

 いくら考えてもわからないものはわからない。明日学校で訊いてみようか。そう思って考えに沈むことりは、幸夫が戻ってきたのにも気がついていなかった。それを見て幸夫は、てっきりことりが待ちくたびれてへそを曲げたのだと勘違いし、触らぬ神に祟りなしとばかり、声をかけずにミニバンを発進させたのだった。

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