第2話
昼食後、母親からお金を受け取った太郎は、これも母親から自転車を借りて眼鏡店へと向かった。
「あんた、眼鏡無しで乗れるの?」
「え、そうか。うん、たぶん大丈夫じゃない?」
疑わしげな目で見られてどきりとしたが、なじみの眼鏡店では視力の急変がわかってしまう。普段行かない遠くの店まで足を伸ばすには、自転車の方が良かった。
「うーん、まだ食べ足りないかな」
ペダルを踏みながら考えるのは、食べ物のこと。じつは三度おかわりしたところで材料が尽きたサンドイッチも、もっと食べられそうだったのだが、京子の呆れた顔を見て控えたのだった。
「急にこんな大食漢になるなんて。やっと成長期が来たってことかしらね? それにしても極端だわね」
成長期だったらいいな。成長期であってくれ。太郎も心底そう期待した。
太郎の知る、「いつものじゃないほう」の眼鏡店は、太郎の通う中学を間に挟んで、自宅と反対側のほぼ対称位置にある。あいまいな記憶をたどりながら、このあたりだったはず、と探した眼鏡店は無事見つかり、太郎は度無しのいわゆる伊達眼鏡を作ることができた。中学生がわざわざ伊達眼鏡を? とややうろんな顔で店員から見られたのは仕方がないだろう。だが店主が親とも面識のあるなじみの眼鏡店では、その情報がそのまま家族に伝わってしまう危険性があった。
新たな眼鏡を手に入れて眼鏡店から出た太郎の目に、ふと不穏な光景が映った。自宅と反対側の少し先の路上。大柄な男が、幼児らしい子どもを無理矢理抱きかかえ、黒塗りのセダンの後部座席に乗り込んだのだ。女児に見えた小さな子が泣き叫びながら、閉まるクルマのドアの向こうに消えた。赤い小さな靴が片方、脱げて地面に転がっている。セダンはすぐさま急発進し、ものすごいスピードで走り去った。後に残されたのは、子どもの母親だろうか? 成人女性がおろおろと、何をしていいのかわからない様子で路肩にしゃがみ込み、ただ涙を流している。
太郎は考えるより先に自転車のペダルを強く踏み込んでいた。
まずは女性のところに走り寄ると、自転車に乗ったまま声をかける。
「お怪我はありませんか?」
「え? あ……け、怪我?」
女性はただひたすらにうろたえていて、太郎を見る目も焦点が合っていない。
「わた……わたし、あの、わたしは……」
これは会話すること自体難しそうだ。そう判断した太郎は、とりあえずどこも怪我のなさそうな女性にかまうのを諦めた。
「いまからあのクルマを追いかけます。もしできるようでしたら、警察呼んでくださいね」
「け、警察? あ、警察!」
なぜかそこだけ反応した女性を置いて、太郎はクルマを追い始めた。すでにセダンは遙か先だ。急がなければ見失ってしまうだろう。そして加速する自転車をさらに強く漕ぎながら、ようやく自分が何をしようとしているのかに気がつき、太郎はひどく驚いていた。
(あれ、たぶん誘拐だよな? で、ぼくはそれを追いかけようとしている? 誘拐犯を? なんで?)
しかも相手はクルマである。対して太郎の乗るのは、母親の自転車だ。どう考えても、普段の太郎なら、というか当たり前の人間なら、決してとらない行動だった。追いつくはずがないからだ。女性のところへ駆けつけたまでは良いとしても、並み以下の体格の中学生が大人の犯罪者を追いかけてどうしようというのか。そもそも、なぜこの自転車で追いかけようなどと考えたのか。せいぜい、パニック状態の女性の代わりに警察へ連絡するというところくらいが、まっとうな中学生の正義に基づく行動の範疇だろう。
(あ、なんか窓から捨てた?)
クルマの窓が開き、小さなものが放り出される。後を追って通り過ぎる際にちらと目を向けると、落ちていたのは子供用の携帯端末だった。おそらく所在を確認できるGPS機能が付いていたのに違いない。
(誘拐犯、確定かな。あー、ほんとにぼく、犯罪者を追ってるんだ)
なぜだ? 太郎がその答えに気づくより早く、正解を知ることになったのは、当の誘拐犯たちであった。
面倒なことは嫌いだが、この依頼はやり遂げねばならなかった。最大の難関は、やはり子どもをさらうことだろう。それがこんなにスムーズにやれるなんて。ツキがある、と思った。これならすべてうまくいきそうだ。
セダンの後部座席で城崎と
ふと城崎は、運転している
「……おい、元森。どうした? 大丈夫かおまえ」
ぎょっとして思わず声をかけたが、城崎の問いに元森の返答はない。代わりに、妙な質問を投げてきた。
「城崎さん。自転車って、時速何キロくらい出せるもんなんですかね?」
はぁ? 何を言ってるんだ? と思いながら、城崎は記憶にある数字を呼び起こす。
「世界記録は、たしか300キロに近いところまで来たと思ったが……そりゃ自転車っていっても空力考えたカバー付けて、オートバイに先導してもらって引っ張った挙げ句の記録だからな。そういう記録のための記録じゃないなら、そうだな、プロの競輪選手なら、60キロから70キロくらいは出せるって聞いたぜ?」
それが何だってんだ? と城崎が元森の真意を諮りかねていると、重ねて向こうから訊いてきた。
「いやいや、そんな高速仕様のチャリじゃなくてですね。いわゆるママチャリってやつですよ、俺が知りたいのは」
「なんだそりゃ。ママチャリ? そんなもん、スピードなんて言うほど出るわけねえだろう。いいとこ20キロとかそこらだよ。下手すりゃ陸上短距離選手の全力疾走のほうがはええんじゃねえか?」
「……ですよねぇ。俺もそう思ってました」
「なんなんだよ、おまえ。ならなんで訊くんだよ。ふざけてんのか?」
むっとして城崎が答えると、元森はそれを遮って叫ぶ。
「ふざけてなんかいねぇ!」
いきなりキレだした元森に、城崎は目を剥いて何か言おうとするが、うまく言葉が出てこない。
「ちょ、元森おまえ……」
「そうだよ、ママチャリだよ。前かごのついたやつだよ。スピードなんて出るわけねえんだよ。じゃあなんなんだよ、アレは!」
「おい、何言ってる? 正気に戻れ!」
常軌を逸した元森の様子に、城崎も焦りだす。なにしろ相手はハンドルを握っているのだ。つまりはクルマに乗った全員の命を握っているに等しい。
「わかんないんですか、城崎さん! 後ろから来てるんですよ、ママチャリ!」
何だと? ママチャリが来てるって、何の話だ。振り向いてリヤガラス越しに後ろを確かめた城崎の目に入ったのは、誰あろう、まさにママチャリで激走する太郎の姿だった。
「……ママチャリだ。うん、ママチャリ。……マジかよおい」
ぽかんと口を開けた城崎のつぶやきに、元森の泣きそうな声が被さる。
「俺、いま80キロ出してます! なのにあいつ、追いついてきてる!」
追いついて……来ただと?
自転車をひたすら漕ぎながら、太郎は少し焦っていた。
誘拐犯のセダンに着実に追いつきつつあるものの、思ったより時間がかかりすぎる。もっとスピードを上げたいのだが……。
(このままだと、自転車が壊れちゃう)
のであった。
太郎自身にはまだまだ余裕があった。もっと強く漕げるし、もっと速く回せる。しかし、それをやってしまうと、母親から借りたこの自転車は、まず壊れるとの確信があった。ペダルが折れるか、チェーンがちぎれるか、ギヤが欠けてしまうか。どこが最初に破損するのかはわからないが、一番弱いどこかが、間違いなく致命的な破壊を受けることになる。京子のママチャリは、これほどのスピードを出す前提では作られていないのだ。
眼鏡に続いて、借りた自転車も壊しちゃいました。それは言えない。絶対に言いたくない。
どうしよう? 悩んだ太郎の頭に、閃きが訪れる。
(これ、自分のアシで走る方が速くない?)
これ以上加速できない、いやいまでさえいつ壊れてもおかしくないママチャリに乗り続けるよりも、降りて走ろう。その方がきっと速いし、クルマに追いつくのも簡単だ。
思いつくが早いか、太郎はノーブレーキのまま自転車から飛び降り、着地と同時に駆け出した。自転車は、放置すればいまのスピードでどこかに激突して大破するのが目に見えていたので、着地のさいにフレームをぐっと掴んで持ち上げる。少々邪魔だが放り出すわけはいかない。背負うように持ち換えた。そうして自転車に乗った少年は、自転車に乗られた走る人と化したのだった。
太郎はセダンを追った。自ら走ることを選んだ選択の結果はすぐに出た。見る間に追いつき、間もなくテールランプに触れられるほどになったとき、運転者とルームミラー越しに目があった。
(……すっごい目の充血した人だなぁ。やっぱり誘拐なんてする人は、ちょっと病んでいるのかな?)
そこで太郎は、相手ににこっと笑いかけてみた。
元森は耐えきれずに悲鳴を上げた。
「ひいいいいいいいいっ!」
悪夢だ。でなければ何なのか。
首尾良く子どもをさらうことに成功し、あとはアジトまで連れて行けば終わるはずだった。なのに、なぜか後ろから、よりによってママチャリが追って来た。追って来たどころか、あっという間に追いついたのだ。漕いでいるのは、どう見ても屈強とは対極の細っこいガキだ。あり得ない。
それだけでも現実離れした光景だというのに、とうとうガキは自転車から飛び降りて、走り始めた。アクションスターのような振る舞いだが、動作はなめらかとはほど遠かった。全体に、ギクシャクしていてカッコ悪い。着地も、転ばなかったのが不思議なほどバランスを欠いていた。走るフォームだって美しいとは言いがたい。にもかかわらず、走った方がさらに速かった。あろうことか、ママチャリを担いだ姿勢で。狂っている。
そうしてついに追いつかれたその瞬間、ガキがミラー越しに、自分に向かってニタッと嗤ったのだ。こいつ、自分が俺たちに追いつけることを、知ってやがった。俺たちを追い詰めて楽しんでいるってのか! バケモノめ! もう無理。こんなの俺には、ぜったい無理だ。
そこへ破滅が訪れる。横合いから一台のミニバンがぬっと出てきたのだ。ギリギリのハンドル操作で、かろうじて衝突だけは回避した。だが、住宅地でこのスピードを維持できていただけでも奇跡のようなもの。思わず踏み込んだブレーキに、セダンはコントロールを失ってスピンした。後席から叫び声と悲鳴が聞こえた気がする。それをかき消すような激しいスキール音とともに、一回転、二回転したところで、セダンは三回転めに右側面を電柱にぶち当て、ようやく停止したのだった。
元森は、顔面に迫るエアバッグを目にしたのを最後に、意識を手放した。
(うわっと!)
いきなりスピンを始めたセダンに突っ込みそうになり、太郎は慌てて地面を強く蹴ると、その回転するクルマをぴょんと跳び越えた。ママチャリは背負ったままだ。
上から俯瞰したとき、側道に顔を出したミニバンが見えたので、セダンのスピンの理由がわかった。運転席の男性は、ぶつかりそうになったセダンを凝視していて、太郎のほうには気がついていないようだった。電柱に当たって止まったセダンの向こう側に降り立ち、太郎はほっと息をついて、壊さずにすんだ京子の自転車を背中から下ろした。
それからセダンにおそるおそる近づいたものの、ドアガラスはスモーク仕様で、中の様子ははっきりとはわからない。ドアレバーを掴んで開けようとしたが、当然のようにロックされている。
(うーん。緊急事態。ごめんなさい)
太郎は後席のドアガラスを拳でちょんと叩いて割った。ガラスは粉々になって崩れ落ちる。そうしてのぞき込むと、車内は一度膨らんでから萎んだと思しきエアバッグが、いくつもぶら下がっていた。手前にいたのは、子どもを抱えて乗り込んだあの大きな男だった。どうやら気絶しているようだ。男とエアバッグがじゃまで、中の様子はそれ以上わからない。太郎は割った窓から手を突っ込んでロックを外し、後席ドアを開けた。
ガラスの破片をトッピングした大男に手をかけ、ずるっと外へ引きずり出す。自分の倍以上も体重がありそうな相手だったが、まったく苦労はなかった。すると、男の腕に抱えられるようにして、さらわれた子どもがくっついてきた。こちらも気を失っている。顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
(かわいそうに。そりゃ怖かったよな)
一瞬、大男に対する怒りが湧いたが、それでもどうやら、スピンの瞬間には子どもを抱きかかえ、自分の身体を張って守ろうとしたようだ。
目的の子どもが出てきたので、男のほうは途中で放棄して、太郎は大男の腕から子どもの身体を優しく奪い返した。フリフリスカートの幼い女の子だった。靴は片方しか履いていない。三歳か四歳といったところだろうか。一人っ子の太郎には弟も妹もいないので、小さな子どもの年齢は、見た目だけでは判別がつきにくい。
ぐったりとはしているが、女の子が呼吸していることはわかった。ほかに怪我をしていないか心配になったものの、そこまで判断できる知識が太郎にはない。だが、とくに頭を打っていないかどうかは重要だろう。ここから動かしてよいものかと思案しつつ、太郎はただ腕に抱いた女の子を眺めた。
と、女の子が突然、ぱっちりと目を開けた。
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