第1話
テントの布地を通して差し込む朝陽に起こされ、
五月のはじめ、まだ山の朝の冷え込みは厳しい。
ぶるりと身震いしてから、太郎は目をこすり、寝る前にそばに置いた眼鏡を手で探してかけた。中学生になってすぐに視力が落ちてから、眼鏡とも既に二年あまりの付き合いである、もう生活の一部となった動作のはず……だった。
「うわ、なに?」
ぐにゃりとゆがんで見えた視界に、太郎は思わず一度かけた眼鏡を慌てて取り去った。
寝ている間に、まさか壊したのか? 寝相は決して悪くない。ましていまは寝袋にくるまった状態である。手や足で変形させることはないはずだし、頭で押し潰したらさすがに気づいて起きるだろう。
太郎はしげしげと手にした眼鏡を見つめ直したが、とくにおかしなことはない。見慣れた自分の眼鏡だ。どこもゆがんだり曲がったりせずに形は保たれているし、レンズに傷や汚れも見当たらない。首をかしげながら、もう一度かけ直す。
「わあ、だめだ!」
やはり視界がおかしい。度がまったく合っていなかった。
寝る前まで、昨日は普通に見えていたのだ、まさか一夜にして視力が急激に落ちるなんてことがあるだろうか?
と、そこまで考えて、ふと気づく。逆だ。
「……見えてる」
いま自分は裸眼である。にもかかわらず、テント内の様子がすべてくっきりと見えていた。むしろ眼鏡をかけていたときより見えている気がする。
「……なんで?」
つぶやいても、誰も応えてはくれない。もちろん自分自身だってワケなどわからない。それでも、いま太郎の視力は、眼鏡を必要としないだけのものになったのは確かだった。
とりあえず、眼鏡をかけなくても周りがよく見えるのだから、起きるのには何の支障もない。変化の理由を考えるのは諦めて、太郎はテントのジッパーを開け、外に出て伸びをした。
「うん、やっぱキャンプはいいな」
朝の河原に、動くものは自分以外誰も居なかった。ふと、昨日の夜にテントの中に入り込んでいた、小さめのトノサマバッタがいたこと思い出した。普通は初夏から姿を見る虫であり、いくらか異常気象気味に暑い日が続いたにしても、まだ出てくるには季節が早い。さすがに寒すぎたのか、外よりは暖かいテントの中でも、昨夜はじっと固まって動く気配がなかった。今朝はまだ中にいるのか、どこに行ったかな、と思って見回してみたが、どこにも姿は見当たらない。
ひとまずバーナーで湯を沸かし、コーヒーで暖まろう。太郎は昨夜のたき火がちゃんと消してあることを目の端で確かめながら、朝の支度に取りかかった。
太郎にキャンプを教えたのは父の
商社勤務で海外へ出ることが多い父は、少ないチャンスで一人息子と存分に、一日中触れ合うための手段として、キャンプへ連れ出すことを選んだ。といっても、浩太本人がもともとアウトドア志向だったわけではないらしい。太郎が生まれる前に、父と母が二人でキャンプをしていたと言う話も聞かない。そして浩太と太郎がキャンプに行くようになってから、母の
初めてのときは、建てたテントが五分でぺしゃんこになったのを、太郎はなぜかよく覚えている。それでも息子と一緒に手探りで作っていくキャンプは楽しかったようだ。経験不足ゆえにいくつかの手痛い失敗もあったが、浩太は必ずそれを笑い話にする明るさのある父だった。中学に上がる頃には、太郎のほうがむしろキャンプの技術で父を上回り、ついに海外への単身赴任で父不在となってしまってからは、一人で出かけるほどになっていた。
この河原は、昨年自力で見つけた穴場である。地図とネットの衛星写真を頼りに、ほかに誰も来そうにない、でも中学生がひとりでキャンプをしてもなんとかなりそうな、ほどよく辺鄙なところを探しては、良さそうな雰囲気の場所にあたりをつけた。そうして実際に来てみると、期待通りに孤独を楽しめるよい場所で、以来今回で三度目の訪問であった。
簡単な朝食を済ませて、今度は白湯を飲みながら、ぼんやりと周りを眺める。本当は二杯目のコーヒーを楽しみたいのだが、コーヒーは一日に一杯だけ、と決めていた。あまりたくさん飲むと身長が伸びない、という話を気にしているからだ。中学三年生のいま、太郎の身長は男子平均を大きく下回っている。有り体に言えば、太郎の背は低かった。幼い頃から、学校で身長順に並んだときに、三番目より後ろになったことがない。逆に一番前ならもちろん何度もあった。自分の身長があとどれだけ伸びてくれるのか判らないが、なんとか平均に迫るくらいには大きくなれないか、というのが太郎の切実な願いであった。
そんなことを考えながら見ている景色は、だが何かがおかしい気がした。
ふと覚えた、かすかな違和感。
とくに、自分に近いところほどそれが強くなるように思える。遙か彼方に見える山々には感じない何か。だが、具体的に何がおかしいのかはわからない。
「眼鏡がないせいかな?」
起きてからずっと裸眼で過ごすことはいまほとんどない。そもそも裸眼では生活が立ちゆかないのだ。だから、久しぶりに眼鏡無しで景色を見ていることが、違和感の原因なのかもしれない、と太郎は無理矢理に自分を納得させた。
「さて、そろそろ帰らないと」
連休は今日で終わり。明日からまた学校へ行かねばならない。受験生はつらい。
「いや、学校は受験生だからとか関係ないか」
ひとり突っ込み。周りに誰もいないキャンプの所作としては、それなりにふさわしいような気がする。
昼ご飯には帰ってくるよう母から言われており、手持ちの食料もほとんど残っていない。名残は惜しいが、戻らねばならなかった。場所柄、駅へ向かうバスは一時間に一本もない。時間を間違えると大変な目に遭うのだ。手早くテントをたたみ、拡げた道具類を片付ける。ゴミはもちろん、痕跡も極力残さないよう後始末を確認すると、ザックを背負った。
「ん? 軽い?」
ちゃんと計ったことはないが、ザックの重量は20キロを下らないはずだった。キャンプ慣れして来た最近になっても、たいして鍛えてもいない小柄な太郎には、決して楽ではない重さである。好きでしていることとはいえ、毎回苦労するボリュームの大荷物だったのに……軽い?
なにか詰め忘れたのかと心配になったが、残したものは何もなかった。しかし、いま自分はザックを重いと感じていない。これは何なのか。
太郎は薄気味悪くなってきた。起き抜けの眼鏡のこと、なんとなく気になった景色の違和感、そしていまザックの重さを感じないこと。なにか悪いことが起きているのではない。けれど、今日はずっと変なことが続いている。理解できないことがいくつも起きている。
「……帰ろう」
楽しいはずのキャンプが、どうにも妙な後味になってしまった。
場所が辺鄙なだけに、最寄りのバス停までの距離もかなりある。ザックを背負って歩くのは重労働……であるのに、最後までまったく手ぶらでいるような感覚しかなかった。駅まで乗っても、乗客が太郎のほかには二人しかいなかったバスを降りて、電車に乗って自宅へ向かう。感じているのは強い空腹だった。
小柄な体格に比例して、太郎の食は細い。小学生の頃に比べればそれなりによく食べられるようになったとは言え、お腹が空いて困るといった感覚はこれまでほとんど経験したことがなかったし、ちょっとの量でお腹いっぱいになってしまうのもいつものことだ。朝はキャンプの簡単な食事であったがいつも通りの量を食べており、昼時よりずっと前からこんなにも空腹感に悩まされるというのは、太郎にとって初めてのことだった。家に着く頃には、ほとんど飢えていると言ってもよいほどに強くなった空腹感に支配されて、太郎は大事なことをすっかり忘れていた。
「ただいま! お昼ご飯なに?」
帰るなり、食に関心のうすい息子にしていままで聞いたことのないようなことを言い放った太郎を見た母の京子は、だがその珍しい質問より何より、息子の顔をまじまじと見つめて逆に尋ねた。
「おかえり。……あんた、眼鏡どうしたの?」
「眼鏡……? あっ?」
見えているから気がつかなかった。いま太郎は眼鏡をかけていないのだ。
周りの人間にしてみれば、ずっと眼鏡が普通だと思っていた相手が急に眼鏡を外したら、誰だかわからなくなっても不思議ではない。さすがに母親が息子を見間違えたりはしなかったが、眼鏡無しに帰ってくれば、まずどうしたと訊かれるのは当たり前のことだった。
「えっと……いや、あの」
無しでも見えるから、とは言えない。言っても信じてもらえまい。言い訳を考えてくることをすっかり忘れていた。
答えあぐねて思わず絶句した太郎を見て、京子はふんと鼻を鳴らした。
「さては壊したのね?」
「……あ、うん。そう、壊した。ごめん」
「もう! あんたにしては珍しいけど……なんか危ないことしたんじゃないでしょうね?」
勝手に理由を思いついた京子の考えに、太郎はすかさず乗ることにした。
「大丈夫、それはしてない。ほら、どこもケガしていなし、荷物もなんともないでしょ?」
ザックを背負ったまま、くるりと回転してみせる。回ってから、これはこれで軽やかすぎたかもしれない、と焦ったが、とくに不審には思われなかったようだ。
「ならいいけど……じゃあすぐに眼鏡新調しないと、あしたから学校なんだし」
「あ、そうだね」
「? なんか乗り気じゃないわね? コンタクトはいやなんでしょ? 気が変わったの?」
まさか、もう要らないから、とも言えない。
「え、だってお金かかるし……」
「ばか言ってんじゃないわ。生活に必須のもの買わずにどうするってのよ。子どもがそんな心配しないの」
ぺちんと頭を叩かれた。
「お腹空いたんでしょ? 早く荷物下ろしてらっしゃい。お昼はサンドイッチ」
そうしてキッチンへ向かう京子に、太郎はありがとうと言って二階の部屋に上がった。まったくうっかりしていたと反省すると、あわせて激しい空腹を思い出した。
その日の昼食に、太郎はおかわりを三度して、母親の目を白黒させた。
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