四十三 刑部(三)

 りょうと共にたい殿でんの刑部へと出向いたれんは、省舎の中へ入り長い廊下を歩きさらに回廊を通って庭くらいの広さがある空き地へと辿り着いた。

 そこは土壁で三方を囲まれ、地面には土だけが敷かれており、庭木どころか雑草の一本も生えていない。

 薄曇りの空の下、王とその妃のために並べられた椅子の横には大きな日傘が立ててあり、その背後に刑部省の省舎の軒先があった。

 てっきり取り調べは室内でおこなうものだとばかり思っていた蓮花は、むしろもなにもない土の上にそのまま正座させられているそんまつを目にした途端、あまりに哀れな姿に胸を締め付けられた。

 先日は夜ということもありよくわからなかったが、獄舎で捕らえられていた巽茉梨は頬が痩け目が窪み、痩せ細った手足には擦り傷などがあり、髪は土や埃にまみれて乱れている。かつては美しかったに違いないじゅくんは汚れ、一部は小火のためか焼け焦げている。

 荒い縄で後ろ手に縛られ、獄卒に両脇を抱えられるようにして身体を起こしているが、双眸は虚ろだ。

 多少曇っているとはいえ温かいはずの風に身体を震わせ、獄卒の支えがなければそのまま地面にうずくまりそうな様子だった。


「これより取り調べを始める」


 王と妃が椅子に腰を下ろすのを待って、四十をすこし過ぎた年の頃らしき刑部省の長官が、低い声で宣言した。

 書類を手にした次官が、淡々とした口調で罪状を読み上げる。


「巽茉梨。そなたは王宮から追放され、実家である巽家へ戻された身であるにも関わらず、勝手に王宮に侵入し西にしよんぐうに居座った。さらにきんしゅうぐうに火を放ち、殿舎を焼くという暴挙を犯した」


 ぼんやりと虚空を見つめている巽茉梨は、次官の説明を聞いているのか聞いていないのかわからない状態だった。

 ところが途中で、はっとしたように大きく目を見開いた。


「あ…………うっ…………」


 まるで喉になにかが詰まったようなうめき声を上げて、巽茉梨が身体をよじる。

 獄卒ふたりが慌てて様子を見ようとひざまずき、巽茉梨の顔を覗き込もうとした。

 その瞬間、巽茉梨の手を縛っていたはずの荒縄がばらばらと崩れるようにほどける。

 巽茉梨はどこにそのような力が残っていたのかと驚かずにはいられないほど素早い動きで獄卒のひとりが腰に帯びていた剣の柄を握って鞘から抜くと、自分の腕よりも太い剣を振って獄卒の胸を横に線を描くように切り裂いた。


「捕らえよ」


 次官が声を上げると同時に、周囲に控えていた武官が巽茉梨を取り囲む。

 椅子に座っていた蓮花が目の前の光景をはっきりと認識する前に、稜雅がその視界を遮るように立ち塞がる。

 稜雅は自分の腰の剣を鞘から抜くと、いつ巽茉梨が飛びかかってきても応戦できるように体勢を整える。


(あれは、正気ではないのでしょうね)


 巽家の令嬢として育った巽茉梨が剣術に長けているという話は聞いたことがない。

 そもそも巽家は武術に秀でた家柄ではないので、娘に剣術を教えるような真似はしていないはずだ。

 斬られた獄卒は悲鳴を上げている。

 風が蓮花のところまで血の臭いを運んできた。


(巽妃が足掻いているわけではなく、彼女はなにかに操られている様子に見えるわ)


 椅子から腰を上げた蓮花は、肩巾ひれで鼻と口を押さえた。


(彼女がなにか喋るのを阻止しようとしている者がいるのかしら)


 血の臭いに混ざって、別の異臭が漂ってきている。

 蓮花は浅く呼吸をしてできるだけ臭いを吸わないように意識したときだった。


「うわぁっ!」


 獄卒なのか刑部の官吏なのか、若い男の悲鳴が上がる。

 稜雅が剣先を巽茉梨に向けたまま数歩前に進む。

 その瞬間、稜雅の背中で視界を遮られていた蓮花の目に、血まみれの巽茉梨がちらりと映った。

 彼女の足下には傷を負った男が転げ回っている。


「ご、しゅ、じん、さ、ま…………あ…………ぁ」


 巽茉梨の喉から漏れるのはかすれたうめき声に近い言葉だ。


「……お、きさ、き、さま……に……ぁ」


 官吏たちの緊張が一気に高まる。

 刑部省の長官、次官も剣を抜き、巽茉梨を警戒する。

 蓮花も自身の背中に汗が伝うのを感じた。


(嫌な気配がする。巽妃が正気を失っているからではなく、まるでしょうのようなものを感じるわ……)


 ここにねいねいを連れてくることができれば一番良かったのだが、稜雅が許してくれなかった。


(巽妃は、じゅん様が呪われていることを知っていたのではないの? それでいて、その呪いになんらかの形で利用されていたということもあり得るのでは?)


 かつてゆう隼暉の屋敷に持ち込まれた呪物がいまどこにあるのかは不明だ。

 隼暉に呪いとして取り憑いた後、そのまま王となった隼暉と一緒に王宮に入ったのか、それとも別の場所に残っているのか、隼暉邸の惨劇を目撃した息子は語らなかった。語れるような情報を持っていないからか、まだなにか隠しているかのどちらかだろう。


(巽妃は、西四宮に密かに戻ってきた後、本当にただ隠れ住んでいただけなの? あの荒れた殿舎で、ひとりでなにをしていたの?)


 聞かなければならないことはたくさんあるのに、喉から声を失ったように蓮花は喋ることができなかった。

 男の次々と上がる悲鳴が耳に響き、恐怖と不快感で胸がつまる。

 思わずよろけるようにして前に進むと、稜雅の背中の衣を片手で強く握りしめた。


「目をつぶっていろ」


 稜雅が低い声で告げる。


「耳も塞ぐんだ」


 蓮花は言われた通りに強く目を閉じると、両手で耳を塞いだ。

 それでも空気を切り裂くようなわななきき声を肌で感じる。

 いつまでそうしていたのか、両手首を掴まれ塞いでいた耳から無理矢理引き剥がされたときには、声は止んでいた。


「もう、目を開けて大丈夫だ」


 耳元で稜雅の声が響く。

 ゆっくりと蓮花が瞼を開けると、目の前には稜雅の広い胸元があるだけだった。


「巽茉梨が消えた」

「え?」


 蓮花は顔を上げて稜雅を見つめる。

 視界は相変わらず遮られたままで、稜雅は蓮花の視界を自分の身体で覆っていた。


「突然身体が崩れて土の中に染み込むようにして消えた」

「崩れ、る、とは?」


 説明された状況が理解できず、蓮花はなんとか声を絞り出しながら尋ねた。


「血だまりの中に溶けるように身体が形を失っていった」

「……血だまり」


 復唱した蓮花は、ぐらりと自分の身体が傾ぐのを感じた。

 目眩に襲われたのだ。


(夢の中で見た……血の池……)


 稜雅の衣を手で掴もうとするが、指に力が入らない。

 まだ辺りは異臭が漂っている。


(巽妃は犠牲者のひとりだったのよ。生きて後宮から逃げ出せたように見えたけれど、実はまだ後宮から抜け出せていなかったのよ)


 だから後宮に戻って来るしかなかったのか、と蓮花は納得した。

 一度は出て行った後宮に、なにものかによって呼び戻されたのだ。だから彼女はあのような姿になっても西四宮に留まることに固執したのだろう。


(巽妃が実家で辛い目に遭っていたというのも、隼暉様に取り憑いていたの仕業であるなら、呪いは後宮の妃たち、特に隼暉様の寵愛を受けた妃にも広がっていたと考えられるわ)


「蓮花!」


 稜雅が崩れ落ちるようにして倒れる蓮花を抱きかかえる。

 意識を手放す寸前、蓮花の視界には地面に散らばる血まみれの巽茉梨の襦裙と、傷を負って倒れている官吏たちの苦痛に身悶える姿がぼんやりと映った。

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